何だか夜がぐっすりで、資料も集まった・結論も出てる、なのに、なかなか書くことができませんでした。ご無沙汰です。ルイ17世の悲惨な境遇について、ずいぶん前に話題になっておりました。
ところが、上記のツイートがWikipediaの参照という事で、その信憑性に疑義がつきました。
なるほど、キャッチーな話を信用しないことは大事だとは思いますが、上記のtogetterのまとめはちょっと乱暴で、もう少し資料をあたりたいところです。ということであたってみました。
ルイ17世について
非常に大事な点なので、革命後のルイ17世について記しておきます。
ルイ17世*1は、ご存知ルイ16世とマリーアントワネットの嫡男で、マリー・テレーズの弟にあたります。
すごくざっくり言うと、1789年のフランス革命勃発後、宮殿を追い出された国王一家は、1791年、タンプル塔に幽閉されます。ルイ17世はそのとき6歳。その後の人生はこんな感じです。
1791年8月13日 |
国王一家タンプル塔に幽閉。 |
1793年1月21日 |
ルイ16世処刑 |
1793年7月3日
|
ルイ17世は母親と引き離され、3階の部屋に移動する。 シモンが養育係となる。 |
1793年10月16日 |
マリー・アントワネット処刑。 |
1794年1月19日 |
シモン解雇。ルイ17世監禁状態におかれる。 |
1794年7月28日
|
ロベスピエール処刑。同日(翌日の説もあり)バラス将軍がルイ17世の様子を見にくる。 以後、ローランとゴマンがルイ17世の面倒を見る。 |
1795年6月8日 |
ルイ17世死去。享年10歳。 |
注目することは、彼の幽閉状態は大きく4つの時期に分かれていることです。
①家族一緒の時期。
②シモンが養育係の時期。
③監禁状態になった時期。
④ローランらが世話をした時期。
「虐待」は、いったいどの時期にあったのでしょうか。
Wikipediaはデボラの著作からの引用
Wikipediaの脚注を確認すると、デボラ・キャドベリーの『ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット 革命、復讐、DNAの真実』(近代文芸社)を、かなり参考にしていることがわかります。
ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット―革命、復讐、DNAの真実
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ルイ17世は、長年替え玉説が強かったのですが、このBBCプロデューサーによる番組により、保管されていたルイ17世のものとされる心臓が、王族系列のDNAと一致したということで、当時かなり話題になったものの書籍化されたものです*2。
さて、デボラのルイ17世が幽閉されていたタンプル塔の記述を読むと、彼女はおそらくではありますが、フランスの歴史家、フィリップ・ドルロムの『L'affaire Louis XVII』(1995)に依っているのではないか、と推察されます。
原著が書籍版でしか存在しないので、中身を確認できず、憶測で話をするのですが、19世紀半ばからまとめられてきた、ルイ17世のタンプル塔での幽閉の様子の証言をまとめた近年のものとしてデボラは紹介しています。ドルロムの著書は、ある程度、信頼のおける史料をあたっているという話もあるので、デボラがそこを参考にしているのならば、そこまで疑うべきものではないのではないか、という気がします。
というわけで、とりあえず次項では、Wikipediaの逸話の出典が何に当たるのか、というのを一つずつ調べてみます。
①家族一緒の時期の記載
Wikipediaには以下の記述があります。
1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。
デボラは著書の中で「マリー・テレーズは語っている」として、上記と同じようなことを書いているので、マリー・テレーズの回想録を読んでみます。
しばらく前から弟は脇腹の痛みを訴えていた。五月六日、夜七時、頭痛を伴って熱が上がり、依然として脇腹も痛んだ。(中略)
母は医者を呼ぶよう頼んだが、なお数日許されなかった。やっと日曜に、市会が弟を治療させるため任命した監獄医のティエリーがやってきた。
『ルイ十六世幽囚記』(福武書店)「マリー・テレーズ王女の回想録」P191
「回想録」とは銘打っていますが、マリー・テレーズが当時書いた日記の原稿を元にしています。ただ、編者のジャック・ブロスが序で記している通り、いくつかの版が存在し、多少の改変が加えられている且つ王家側の人間の著作ということで、「批判的態度で読む必要がある」ものではあります。
しかし、デボラに批判的なヤン・ボンデソンの著作の中にも同じ記述があり*3、なにか他に裏付けをとれる史料があるのかもしれません。ある程度信頼性のあるものなのでしょう。
②シモンが養育係の時期
さて、その後、ルイ17世は家族から引き離され、軟禁されます。養育係には靴屋のシモンが任命されます。このシモンは無教養な人間だったとされていますが、彼の悪辣なイメージは、Alcide de Beauchesne(ボーシェーヌ)の『Louis XVII, sa vie, son agonie et sa mort (1852)』が源泉となっているのでしょう。デボラはボーシェーヌの著書についてこう書いています。
