昭和13年4月には「国家総動員法」が広布され、戦時体制が強まった。日本軍は中国で残虐な行為を続け、“盟友”のドイツではユダヤ人の大虐殺が始まろうとしていた。この頃、牧口は「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」を出版し、「仏法の極意に基づかなければ、教育の革新は到底できない」と、「世界平和の実現」を厳然と論じた。
明治の日本の名外交官として歴史を残し、創価教育学会の顧問も務めた秋月左都夫(あきづき・さつお)氏は、牧口に、こう語っている。
「あなたは、日本人としては偉すぎる。言葉を変えれば今の日本人はあなたの見識に驚嘆するほど賢くない」と。
秋月氏も、牧口の戦いが花開くのは100年先になるかもしれないと展望していた一人であった。
昭和17年、太平洋戦争の開戦から、半年余りたっていた。初めのうち、日本は連戦連勝だった。しかし、すぐに行き詰まり、転落が始まった。それなのに、国民には「ウソ八百」の情報しか流されなかった。国民は本当のことがわからず、「すごい日本だ」「神国日本だ」と、国中が連勝気分に酔っていた。しかし、牧口はすでに日本の厳しい戦況を鋭く見抜いていた。同年5月、創価教育学会の第4回総会で、牧口は訴えた。
「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」と。
わからずやの悪人ばかりのなかに入って大善を教えるのは、”敵の前に上陸する”のと同じであるというのである。軍部国家からの迫害があるのは当然であった。この5月、機関紙「価値創造」は廃刊させられた。
大戦が進むにつれ、日本は日ごとに国家主義の色を深めていった。
時はあたかも、天皇主権、国家神道という天皇の存在そのものが絶対化・神聖化されていくなか、軍部は国民思想の統制をはかるため、特別高等警察(特高)を組織し、言論・集会等、国民生活すべてを監視していった。
国家の主張に背くものには尋問と称しながらの「拷問」が加えられ、国益だけを追求する思想を受け入れるほかはなかった。国民の意識は硬直化し、戦争という愚かな国策によって家族を奪われても、「お国のため」と、沈黙し続けるほかになかった。
このような状況下、軍部勢力は、諸宗教団体に対して大麻(おおぬさ:神札)を祀ることを強要していった。個人・団体の思想信条を否定し、国家神道を受け入れさせることにより、徹底した思想統制をおこなったのである。例外なく創価学会・牧口のもとにも権力の手が忍び寄ってきた。
危険を恐れ、他団体は次々に迎合し、神札を受けることを正当化していったが、牧口は一人立ち向かっていった。彼は個人として神札の受け取りを断っただけでなく、一般の会員に対し神札・神棚等を焼却するように指導したのである。
このとき牧口がおこなった「神札拒否」という行動は、”一宗教家”として個人の信条を貫き通すというだけの行為だったのであろうか。
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「私が嘆くのは、一宗が滅びることではなく、一国が滅びることなのだ」
牧口には、「国家」とは、「国民の幸福」という目的にむかって努力すべきものであるとの信条があった。しかし牧口の眼前には、軍国教育を強いられる子どもたち、我が子を戦地へと送り出す母親、悲しみを殺して万歳を叫ぶ家族たちの姿があった。このままでは、たとえ戦争に勝利しても、その先にあるものは人間不在の国家である。
牧口の心には、国家のために国民が利用され、人間性が押しつぶされることに対する激しい怒りがあった。だからこそ、国家神道という宗教を利用して人間を隷属させようとする権力に対し、真実の人間として戦いを起こしたのである。真に目指すべきは、自他ともの幸福を追求する“人道的競争の時代”“ヒューマニズムの世紀”であると―。
機関紙「価値創造」は、1942(昭和17)年5月廃刊となる