私たちはなぜ、初対面のひとにすぐにレッテルを貼ってしまうのでしょうか。
どのような相手にも偏見なく平等に接しなくてはならない。これはもちろん大切なことですが、このような道徳が進化の過程で選択されなかった理由はちょっと考えればわかります。危害を加えようとする相手に、「怖い」とか「あぶない」とかの先入観なしに近づいていった“良識”あるひとは、子どもをつくる前に死んでしまったので、私たちの先祖にはなれなかったのです。
しかしいまでは、世界はずっと安全になりました。かつてのように人種や宗教のステレオタイプで「敵」を見分ける必要はなくなり、その弊害ばかりが目立つようになったのです。
差別や偏見は徐々になくなってきているとはいえ、ステレオタイプには大きな問題があります。それが「自己成就予言」です。
女子生徒が数学のテストを受けるとき、「女子は男子に比べて数学の成績が悪い」というデータを示すと実際に成績が大きく下がります。黒人の生徒では、「自分が黒人である」と意識させただけで試験の成績が下がることがわかっています。ステレオタイプが社会に広く共有されていると、「劣っている」とされる少数派(マイノリティ)は、無意識のうちにネガティブなイメージを受け入れて、そのとおりの結果を招いてしまうのです。
高齢者のなかでも年をとることを否定的に感じているひとは、喫煙のような健康に悪い習慣があり、心筋梗塞などの心疾患を起こしやすいことがわかっています。だとしたら、このステレオタイプはどのようにつくられたのでしょうか。
研究者はそれを知るために、1968年までさかのぼるデータを使って、18歳から49歳のアメリカ人約400人が老人に対してどのようなイメージをもっていたかを調べ、その後の(2007年までの)健康状態と比較しました。すると驚いたことに、若いときに老人に対してネガティブなステレオタイプをもっていたひとは、そうでないひとに比べてずっと心疾患を起こしやすかったのです(老人に対してネガティブだったひとの25%が心疾患を患ったのに対し、ポジティブだったひとは13%だけでした)。
被験者を18歳から39歳までに絞って、60歳までの心疾患との関係を調べても同じ結果が出ました。性別を除けば、還暦までに心筋梗塞などを起こすかどうかは若い時のステレオタイプ(老人への偏見)で説明できたのです。
人種や国籍、性別や性的指向など、差別や偏見は通常、自分とは「ちがう」相手に向けられます。ヘイトスピーチを平然と叫ぶことができるのは、「俺たち(日本人)」と「奴ら(外国人)」のあいだの境界線が明確だと思っているからです(だからネトウヨは外国人参政権や帰化に反対します)。
ところが高齢者を「ヘイト」していた若者は、やがて自分が高齢者になったことに気づきます。しかしそのときには「予言」は自己成就し、健康を害して早世するか、偏見のとおりの「みじめな老人」になってしまうのです。
参考文献:Becca R. Levy, etc. “Age Stereotypes Held Earlier in Life Predict Cardiovascular Events in Later Life” Psychol Sci. 2009 March
『週刊プレイボーイ』2018年4月9日発売号 禁・無断転
この文章と、
言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書) 橘 玲
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が、反対なことを言っていて平気なところが橘さんの最大の矛盾点なのです。
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ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。
この社会にはきれいごとがあふれている。人間は誰しも平等で、努力すれば必ず報われ、〝見た目″はそれほど大した問題ではない――だが、それらは絵空事である。往々にして、努力は遺伝に勝てない。知能や学歴、年収、犯罪癖も例外ではなく、美人とブスの「美貌格差」は生涯で約3600万円もある。また、子育ての苦労や英才教育の多くは徒労に終わる……。進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が次々と明かす「残酷すぎる真実」。読者諸氏、遺伝、見た目、教育、性に関する、口には出せない「不愉快な現実」を今こそ直視せよ!
I 努力は遺伝に勝てないのか
1:遺伝にまつわる語られざるタブー
2:「頭がよくなる」とはどういうことか――知能のタブー
3:知識社会で勝ち抜く人、最貧困層に堕ちる人
4:進化がもたらす、残酷なレイプは防げるか
5:反社会的人間はどのように生まれるか
II あまりに残酷な「美貌格差」
6:「見た目」で人生は決まる――容貌のタブー
7:あまりに残酷な「美貌格差」
8:男女平等が妨げる「女性の幸福」について
9:結婚相手選びとセックスにおける残酷な真実
10:女性はなぜエクスタシーで叫ぶのか?