最初の詳しい調査は歴史家のアルシド・ド・ボーシェーヌによる。彼は王政復古後に二十年を費やして情報を収集し、革命時のタンプルで働いていた人々の何人かに会って取材することができた。明らかに王党派の見地から見ているけれども、ボーシェーヌや他者が集めた記録から浮かび上がる情景は、エベールのような男たちの煽動で虐待された男のことである。
デボラ P180
ボーシェーヌは王党派の人間なので、先程のマリー・テレーズの回想録と同様、批判的態度で読む必要があります。ボーシェーヌは無論、シモンに会ったことはないので、彼はシモンの情報を「彼自身や彼の同僚と親しい3人の人物」から得られたとして*4、次のように描写しています。
The personal appearance of Simon may be described in a few words, as follows : fifty-seven years old, he was above the middle stature, of a square, robust make, tanned cmplexion, coarse face, had black hair, coming down to his eyeblows, and thick whiskers.
シモン自身の見た目は、以下のようなものだ。57歳で、平均よりも高く、角ばってがっしりとしていて、日焼けして下卑た顔つき、黒い髪に垂れ下がった眉毛、濃いヒゲをもっている。
ボーシェーヌ 1853 P67
さて、Wikipediaには、そんなシモンがルイ17世にさせたこととして、いくつか列挙されています。
彼らはサンキュロットに見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。そして「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。
上記に関連する記述については、ボーシェーヌも書いています。
”so you are dumb, are you? I shall have to teach you to talk myself, and to sing the 'Carmangnole,' and cry ' Vive la République !' Ah! you are dump, are you?"
「おめえはバカか? おれが直々に教えて差し上げるがな、「カルマニョール*5」を歌って、「共和国万歳!」て叫ぶんだよ! ええ!わかったかバカが」
ボーシェーヌ 1853 P73
マリー・テレーズも、革命歌を歌う声や、サンキュロットを着させたという話を回想録に書いています。
弟が毎日シモンと一緒に、カルマニョールやマルセイユ兵の歌などたくさんのおぞましい歌を歌うのがきこえた。シモンは弟にフリジア帽をかぶせ、カルマニョール服を着せた。そして番兵たちにきこえるように窓辺で歌を歌わせ、髪や家族や貴族に対してきくに耐えない悪態をつくことを教えた。
「マリー・テレーズ王女の回想録」P200
王家復興の足がかりとなるルイ17世を、共和国政府側は排除したいと考えていたようですが、子どもの処刑については反発を恐れたようで、こういった形で自分たちの思想を植え付けるという方法をとったわけです。
WIkipediaには続けて、暴力が蔓延していったという記述があります。
やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。
酒を飲ませることに関しては、マリー・テレーズの回想録に記載があります。
生活が変わり虐待を受けて、弟は八月の終わりごろ病気になった。シモンがむやみやたらに食べさせ、嫌いなブドウ酒をたくさん飲ませたのだ。
「マリー・テレーズ王女の回想録」P200
ただし、これを編者のブロスは「とても真実とは思えない」と脚注しています。
ルイ十七世は定期的にティエリー医師の診察を受けていた。ティエリーと薬剤師ロベールの《回想録》がそれを証明している。もし王女が述べるような状態であれば、彼らは気づいて然るべく手を打っただろう。実際は、弟が骨抜きにされ、母親がおぞましい罪を犯したなどと密告したわけを、王女がそのように説明しようとしたのである。
前掲書 P201
ティエリーとロベールの回想録が探し出せれば良かったのですが、残念ですが見つけられませんでした。ただ、先述したボンデソンは「その後も医師が一度か二度診察に訪れたが、薬の処方はしておらず、ルイ・シャルルが不調を訴えたという記録は残っていない」*6としており、この話がどの程度のものなのか、というのはなんとも言えません。
暴力的な「虐待」については、意見が分かれているところです。
デボラは保安委員会のジャン・バティスト・アルマンの革命後の報告を挙げ、
シモンはよく片足を寝台から出し、できるだけ狙いをつけて子供を蹴り飛ばした。子供が床にころがると、シモンは叫んだ。『寝るんだ、狼の子め!』
デボラ P181
という証言をつかったり、次のような通商取次人のルブールのパリ・コミューンの総会議事録での証言を挙げたりしています。
ルイ・シャルルがうっかり肉を少しこぼしてしまった時、シモンはぐるりと振り向き、子供をナプキンで力まかせに殴った。「殴打で目玉の一つが取れるかと思った」。
デボラ P182
ただ、ルブールの証言については、デボラは総会議事録からの引用ではなく、ボーシェーヌからの孫引きですので、どの程度信用していいかが不明です*7。
he very nearly put out one of his eyes with a blow with a napkin.
