「君たちはどう生きるか」のなかの、一度の経験の中に、その時にとどまらない、私達にとっての本当の思想が形成される、というのには、ハッとさせられます。
私にとって、それは具体的にどういうものであるのか、私自身の経験したことのなかから3つを取り上げて、書いてみます。
目次
1.君たちはどう生きるか、第2章 勇ましき友・真実の経験
2.私の経験
(1)補欠・不覚の涙
(2)大型案件の契約獲得
(3)脱サラで成功
1.第2章 勇ましき友・真実の経験
おじさんのノートから
僕やお母さんは、君の亡くなったお父さんといっしょに、君に立派な人になってもらいたいと心から思っているけれど、ただ君に、学業ができて行儀もよく、欠点のあげようのない中学生になってもらいたいとか、大人になったとき、世間の誰からも悪くいわれない、難の打ちどころのない人になってくれとか、言っているわけではない。
人間として、この世に生きているということがどれだけの意味のあることなのか、そのことについて、君はこれから書物を読み、立派な思想を学んでゆかなければならないが、肝心なのは自分の体験から出発して考えてゆくということだ。体験の中から君がしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことに、自分をゴマ化さないで真正面から向き合うことだ。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、ある時、ある場所で、君がある感動を受けたという、くりかえすことのないただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが本当の君の思想というものだ。常に自分の体験から出発して、君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはならない。
2.私の経験
補欠・不覚の涙
私のいた小学校は、バスケットボールが強く、地方の大会に出ればいつも上位に入っていました。私は、昼休みになると、家の近所に住んでいた同じ小学校の3年うえのNさんに誘われて、小学校の講堂でバスケットボールに興じていることがよくあり、いつの間かバスケットボールは得意になっていました。で、当時、小学校にバスケットボール部みたいなものがありましたので、私は入部したいと思っていました。私が4年生の頃には、どういうわけかわかりませんでしたが、私の同学年の生徒や1年後輩の生徒が何人かすでに入部していました。私が念願の入部ができたのは、5年生の後半か6年生の前半の頃だったと思います。私はバスケットボールに自信を持っていましたが、入部してみると、先に入部していた同学年や1年後輩の生徒との力量に差がありました。結果、私はレギュラーになれず補欠でした。
6年生のとき、バスケットボールの地方大会がありました。6年生の補欠は私を含めて3人いたと思いますが、試合に出場できたのはほかの2人で、私は1人出場できませんでした。
大会が終わって、後日、小学校の教室を使って反省会がありました。指導にあたったK先生がいろいろ話されましたが、最後のところで、私を出場させることができなくてすまなかった、という一言がありました。
私は、一番後ろの座席に座っていましたが、不覚にも涙がポロリと落ちました。後部にいたため誰にも気づかれなかったと思いますが、横に座っていた1年後輩で、私と同様に試合に出場できなかったH君がちらっと私の方を見た気がします。
私は、地方では裕福な家に育ち、運動もそこそこでき、学業の成績は優秀でした。そういう恵まれた環境に育った私にとって、補欠で試合に出場できなかった経験は、かけがえのないものとなっています。
大人になると、いろいろな集まりがありますが、私は、弱い立場の人に気がつきますし、その人の気持ちになろうとします。そして、声をかけることができます。
私は、運動会の短距離競走ではいつも4番か5番であったことをはじめ、劣等感を抱いた経験はほかにもありますが、補欠で試合に出場できなかった経験ほど、強く私の心の中に残っているものはありません。家庭環境に恵まれて大した苦労もなく育った私にとって、この経験がなければ今ほど弱い立場の人に気を配ることはできないのではないかと思っています。この経験は、私にとって、人生で一番大切な人との交流をよい方向に導いてくれる宝物だと思っています。
