ついにこの日が来たか。そう思ったのは4月10日過ぎのこと。
中学生の頃から好きなバンド、シドが結成15周年を迎えて、駅前ビルの地下ににあるサブカル系雑貨屋のレジ前に特集記事の載ったフリーペーパーが置かれていた頃のこと。シドだから4月10日なのかな。
住んでいる街にも好きなバンドがやってきたかのような感覚にワクワクしていた。それでもそのワクワクも長くは続かなかった。
運営しているブログに載せているアフィリエイト案件のうちひとつ。というか、ぼくにとってメインの収入源となっている案件の発生金額がガタ落ちしていたのだ。
1件発生するごとに6,000円くらい入ってくるはずだったその案件。ふとASPを開いてみると、1件発生につきぼくの懐に入ってくる収入は1/10になっていたのだ。そう、600円。
まったく有り得ないことだと思った。やっぱり広告主はアフィリエイターを舐めている。それで生計を立てている人もいるんだぞ、と言ってやりたくなった。
何を隠そう、ぼくは運営しているブログの広告収入を元手に生計を立てている。
いわゆる『職業:ブロガー』ってやつなのだ。大学を卒業してから、新卒でそれになった。理由は、ブログを始めるきっかけを与えてくれた人がその道を選んだから。
ただ、その人とぼくには大きな違いがある。早稲田大学に在籍し、新進気鋭のベンチャー企業から内定を貰ったにも関わらず、それを蹴ってまでブロガーという道を選んだその人。
ぼくは千葉の田舎にある、誰も知らないFランク大学を卒業した。就活はもちろんしたけど、何十社か受けて内定は見事にひとつもなかったのだ。
だからもう、ぼくもブログで生きていくことにした。ほとんどやけくそだった。就活を始める少し前から始めたブログは徐々に収益を伸ばしていったから、なんとか生きていけると思った。
結果、今こうして生きている。大学を卒業して1年と少し。新卒でブロガーになって1年と少しも、ここまで生きてこれたのだ。
1年も飯を食えるとは。さっきも確認したようにぼくは今、メインの収入源となっている案件の報酬があまりにも露骨に下がっていることに目を見張って驚いた。
しかし「以前は6,000円くらいだった」と思ったように、「くらい」としか覚えていない、下がる前の報酬額。
そう、ぼくはアフィリエイトを生業にしているにも関わらず、毎日の案件確定数を今までほとんど確認することがなかった。
毎月、ある程度は生活に困らないお金が入ってきている。その事実があればオールオッケーだったのだ。
新年度、各企業はアフィリエイターに払う広告収入を見直し始めたみたいだ。ある企業は今まで4,000円で販売していたスキニーパンツの値段を、5,000円にまで上げてきた。その値段で売れるとは、ぼくには思えない。
そして報酬額を1/10にした、とんでもないあの企業。アフィリエイターを舐めている、とか言ってやりたいが、専業アフィリエイターの人からすればそれはよくあることらしい。
というか、案件ごと消えてなくなることも。メインの収入源がある日突然、ゼロになることも。
どうやら当たり前のことらしい。アフィリエイトで生計を立てておきながら、ほとんど収入を気にしていなかったぼくにとっては当たり前のことじゃないだけだった。
収入額を落とされたことを理由に、このままブログに企業への恨みを書き残してこの世を去ってやろうか。御社への遺言をインターネット上に残しましょう。
なんて思ってみるけれど、実際のところぼくはそこまで落ち込んだり、焦ったりしていない。だからそんなことは起こらない。
いつだって、何だって先延ばしにしながら、ぼくはここまで生きてきたのだ。そしてこれからも生きていくのだ。
不安はいつだってきっとある。証拠に最近は、頭皮にやたらとニキビができている。美容師の友達に相談してみると、無意識にストレスを抱えているんだって言われた。
そんなストレスも、収入が減ったからしなくちゃいけない努力も、きっとぼくは先延ばしにする。
