mytown
 

enopo top moji

 藤沢市内を走る「横須賀水道みち」

2015年11月5日  (取材&記事:happyrarasan)
横須賀水道道とは?

幕末期、江戸幕府は黒船襲来に際して鎖国を改め、横須賀製鉄所を建設しました。
これは倒幕後に横須賀造船所となり、施設は明治政府に引き継がれ、横須賀海軍工廠となりました。
横須賀における水道施設は、明治初期に既に敷設され、国内でも早期の近代水道施設でした。
その後、事業の発展による水不足のため、造船所首長ヴェルニーの手により、
1874年(明治7年)から1876年(明治9年)にかけて走水から最初の水道が完成しました。 

yokosuka 4海の杭(海軍境界杭・波入り)です yokosuka 3境川を渡る半原系水道道

そこで藤沢市内を走る横須賀水道みちを調べてみました。

半原系統 水道道(弥勒寺1丁目地域内)
                (平成19年4月取水を停止し休止状態です。)
この道は大正10年(1921)海軍専用の水道管を敷設する為に作られた道です。

従って「水道道」と呼ばれました。当時は農道が中心である為、道路建設の草分けでした。横須賀市に明治時代「横須賀鎮守府」が置かれました。明治37年(1904)の日露戦争後、海軍力の整備が図られ、横須賀にあった海軍工廠や港湾の増強を進めました。その為、上水道や工業用水の需要が増え、相模川水系の中津川から導入されました。

yokosuka 9半原系列の水道道 yokosuka 2二管時代の境川の水道道

これは「半原系統」と呼ばれ半原水源地(愛甲郡愛川町)から53km離れた横須賀市逸見浄水場まで落差70mを付け、内径50cmの鋳鉄管を自然流水で送水していました。日量は最大値9,800?(トン)です。旧海軍用地を示す石柱が随所に見られます。走水水道は、その後海軍専用の水道として軍備拡充とともに改良され、1918年(大正7年)、中津川を水源とした軍港水道半原系統が通水し、翌1919年(大正8年)3月には走水水道施設が横須賀市に無償貸与され、横須賀市上水道の水源となりました。

yokosuka 1
(横須賀市上下水道局資料)より

「有馬系統」について  渡内日枝神社前の東西周辺地域内

 旧海軍は、海老名市社家の大堰で取り入れた水を2㎞離れた同市中河内にある有馬浄水場に送水する施設を建設し始めました。が建設中大戦となり、終戦後、旧軍港転換法により横須賀市に無償譲渡されました。現在は「有馬系統」と呼ばれ、有馬浄水場から29㎞離れた横須賀市田浦第2排水地まで2ヵ所のポンプ所(1ヶ所は渡内ポンプ場)で加圧し、内径1mの鋳鉄管で送水しています。
日量は最大値73,000?(トン)です。この水路は小田原市飯泉の酒匂川取水堰から伊勢原浄水場を経由し、有馬浄水場に受水した水も送水しています。

yokosuka 5渡内のバス停から続く道に横須賀水道のマーク yokosuka 6石でマークされていました
yokosuka 7ようやくたどり着いた渡内ポンプ場 yokosuka 8村岡東の住宅地の中に建っていました

 現在も、藤沢市内を走っている横須賀水道みちは有馬系列です有馬浄水場で受水した水は
 旧半原系列の管と同じ行程で、弥勒寺付近まで来て、柄沢を右折し渡内地区に入り、
 渡内ポンプ場で加圧されます。弥勒寺から渡内ポンプ場辺道を歩いてみました。
 渡内バス停から
 右折ししばらく行くと水道局の印があり、この下を・・・と思いながら、
 渡内ポンプ場を探しました。渡内日永神社の四つ角から右折したものの、
 散歩している方に聞いてもどうもわかりませんでした。配達業務の方に尋ねたりしながら、
 とうとうたどり着きました。住宅地の中に建っていました。ここから一気に南下するようです。