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s3731127306の資料室

2018-04-13

「じゃあ「気持ち悪い」と言えなくなるまでポリコレ棒で殴られて下さい。」を読んで   (副題:フェミニズムにおける”痛覚”の必要性)Add Star

この記事を読んだ。

「じゃあ「気持ち悪い」と言えなくなるまでポリコレ棒で殴られて下さい。」
http://pokonan.hatenablog.com/entry/2018/04/07/172318

マジョリティ男性の「(自身の)ホンネ」への”よりかかり”を批判することについては筆者はほぼ同意見である。
ただ、以前から大変気になっていた、性差別反対運動のある”弱み”がここでも見られると思ったので、書いておこうと思う。これについては、反論があればぜひコメント欄に寄せてもらいたい。

 筆者の考える”弱み”とはなにかというと、簡単に言えば「〇〇(この場合ではここにマジョリティ男性が入る)さんの爪の垢を煎じて飲め!」という反論がほとんど見られない、ということに尽きる。
 もちろん、いろいろの記事やニュースから判断して、そのようなマジョリティ男性が本当にごくわずかだというのは理解できる。しかし、性差別の例で言えば鹿野政直(近代日本女性史)氏や村瀬幸浩(性教育)氏のように、たしかに尊敬に値する論者というのはいる。
 それに、考えてみてほしい。たとえばあなたが同性愛者(性別は何でもいい)だとして、
「過去の歴史で、同性愛運動をしていてかつ性の公平性を最大限重んじるよう努力するような、尊敬に値する人間はただの一人もいなかったけれど、まあがんばってくれ。」
というのと、
「過去の歴史で、同性愛運動をしていてかつ性の公平性を最大限重んじるよう努力するような、大勢の人々から尊敬された××さんという人がいた。あなたも、この人をこえるぐらいに全力をつくしてがんばってくれ。そうすればあなたは死んだ後も大勢の人たちから尊敬されるはずだ。悪い気はしないだろう?」
というのと、どっちが自信をえられるか、どう考えても後者に決まっているだろう。人間においては何でもそうだと思うのだが、不完全でも先例がいるのといないのとでは自信の強さがちがってくるのは、当たり前の事実である(完全無欠な人間などいない、というのは一応置いておく)。
 しかし、筆者がtwittertogetterで検索して調べた限り、前に挙げた二人をとりあげた記事は、それこそ不自然なぐらいごくわずかだった。筆者の検索の仕方がまちがっていたのかもしれないが……。フェミニズムに関心を持っている人間が多数いるはずなのに、この結果はやはり、フェミニズム受容層の側に何らかの問題があるとみなしたほうが妥当だろう。筆者の考えでは、「運動史・研究史への一般的軽視」が大きな原因だと思っている。

 筆者が、多数の被害当事者の怒りを受けるかもしれないと覚悟して、なぜこのような記事をわざわざ書くのかといえば、朴裕河”事件”で決定的に無残な言動をさらした、上野千鶴子氏のことがあるからである。
 筆者は、「まっとうな人間であるほうがまっとうでないよりはるかにいいはずだ。だから、まっとうな性意識をもつ男性でありたい」という、ある意味で単純な動機からフェミニズムを学びはじめた。その中で、「自分は去勢手術したほうがいいのではないか」とまじめに考えたことが2回ほどある。それは安易だったかもしれないが、筆者なりにごまかしなしに考えた結果のつもりである。その点からいわせれば、上野氏のような人間が「代表的フェミニスト」と一般的に思われているのははっきりいって異様であるし、あとあと(すでに?)大問題になるとしか思えない。個人的にいえば、以前からいろいろといやな予想があったとはいえ、あの”事件”以後の失望は決して小さくはなかった。このことははっきり言わせてもらう。
 まじめにフェミニストとして生きたいという(ごく少数派の)マジョリティ男性が、「上野さんみたいなすごく”不公平”な人がフェミニスト代表としてあつかわれていたら、他の男性が「フェミニストはやっぱり不公平な連中だ」とどうしても誤解される」と言ったら、いろいろのフェミニストたちはどう答える気なのか。筆者としてはこれは正当な疑問だと思うし、個人的にもかなり気になっている。口に出して言わないまでも、上野氏への失望と怒りを感じている人も多いと筆者は予想しているのだが……。
 これと関連して、筆者は個人的な予想として、まじめに学ぼうとしているマジョリティ男性学生に対して、それを”あしらう”ような言動をしたことがあるのではないか、と気になっている。この推測については、上野氏とアジア女性基金に関する鈴木裕子氏の著作を読んだことが特に大きい(興味のある方は「資料集 日本軍慰安婦」問題と「国民基金」」を読んでいただきたい)。そういうことがなかったとしたらまったく一安心なのだが、あったとしても正直にいって驚かない。
 上で挙げた鹿野政直氏は、「学問としてワクをつくってしまうと、”痛覚”を見失ってしまうことがよくある。」とはっきり言っている。いまの上野千鶴子氏は、どうなのだろうか。



参考:
「戦争虐殺の責任、「自己否定」でなく「被害者との連帯」から出発を」
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/29962.html

「「論文「自立した関係をめざして」に対する私の意見」/「論文朝鮮統一は在日朝鮮人問題を解決するか」に対する私の意見」の紹介」
http://d.hatena.ne.jp/s3731127306/20170724/1498650125

痛覚から築く人文・社会科学―屋嘉比収さんの生の在りよう」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120004623119

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