いつだって何だって、やりたくないことはこの先の自分にロングパスしながら生きていくんだ。長い長い人生を。前を向くと、途方もなく長くて、長すぎて道の先が暗くて見えなくて、呆れてしまうほどの人生に。先を歩くぼくに仕事を任せる、先延ばし。
◆
「好きなことで生きていく」「好きなことだけして生きたい」
人生における選択肢が多い今、「生きるため」に仕事をする人がほとんどの今。こんな魔法の言葉が、死にかけの目をした社会人に一筋の希望を与えている。
就活をして、面接をして、嘘をついて。本当は働きたいと心の底から思える会社なんてひとつもないという事実に気づいてしまった大学生の目に、再び光を宿す魔法の言葉。
とはいえ、ぼく自身もその言葉に惹かれてこの道を選んだひとりだ。
好きでもない会社で、好きでもない仕事をしながら一生を終えるなんてごめんだ。入社するための面接なんて、自分を取り繕って「いい奴」に見せた奴の勝ちなんだ。正直者が馬鹿を見る。
汚い奴らが私腹を肥やすそんな世の中に、染まっていくなんてまっぴらごめんだった。
大人たちは言う。「それが大人になることなんだ」って。夢や希望を諦めて、会社で働くために、いわゆる「世の中」に染まっていく。諦めることを覚えて、同調することを覚えて、馴染むことを覚える。それが「大人になること」なんだって?
そうやって目の輝きを失って、いつしか生きるためにお金が必要だから、それを手にするために働くようになる。就職した最初の半年で口にした素直な「辞めたい」を言えなくなる。
働きながら実現できる、自分にとっての幸せを探すようになる。大抵のそれは恋をして、結婚して、子供を産んで、マイホームを買って、定年退職まで家族とローンのために働いて、ヨボヨボになって会社から「使えない」と追放される。
そこで初めて「セカンドライフ」なんて名前で、ようやくやりたかったことができるようになる、だって?
ヨボヨボになって初めて、20代の頃に目を輝かせていた頃の夢に、自由という武器を手に入れてほんの少しだけ近づけるようになるだって?そんなのは本当に冗談じゃない。
一度社会で働けば、結婚すれば、子供を産めば、家を買えば、背負うものが増える。もう身軽な体には戻れない。
でも、働く上で人間としての幸せを掴みたいと思うなら、その道を辿って生きるしかない。定年退職後に貰える年金なんて雀の涙程度にはしょぼい額だから、働いているうちに家を買っておかなくちゃいけない。
働いて働いて、ローンを払い続けなくちゃいけないのだ。
果たしてそれが幸せなのか?幸せだと、何の疑いもなく言う人もいる。自分の子供と生きていくことは、子供を産む幸せは、計り知れないものらしい。
当然、子供ができたことなんてないから、その気持ちはわからない。でも、それで幸せなら、それはそれでいいのだ。人の幸せの形は人それぞれで、そこにまで口を出すつもりなんて毛頭ない。
ただ、ぼくはそれ以前に働きたくなかった。
正確に言えば、好きでもないことを仕事にして、好きでもない会社に就職して働くことは絶対に嫌だった。仮にもそこに染まったら、ギラギラした目の輝きを、その放ち方を忘れてしまいそうだったから。
◆
ギラギラしている。大学を卒業してから1年、どこでも働いていない。ぼくの目はまだ輝いている。汚い社会とは接点を持っていないお陰で、まだ汚れていない。まだまだ、あの大嫌いな世界と戦っていける。ぼくは今でもそう思い続けている。
しかしどうだろう。ふと考えてみると、ぼくに明確な「やりたいこと」って、果たしてあるんだろうか。
その答えは一瞬で出せる。ない。無論、やりたくないことはごろごろある。会社で働きたくない。毎日、好きな時間に起きて好きな時間に寝る。好きなことを好きなタイミングでやって、好きなときにブログを書く。
時間や場所に縛られず、思い立ったらすぐに旅行に行ける、そんな生活。強いて言うなら、今のぼくにとってのやりたいことって、それだろうか。
要は今、こうして実現できている生活だ。これを続けていきたいと思っている。人生100年時代とか言うけど、正直そこまで生きたいとは思わない。60歳でちょうどいいか、それでも少し長いんじゃないかって、先のことを考えると思う。