ナプキンの殴打でほとんどめだまが落ちそうだった。
ボーシェーヌ P111
一方でシモンはルイ17世にいろいろと与えているようで、それが、シモンの通説通りの暴力的な存在に疑問符を与えています。
王子が母親のことを忘れることができるように、カストールという大きな犬、カナリアの入った鳥かご、鳩小屋などをあてがったのである。(中略)シモンは体制の厳しさを和らげ、訪問者が絶えなかった。幼いカペーにはかなりの自由が与えられ、塔の外にある庭でタンプルの洗濯係の女の娘と一緒に遊ぶことさえ認められていた。
ボンデソン P10
性的な部分でも虐待があったという話もあります。
この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。
この箇所はVincent Croninの『Louis and Antoinette』(1974)からの引用です。
The boy was too young to have intercourse ,but the prostitute would sap his strength and eventually perhaps infect him with syphilis.
少年は若すぎたので性交はできなかったが、売春婦は彼の力を吸い取り、最後には梅毒をうつしたのだろう。
『Louis and Antoinette』P383*8
ただ、諜報員の手紙がイギリスやスペインに送られていた史料は残っているようなんですが、その情報自体の信憑性についてはなんとも言えないところがあるようです。
また、ルイ17世の自慰行為と近親相姦についても話が出ています。
さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。
これは裁判記録も残っており、また、ルイ17世の実際の署名も現存しているため*9、近親相姦があったかどうかはでっちあげでしょうが、出来事自体は事実のようです。
個人的には、デボラはボーシェーヌの記述に頼りすぎているので、果たしてすべてを信用していいかどうかには疑問符がつきます。かといってボンデソンが述べているように、シモンがルイ17世のために色々と与えたのは事実としても、議事録などに本当に記載があるならば、日常的な暴力は行われていたと考えるのが妥当と思われます。ただ、その「虐待」は、Wikipediaの書きぶりよりかは控えめだったのかもしれません。
③監禁状態になった時期
一番よくわからないのが、シモンが養育係を解任され、3階の一室にルイ17世が監禁された時期です。
不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。
Wikipediaにはこうありますが、ここらへんの記述もデボラの丸写しです。そして、デボラはボーシェーヌの記述をどうも参考にしているようで、似たような記述が目につきます。
(承前)夜遅く、当番の委員たちはよく格子越しに少年の部屋をのぞき込み、大声で命じた。「カペー、どこにいる。寝てるのか。起きろ!」。青白く、おどおどした子供は、身体が見えるように、小窓の所で姿をさらさなければならなかった。これが済むと、彼はすぐに寝台へ帰されたが、「まむしの裔*10」とか「暴君の息子」とか、長々と侮辱された。
デボラ P211
”Capet! Capet! Are you asleep? Where are you? Young viper, get up!"
「カペー! カペー! 寝てるのか、どこにいる、まむしの裔、起きろ!」
ボーシェーヌ P201
しかし、はっきりいってこの時期は「少年に関する記録は残って」おらず、「憶測することしかできない」時期です*11。マリー・テレーズも回想録で、弟の悲惨な状況について書いてはいますが*12、彼女自身が見たわけではない噂を記しているにすぎません。あまりにも記録が残っていないので、この時期にすり替えが行われたとする説が未だに根強いのですが、どの程度ひどい状態だったのかはなんとも言えません。
ただ、比較的客観的な史料として、ロベスピエール処刑後、タンプル塔を訪れたバラス将軍の回想録があります。
I went to the prison and saw the prince, whom I found in a very weak state from a malady evidently underminig him ; he lay in the middle of the room in a little bed hardly more than a cradle ; his knee-joints and ankles were swollen.
