現在、日常において声を発する機会がない。文を書くことが生活の中心にある。人と会わなければ声は不要である。そして分かったのは、声を出すことは健康によいという単純な事実だ。失なってはじめてわかる、声を出す機会の大切さ。
コンビニ店員と最低限のやりとりをする。あたためますかとたずねられて、はいと答えるとき、自然と声が出ないことにおどろく。「はい」と言ったつもりが、「すぁい」みたいな、かすれ声しか出ない。声もまた筋力と同じように衰えるのだ。
そのことに気づき、次はすこし大きめに声を出してみるんだが、今度は極端に元気のよい声が出てしまう。「ハイッ!!!」というふうに。声量のコントロールがバカになっている。あんなものは、新兵が上官に命令されたときのハイだった。おまえは上官に弁当をあたためてもらうのか。
接客業をしていた頃は、毎日大声で挨拶していた。私がちゃんと接客をする人間であることも大きい。接客用の別人格を用意して、それを自動操縦にしておく感じ。当時は何も思っていなかったが、あれは健康にとって最高だった。毎日六時間ほどあちこちを動きまわり、数分に一度は大声で「いらっしゃいませ!」と叫ぶ。合法的にそんな健康なことができて、しかも金がもらえる。
文章と健康
文を書くことと健康の関係にも興味がある。日常的に文を書くこと、それを職業的なものにすることは、当然、人付き合いをへらすだろう。運動もへるし、発話もへる。座りっぱなしである。
『徒然草』の序段に、「つれづれなるままに、日くらし硯に向かいて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」とあるが、これを適当に現代語っぽくしてしまえば、「ひまをもてあまして一日中パソコンに向かい、心に浮かんでくるどうでもいいようなことをなんとなく書き続けていると、やばいくらいに頭がおかしくなってくる」ということじゃないのか。
最近、色々と古い小説を読み返しているが、漱石にしろ、太宰にしろ、芥川にしろ、読んでいると「このひと体調悪そうだな」と思う。とくに後期になるほど顔色が悪くなっていく印象だ。それが作品として良くないとかそういう話じゃなく、むしろこの三人の文章はどれも好きなんだが、もっと素朴な感想として、単純に元気がない。大音量で音楽をながしながら河原でバーベキューをしていそうな文体ではない(そんな文体はあるのか)。
文章には体調が出る。このへんの問題に気づいたのが、三島由紀夫(ボディビル)だったり、村上春樹(ランニング)だったりするんだろうか。ここで選ぶ競技にも個性が出そうだ。三島由紀夫はその都度ポーズをきめていくような文章を書くが、村上春樹の文は先へ先へと進んでいこうとする。