そう、60歳でも長い。それだけ長い時間を生きるんだったら、好きなことだったりやりたいことのひとつやふたつ、持っていないとまるで退屈だ。人生は死ぬまでの長い暇つぶしなんてよく言うけど、本当にそんなものになってしまう。
だからと言って、「せっかく生まれたからには何かを成し遂げたい」と言い出すような、熱い男ではさらさらない。ただ、胸を張ってやりたいと言えることのひとつやふたつ、それがないのだ。
ぼくたちは小学生の頃からずっと学校に通い、見よう見まねで勉強を続けて高校生になる。家の事情で、一刻も早く家にお金を入れなくちゃいけないからと、高校を卒業後にすぐ就職した友達もいた。
ぼくの家ではそのタイミングで「働け」と言われることはなかったし、両親は選択肢を与えてくれた。だけど、高校を卒業してすぐに働く勇気はぼくになかった。そのタイミングで社会に飛び出した友達はもう社会人を7年目を迎えた頃だけど、あのときの決断は本当にすごいと思う。
正社員として働くようになったら、この世の終わりだと思っているのである。楽しいことはなくなって、生きるために働く毎日が始まる。それをロボットのように繰り返して、気付いたら体は思うように動かない。歳を重ねて老朽化してしまっているんだ。
それが怖い。社会に出たその瞬間から、人生を諦めたのと同義だとぼくは思うのだ。例外として本当にやりたいことがあって、それを実現できる会社に就職できたのなら、それは本当に幸せな人生になるだろう。しかし、そんな人生を歩める人なんて、この世には滅多にいないと思っている。
社会の中に自分の好きなことを見つける時間も、期間も、日本では与えられていない。学生を終えれば自動的に就活を行わなくてはならず、働かなくてはならない。というか、生きたいのなら。生きるために、お金のために働かなくてはならないんだ。
やりたいことがないまま、それでも学生という人生の執行猶予期間が終わってしまうから、いつまでも親の脛をかじり続ける訳にもいかず、働かなくちゃいけなくなる。何よりも生きるために。
本当はそうやって生きるために働いている人がほとんどなんだ。だから、「やりたいことをやる」なんてのは本当に贅沢なことなのかもしれない。働いてお金を貰って、生きているだけで喜ばなくちゃいけないのかもしれない。
退屈だ。そんなのは退屈だ。いつしか「どうして生きてるんだろう」と考えるようになる。生きる意味がわからず、目からは光がどんどん失われていく。
満員電車に乗るのが、ぼくは嫌だ。いつも混んでるからって理由は、それを嫌う2番目の理由。1番は他でもなく、乗っているほとんどのオッさんたちの目が、思いっきり死んでいるからだ。疲れた顔をして、やつれた顔をして、目からは光どころか正気すら感じられない。それをぎゅうぎゅうの車内で、近い距離で見ていると切なくなってくる。
オッさん的には、家で待っている愛する家族のために働いているはずだ。でも、生きているのにあんな目をしちゃいけないと心底思う。本当にこの国は、くだらないと思う。国に対して、社会に対して、制度に対して、あの光景を見るとぼくは怒りすら覚えることがある。死んだ目をして働く。
家族のために。生きるために。生きるために働くことが当たり前で、「やりたいことを仕事にして生きる」は贅沢視されていいのだろうか。ちっとも贅沢なことだとは思わない。
◆
正直、ぼくはもうアフィリエイトをやりたくない。それだけ言うと語弊があるかもしれないので正確に言うと、心底おすすめできない案件の記事は書きたくない。
運営しているのはファッションに強いブログだ。ファッション業界はいつだって利益が生まれるか生まれないか、ギリギリのところで生き続けている。今は特にファストファッションが流行っていて、洋服にお金を使う人なんてほとんどいない。
バブルはとうの昔に弾けて、この業界に関してはそのまま、まるで盛り上がりを忘れたまま何十年もの時が経っている。
そんな業界が、企業がアフィリエイトに、広告にお金を出せる訳がない。本当に素晴らしい洋服を作っているブランドは服を作ること、売ることに精一杯で、広告を出すお金なんてさらさらない。今、アフィリエイト案件を出しているのはどれも、ネットで売ることをメインとした企業だけだ。「売るために作られた」洋服を販売しているブランドだけだ。