大型案件の契約獲得
バブルが崩壊する前、土地有効利用が盛んに行われていた時期がありました。その頃私は、中堅のデベロッパーで土地の有効利用を手がけていましたが、2~3年かけてオーナー(土地所有者)を説得し、大型事務所ビルの土地有効利用に漕ぎ着けたことがあります。
この経験は、私の中で大変大きな比重を占めるものです。オーナーからゴーサインをいただいたときの私の感動は今でも決して忘れません。誰もがそうそうできない貴重な経験をさせていただいたと思っています。
殆んどの名だたる不動産会社や建設会社がこのプロジェクト競争に参加しているなかで、2~3年もかけて契約に漕ぎ着けたのです。何度も何度も諦めようと思いましたが、そのたびに踏んばりました。オーナーを説得するために、持参した資料は膨大なものとなりました。
後日、思ったことは、「勝負の分かれ目は諦めようとしたまさにその時」ということでした。私のライバルは踏んばりきれなくなって競争から脱落していったのです。
この貴重な経験は、私の人生にとってどういう意味があるのか考えてみます。
大きな仕事を成功させるには、半端なことではできません。オーナーを説得するための材料が必要でしょう。時代の流れに合うというか、タイミングも無視できません。いろいろな条件が揃わなければなりません。そして最後まで決して諦めないことも大切です。しかし、何といっても決め手になったのは、積極的な対応であり、誠心誠意ではなかったかと思っています。オーナーの立場に立って、オーナーの心を動かすだけの積極的な働きかけであり、いきつくところ誠心誠意ではなかったかと思っています。誠心誠意というと、何だそんなことかと言われてしまいそうですが、私のなかでは、大型案件の契約をとったという経験に裏打ちされています。何だかんだといっても、結局は、誠心誠意こそが、岩石のような固い人の心をも打ち砕くのです。
(当ブログ参照 成功と失敗・勝負の分かれ目は諦めようとしたまさにその時 2016/09/23)
脱サラで成功
私は52才で会社を退職し独立したことで、私の周囲のサラリーマンの方から一様によく独立できましたね、といわれました。30才~40才というならまだしも50才すぎてからの独立は到底考えられなかったことだからでしょう。私は独立しましたが、クライアントは殆んどいない状態でのスタートでした。案の定、スタートして2年が過ぎると資金が底をつきました。
私は独立にあたって、積極的態度ですべて貫こうと決心しました。積極的態度をもってすれば何一つ恐ろしいものはない。必ず道は開けるに決まっていると心に言いきかせました。
独立したての頃に、わずかな報酬ですが、下請の仕事に預かりました。2年近く続いたと思います。私は、下請の仕事でも決して手を抜きませんでした。少しでも良い仕事をしようと積極的に対応しました。下請の仕事に全精力を注ぎ込んだのです。不思議なことに、資金が底をつきかけたときから、地方公共団体や裁判所や民間から仕事が入ってくるようになりました。もちろんそれらの仕事にも積極的態度は崩しませんでした。今、独立してから20年経ちましたが、脱サラは成功したと思っています。
私の経験は、どんなことでも積極的態度で挑めば道が開けるということを教えてくれます。
(当ブログ参照 脱サラで成功するうえで最も大切なこと(私の経験から)2017/01/24)
上記のほかに
当ブログに以下のものも掲載しています。
是非読んでいただきたいと思います。
君たちはどう生きるか ー 漫画・原作 要約・名言そして感想(2018/03/09)
生きているだけで十分仕合わせだ。それ以上何を望もうというのか(2016/09/16)
2年目のジンクス 信じられない気の緩み 1年目の倍近い練習が必要(2016/09
インスピレーション 論理の積み重ねを超えて真実に達する(2016/09/25)
生きる知恵「ゴーサインは一呼吸置いてから」で間違いを防ぐ(2016/09/28)
人生は蒔いた種どおり 親の介護をするのはどの子供(2016/10/14)
真の幸福感 土地の有効利用でのオーナーとの出会い(2016/12/16)