III 子育てや教育は子どもの成長に関係ない
11:わたしはどのように「わたし」になるのか
12:親子の語られざる真実
13:「遺伝子と環境」が引き起こす残酷な真実
>(だからネトウヨは外国人参政権や帰化に反対します)。
外国人参政権は国の根幹に係わりますから殆どの国で認められてませんよ。
認められてる国も制限を色々かけてます。
逆にネトウヨというレッテルを貼って外国人参政権を推進してる方が異常だと思いますよ。
「言ってはいけない・残酷すぎる真実」として、能力その他による差別を肯定している橘さんが、
片方ではステレオタイプの見方による「自己成就予言」を批判するのはいかがなものでしょうか???
有名な「文学作品」であっても、「ステレオタイプの見方」に依拠しているものはいくつもあります。
代表的なのが「ベニスの商人」でしょ。
金貸しシャイロックは、まさに「典型的なユダヤ人イメージ」として描写されており、
だからこそこの作品が成立しているのです。
文学だけでなく、たとえばマンガでも、、「ステレオタイプの見方」に依拠しているものは
たくさんあります。
藤子・F・不二雄の子供向け作品を手がけるその手腕のあざやかさは、
「子供たちの夢と願望を心にくいばかりに視覚化する」
と評価されていますが、
これは見方を変えれば、どの作品にも(パーマン、キテレツ大百科etc)
「のび太、ドラえもん、しずか、ジャイアン、スネ夫」役がいる
というステレオタイプに依拠しているからこそ
それなりの支持があるのです。
「ヒューマン・ユニバーサル」としての
偏見や予断があることと、
文学や芸術、あるいはサブカルチャーまでも、
それに依拠していることに自覚的になるべきです。
筒井康隆@TsutsuiYasutaka
1月23日
その他
…西部邁入水自殺の報に驚く。「朝まで生テレビ」に出演した時はおれの断筆を支持してくれたのだった。あの時彼は「誰だって差別しているし、わしだって差別主義者だ」と言ってくれたのだ。おれより二歳年下だった。
ttp://shokenro.jp/00001513
#偽文士日碌
文中の「老人に対するネガティブなステレオタイプ」というのが、いま日本で隆盛している「オレたちは年寄りどもに搾取されている!」という老人敵視論なのか、昔からある「老いは衰えであり、悲しいくてつまらないこと」という老衰悲観論なのか、それによって分析や論点が全然違ってきますよね。この記事では、心疾患を起こす人が持っていた「老人に対する偏見」を前者であるように解釈なさっていますが、そうでなく「老いると健康は失われるんだろうな…」という「偏見・思い込み」であると解釈した方が、序論の、女性や黒人の「刷り込みによる成績悪化」と、しっくり合致するような気がします。「老いると病気になるんだろうという思い→その通りになる」なのでしょうから。
>ところが高齢者を「ヘイト」していた若者は、やがて自分が高齢者になったことに気づきます。しかしそのときには「予言」は自己成就し、健康を害して早世するか、偏見のとおりの「みじめな老人」になってしまうのです。
これって、「ルサンチマン」そのものですよ。
人間はそもそもが、いつでも肯定的に、前向きに、アグレッシブに生きていくことはできません。
それは弱者の強者に対する妬みや嫉み(ルサンチマン)を生み出してしまうのです。
弱者の強者に対する不平不満・・『なんで俺ばかり』、『なんでこうなんだ』という気持ちが、過去への復讐心や未来への償いを求める心(=今はつらいけど未来あるいは来世は良いはずとご褒美をねだる心)を生み出してしまうのです。
つまり、人は、「あいつらにはかなわないけど、でも道徳的には俺の方が正しい。」、「いずれあいつらは地獄に落ちるけど、俺は天国にいける」とでもいうような気持ちを持ってしまうものであり、これこそが、善悪という価値の起源だというのです。
そして、同時にキリスト教的価値観は、まさにこれに上手くあてはまったのです。
換言すれば、キリスト教的な清く正しく美しくという生き方は、世の多くの弱者に対して、お前達は今どんなにつらくても真面目に清く正しく美しく生きていけば、来世は天国に行けるぞという考え方を植え付けてきたわけであり、それこそはまさに「現世は原罪を背負って生きる呪われた仮初の生であって、本当の生は来世にある」とする現実の生を否定する思想、ニヒル(無)への意思をあらわしているのだということです。
しかし、善悪という価値に始まり、あらゆるものの価値は人間のこうしたルサンチマンにこそ求められるものであり、それは決して神によって定められたものではありません。
西欧の人々が生きる基準に置いてきた、キリスト教的な清く正しく美しい生き方というものは、実は人間の妬み、嫉みに始まるものであって、神が先にありきというのではないと。
と同時に、ルサンチマンと表裏一体となって人間社会を作り上げてきたキリスト教的価値観を「無への意思」を体現するものとして否定されなくてはならないと考えてしまうのです。
かくしてニーチェは宣言しました。
「神は死んだ。」