ぼくは洋服が好きだが、それもめちゃくちゃいい洋服が好きなのだ。
売るために作られた洋服になんて興味もないし、着たいと思わない。着てもらうために作られた服を作るブランドが、その姿勢が、熱すぎる服バカなブランドだけを本当に愛しているのだ。
繰り返すけれど、そういった企業は服作りに精一杯で広告を出すお金なんて当然ない。アフィリエイトなんてやらないし、そもそもできない。ぼくは個人的にファッションブログを書くのが好きで、買ったそれらの洋服を紹介する記事をたくさん書き続けているが、言ってしまえばそれは一銭もお金になんてなっていない。
どうやって職業ブロガーとして生計を立てているのかと言えば、過去に書いたアフィリエイト記事から発生する収入が主になっている。生活のため、ブログの収入を伸ばすため、アフィリエイトに興味があって、本当に稼げるのか?半信半疑で取り掛かった頃に書いた記事から発生する収益。
収入が下がった今、果たしてこれからの毎月はどれくらいの金額が口座に振り込まれていくのかはまだわからない。でも、確実に生活はしづらくなっていくと思う。
そんなときにお金を得るために、ぼくはアフィリエイトをやらなくちゃいけない。でも正直、今となってはもうやりたくない。だって、狂ったように素晴らしい洋服を好むぼくが心の底から紹介したい案件なんて、アフィリエイトなんて、この世にひとつもないからだ。ぼくが「そこそこ」洋服を好きな奴だったなら違っていたかもしれない。
でもぼくは売るために作られた洋服を愛せないのだ。本気の洋服オタクなのだ。
何度も書いてきたように、ぼくが好むような服は基本的に売るためになんて一切作られていない。本当にその信念を感じ取ってくれる人のために、もしくは最高の自己満足のために作られた服でしかないのだ。
そんな服が、売るために作っていないブランドがアフィリエイト案件なんて出す訳がない。とんでもなく皮肉な話だけどこれは事実。
話を少し戻す。「好きなことで生きていく」
これを混じり気なく純度100%に実現できている人って、この世に実は全然いないんじゃないかと思う。ほとんどいないんだと思う。絶対いないんだと思ってる。
ぼくの場合、大好きな洋服のことをブログに書いて、職業:ファッションブロガーとして生きていることには生きている。
だけど、収入源となるのはもう1年以上も前に書いたアフィリエイト記事たちで、今となってはそれらをもう書きたいとは思えない。
洋服が好きだからファッションブログを書いて。好きなことを仕事にして、お金を得て、好きなように幸せに生きているかのようには見える。
でもその事実を細かく分解して見てみれば、ぼくが本当に好きな、愛している洋服たちを紹介する記事からなんてお金は一銭も発生していない。
発生しているのは過去に書いたアフィリエイト記事からだ。その記事で紹介している服をぼくが本当に好きかと言えば、ぶっちゃけそうじゃない。全然好きじゃない、着ないし着る気にもなってない。
そうなんだ、だからぼくは、好きなことを仕事にして生きているように見えて実は全くそうじゃない。全然そうじゃない。
でも収入が下がってきた。そろそろやばい。今までずっと思っていたけど、お金のことには目をほとんど向けていなかった。避けていた。それでも収入が下がったら生きていけなくなってしまう。さあ、どうする?
仮にも今までのぼくは、過去に書いたアフィリエイト記事に収入を頼ってきたことで、好きじゃないことをすることから逃げてきた。
その分、収入は増えることもなく減る一方だけど、やりたくないことはほとんどしないままでよくて、その状況を心地よく思いながらこの1年を生きてきた。
新しくファッションブログを立ち上げて、そっちでは自分が本当に書きたいことだけを書いて、お金は過去に書いたアフィリエイト記事に任せて、好きなことだけして生きてきた。
でもこれからはそうはいかない。さあ、どうする?