私は牢獄へ行き、病気で明らかに弱った、弱々しい王子を発見した。彼は部屋の真ん中にあるゆりかごよりも小さなベッドに横たわっていて、彼のひざと足首は腫れ上がっていた。
『MEMOIRS OF BARRAS』xviii*13
ルイ17世はくる病にかかっていたのではないか、という説もありますが、程度はともかく、彼の世話はほとんどされなかったというのは事実でしょう。
今日のまとめ
①Wikipediaの記述は、デボラの著作に依るところが大きく、ボーシェーヌの引用も多い。
②ルイ17世のタンプル塔の幽閉はについては大きく4つの時期に分かれ、ボーシェーヌはそれをカバーするような著作を書いているが、王党派の記述という点で留意が必要である。
③シモンが養育係としてついていたころは、
・革命歌を歌わせられた→信憑性高い
・酒を飲まされた→身体を壊すまでは飲んではいないのでは
・暴力をふるわれた→日常的な暴力があったことは恐らく事実であろうが、Wikipediaの記述のようなことが全てあったかは明らかではない。シモン夫妻はルイ17世をかわいがっていた節もある。
というようなことが考えられる。
④シモンが解任されてからルイ17世が監禁状態になったことは事実であろうが、そのときの記録がほとんどないため、実際にどんな様子だったかは不明である。ただ、健康状態がかなり悪化するような状況ではあったようだ。
なので、「ルイ17世は虐待されていたのか」と聞かれたら、「現代の観点からいえば確実に『虐待』であろうが、どの程度だったかは客観的な史料に乏しい」というのが正確な答え方でしょう。王党派とは反対の、とはいえ「デュシェーヌ親爺*14」のような過激派でない証言や資料が出てくることを願うばかりです。
ルイ17世に関する著作は、19世紀から膨大に存在し、L Paroisの『Essai de bibliographie sur Louis XVII』(1992)は、1192点の資料を列挙していると言われていますが、それでも重要文献に限っているとのことです。そして、その資料も有象無象が混じっていて、真偽の確認は困難を極めます。どの資料を「正しい」とするかで、ルイ17世に関する出来事は、その情報が180度違ってきてしまいます。なんとも沼の深い分野です。こういう分野は、あんまり軽々しくうそだなんだと言わないほうが安牌ですね。
*1:ルイ・シャルル、と表記したほうがいいのかもしれませんが、馴染みのある名前の方で書きます
*2:
ただし、これは、「ロイヤル・ファミリーのDNAと一致した」というだけであり、果たして本当にルイ17世のものなのかどうか、というところは未だに議論があります。当時は、貴人の心臓を保管することは珍しくなかったこと、「ルイ17世の心臓」とされるものの所在がずいぶん転々としており真偽があやふやなこと、などが疑念をもたれています。今回の本筋とは関係ないので省きます。
*3:
医者に診てもらいたいという王妃の懇請は数日にわたり無視されたが、ついに牢獄担当のティエリー医師が呼ばれた。
『謎・なぞ』ヤン・ボンデソン(オーム社)P8
*4:
Our researches have enabled us to devote a page to the dark biography of Simon, our information coming directly from three persons who were privately acquainted with both himself and him worthy helpmate,
ボーシェーヌ 1853 P67
もちろんボーシェーヌの原文はフランス語ですが、英語訳が1853年に出ておりますので、そちらを引用しています。
*5:
当時流行った革命歌です。下記参照。
*6:
『謎・なぞ』P8
*7:本来であれば、コミューンの総会議事録を見たいのですが、該当箇所がちょっとどの辺かわかりませんでした。調べたい人は「Procès-verbaux de la commune de Paris」でググって、探してみてください。
*8:デボラにも同じ記述がありますが(P186)、スパイ云々の話はありません。
*9:
『ルイ17世の謎』桐生操(新書館)P37
*10:wikipediaは「せむしの倅」となっていますが、Viperなので、「まむし」の誤植でしょう。
*11:ボンデソン P13
*12:
弟のベッドは半年以上整えられることなく、弟にはもうベッドを整える力もなかった。ノミや南京虫がベッドをはい回り、弟の肌着も害虫だらけだった。
「マリー・テレーズ王女の回想録」P212
*13:
英語版は以下を参照。
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo1.ark%3A%2F13960%2Ft2988sd95
*14:
エベールが当時発刊していた極左新聞。かなり品がない