藤沢市内を走る「横須賀水道みち」
横須賀水道道とは?
幕末期、江戸幕府は黒船襲来に際して鎖国を改め、横須賀製鉄所を建設しました。 |
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そこで藤沢市内を走る横須賀水道みちを調べてみました。 従って「水道道」と呼ばれました。当時は農道が中心である為、道路建設の草分けでした。横須賀市に明治時代「横須賀鎮守府」が置かれました。明治37年(1904)の日露戦争後、海軍力の整備が図られ、横須賀にあった海軍工廠や港湾の増強を進めました。その為、上水道や工業用水の需要が増え、相模川水系の中津川から導入されました。 |
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これは「半原系統」と呼ばれ半原水源地(愛甲郡愛川町)から53km離れた横須賀市逸見浄水場まで落差70mを付け、内径50cmの鋳鉄管を自然流水で送水していました。日量は最大値9,800?(トン)です。旧海軍用地を示す石柱が随所に見られます。走水水道は、その後海軍専用の水道として軍備拡充とともに改良され、1918年(大正7年)、中津川を水源とした軍港水道半原系統が通水し、翌1919年(大正8年)3月には走水水道施設が横須賀市に無償貸与され、横須賀市上水道の水源となりました。 |
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「有馬系統」について 渡内日枝神社前の東西周辺地域内 旧海軍は、海老名市社家の大堰で取り入れた水を2㎞離れた同市中河内にある有馬浄水場に送水する施設を建設し始めました。が建設中大戦となり、終戦後、旧軍港転換法により横須賀市に無償譲渡されました。現在は「有馬系統」と呼ばれ、有馬浄水場から29㎞離れた横須賀市田浦第2排水地まで2ヵ所のポンプ所(1ヶ所は渡内ポンプ場)で加圧し、内径1mの鋳鉄管で送水しています。 |
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現在も、藤沢市内を走っている横須賀水道みちは有馬系列です。有馬浄水場で受水した水は |