本当は好きじゃないけど、それをやりながら地道に収入を増やしていくべく努力するのか。もしくはどこか好きな服屋さんでアルバイトでもするのか?そうするのか?
アフィリエイト記事を書いていくなら、好きなことだけをしては生きていけなくなる。
正直やりたくないことだから、気なんて進む訳がない。でも、アルバイトをする選択肢を取るなら、毎日を自由に過ごす権利なんてなくなっていく。
この前、ふっと旅行に行ったときみたく、思い立ったときに思い立った場所にふらっと行ける自由は手放すことになる。さあ、どっちを選ぶんだ。
どっちを取るにしろ、ほんのちょっと我慢すれば、嫌な気持ちを抑えれば、70〜80%くらいは好きなように生きられるんだと思う。
いきなりブログの収入がゼロになるとは思えないし、減った分をちょっとやりたくないことで補っていけば済む話だとは思う。
でもお前、どっちを選ぶんだよ。どうしていくんだよ、これからを。
いずれにせよ、100%やりたいことだけをやって生きていける人生って存在しない。我慢ってものを、そろそろ覚えなくちゃいけない時期なのかもしれない。
なんかモヤモヤするし気持ち悪いし嫌だけど、ちょっとの我慢ってものは必要なのかもしれない。我慢を覚えることが大人になることだって小さい頃、どっかで聞いたかもしれない。
だからそれは認める。正直すごく嫌だし気持ち悪いしやりたくないけど、我慢ってちょっとは必要なんだと思う。だって、100%やりたいことだけをやって生きていける人生なんてすっごく稀だから。
ただ思うのは、こうやって我慢を重ねて増やしていって、まだ目に抱えているギラギラした光やら気持ちを失うことだけは絶対にしたくない。絶対しない。
そうやって我慢とか、妥協とか、色々重ねて、いつしか全てを諦めて死んだ目をして働いて、死んだ目をして電車に乗って、死んだ目をして日々を過ごす大人には絶対なっちゃいけない。絶対なりたくない。死んでもならない。なってたまるか。
今だってそもそも、明確なやりたいことなんてない。でもいつかブログ以外にも、もしくはブログを使った何かでも、絶対に見つかると思ってる。だから、やりたいことを探し続けている。
それには自由な時間と余裕が必要だから。色々なことに見て触れて、挑戦できるだけの自由な時間と気持ちが必要だから。やりたいことを探し続けいたい、そうやって。
それが身を結んだときに、我慢だったり妥協の割合をどんどん減らしていける。だんだん、好きなことをできる割合を増やしていける。もっと楽しい生き方ができるようになっていく。
だからその日まで諦めたくない。汚い社会に染まって夢も希望もなくして、死んだ目であてもなく彷徨うような生き方だけは絶対にしたくないって、心の底からずっとずっと思ってる。
この気持ちだけは、思っていることだけは、目に宿ったギラギラした光だけは何としてでも絶対に忘れちゃいけない。諦めちゃいけない。諦めたらそんな自分を許さない。
死んだ目になった自分なんて絶対に許さない。そうやっていつまででも思ってろよ。
◆
国民年金だってずっと払って、面倒臭くてちょっと払ってなかったりすればすぐに催促の電話が来て、クソ面倒臭い。
どうしてお前らはそんなにお金ばっかり取り上げるんだって、すごく思ってる。
そんなに毎月毎月お金を取られて、それでも生きていかなくちゃいけなくて、でも自分で人生を終わらせるなんてバカバカしくて、生きていくのって大変だなって本当に思ってる。
今だってこうして収入が減りつつも、やっぱり好きでもない洋服を紹介するような記事は正直、書きたくない。でもそれを書かなくちゃ、もしくはアルバイトをしなくちゃ生きていけなくなるなら、やらなくちゃいけない。生きていくために。
最近、周りの人たち、初めて会った年上の人とも話していて偶然、短い期間に何度も聞いたこと。
「好きなことをするためにも、好きじゃないこともやっていかなくちゃ駄目なんだよ。そこって本当に難しいことだけどね。生きていくためには、お金を稼ぐためにはしょうがないことなんだ」
「好きなことだけして生きていく」は幻想だった。いや、幻想じゃないかもしれない。正確に言い直せばいいだけの話で、「好きなこと(と少しの我慢)ををして生きていく」が正しい現実なんだと思う。
職業:ブロガーになってみて、YouTuberや専業ブロガーが純度100%の好きなことだけに囲まれている訳ではないという現実に気付いた、知った、触れた。
苦しいけどちょっとの我慢も必要なんだ。それを知って、それをやって、ぼくは少し大人になっていくのかな。
小さい頃から聞かされて想像した「大人」のイメージって、僕の目にはひどく退屈なものに映った。
大人の大半が死んだ目をしている理由も、その内側も、イメージを現実に移していく過程でなんとなく理解した。そりゃ、そんな希望のない生活を、自分を抑えつけて心の内側に永遠に閉じ込め続けるような生活を続けていたら、目も死んでいくわ。
でも、一般的にはそれが「大人になる」ってことらしい。それならぼくは生涯大人になんてならなくていい。なりたくない、そんなものに。まるで楽しそうじゃない。
汚い社会に染まって、自分を忘れていくことなんてしたくない。自分に正直な人が報われない、日本の世の中がぼくは大嫌いだ。気持ち悪くて仕方がない。嫌いすぎる。一生そこには抗っていくことにする。負けないように戦い続ける。
それはきっと社会に、大多数に染まっていく道を選ばない分、厳しい道なのかもしれない。辛いことも多いかもしれない。
今のぼくは自分のことを「もう23歳か」といつも思ってる。というか生き急ぎすぎて、まだ23だけど、いつも「次は24だ」って考えてる。だから、時々わからなくなる。自分が23歳なのか24歳なのか、わからなくなる。
次の誕生日で24歳になったら、次の日からは24歳なのか25歳なのか、わからなくなってると思う。それくらいには生き急いでる。
でも、歳を重ねることはそんなに嫌いじゃない。この調子で生きていって30歳になったとき、一体どんな大人になっているのかは気になるところだったりする。
30歳になって、いい人間になれてたらなって思う。かっこいい人間になれてたらなって思う。目の光を失わないまま、キラキラ、ギラギラさせたままの30歳になれていたらなって思う。
もちろんその先の40歳も50歳もずっとずっとそうでありたい。あり続けたい。
苦労した回数が多い人の話ほど面白いし、人間として深みもあってカッコいいなって、芸能人を見ていても、周りにいる尊敬している人たちを見ていても思う。
だから社会に抗って、汚いそれに染まらないように居続けて、きっと苦労もたくさんあると思う。もしかしたらブロガーっていうか、もはやフリーターとしか呼べない状況になってることもあるかもしれない。
それでも「いつか、いつか」って、希望を捨てないままでいたい。日頃から面倒臭いことはいつだって先延ばしにして未来の自分にロングパスするタイプするぼくだけど、その性格を大きく変えたりはしなくてもいいと思う。
希望も捨てないで、社会に染まらないで、大人に絶対ならないで、「いつか、いつか」って言いながら、先延ばしにしながら、ワクワクしてバカみたいに生きていたいと思う。
その気持ちを忘れちゃったら、死んだ目をし始めたら、生きてても人生は終わったも同じだと思うから。希望を捨てて、汚れたまま生きていくのってもう、死んだのと同じことだと思うから。
それだけは絶対に嫌だ。仮にもそうなるくらいなら死んだ方が1000%マシ。マシすぎる。
なんかもう色々と先延ばして生きていいと思う。収入が落ちてきたからそろそろ、1年前のぼくがロングパスしたボールは受け取らなくちゃいけない気がするけど。少しばかり我慢を覚えなきゃいけない気がするけど。
それで「大人ってこういうもんなんだな」って知っていきそうな気がするけど。
でも、30歳になった頃、自分がどんな人になっているのかはとても興味があるし考えるとワクワクする。年相応じゃないバカでいたい。というかそうなる。
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いわた (岩橋康太)
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