礼拝メッセージ

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2018年4月8日の礼拝説教

 

「あなたの兄弟が罪を犯したなら」

 マタイ18:12~20

 

今週の聖句

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、

そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、

その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」

     マタイの福音書7章13~14節

 

「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」(マタイ18:1)と質問する弟子たちに、

主イエス様は、彼らの考え方は根本からまちがっていることをお示しになりました。まず、

私たちが天の御国に入れていただけるのは、神さまの恵みによるのであり、ただただ

主の十字架のいのちの犠牲のおかげなのであって、私たち自身のうちに誇れるものなど

ないのです(ローマ3:23~27、ガラテヤ6:14、エペソ2:8・9ほか)。また神さまの目には、

一人ひとりがかけがえのない存在です。

 

神さまは私たちをほかの人との比較で評価はしておられません。一人ひとり愛をもって

みこころのご計画のうちに特別にお造りくださり保ち、導いてくださるのです。きょうの

聖書箇所の百匹の羊の中に迷子になった一匹の羊のたとえで教えられているのは、

私たちが百分の一の存在だというのではなく、一人ひとりがかけがえのない存在なの

だということです。

主は言われました。「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの

父のみこころではありません」。

 

さて、百匹の羊のうちの迷い出た一匹の羊のたとえから、主の教えは発展していきます。

「つまずきが起こるのは避けられません」(マタイ18:7)とありましたが、私たちは天の

御国の民であるとはいっても、罪を犯してしまうこともあり、ときには迷いでてしまうことも

あるものです。私たちは弱いものであり依然として罪の性質を持っているからです。

私たちは地上にある限りは罪の誘惑の中に置かれ、自分自身のうちにも弱さと罪深さを

持っているのです。

 

きょうの箇所で主イエス様は、私たちの信仰の兄弟姉妹の中でだれかが自分に対して

ひどいことをし、罪を犯した場合、どのようにするべきかを教えておられます。

主イエス様はここで、信仰の兄弟/姉妹が自分に対し罪を犯した場合、どのようにすべき

か、四つのことを教えておられます。第一にふたりだけのところで個人的に責めること、第二

にほかにひとりかふたりを連れて話し合うこと、第三に、教会で公に知らせること、第四に

教会の交わりから締め出すこと、です。

 

前後の文脈から明らかなように、これは何よりもまず罪を犯して迷い出たひとりを取り戻す

ためのものであり、また同時に教会のきよさを保つためのものでもあります。これはお互い

の罪を探しっこして責め合うためのものではありませんし、だれかを教会の交わりから追い

出すためのものではありません。まただれかが別の人を支配するためのものでもありませ

ん(こういう基本的なことが健全に理解されていないために、教会でさばき合いが横行して

いたり、牧師が会衆を支配していたりすることがままあります。反対に、「愛」ばかり強調して

甘やかしや無法がまかり通っているような場合もあります)。。

     

           http://www.karuizawa-christ-church.com/sermons.html

                     (4月8日の礼拝説教を音声で聞くことができます)

                           

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

礼拝メッセージ

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2018年4月1日の礼拝説教

 

「からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず」

ヨハネ6:37~40・47

 

今週の聖句

「わたし(イエス・キリスト)を遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださった

すべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしが

その人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

          ヨハネの福音書6章39~40節

 

復活祭おめでとうございます! 主イエス様はおよそ2千年前のこの時期、私たちの

罪を償い、清算し私たちを贖うために十字架におかかりくださり死なれたのですが、

3日目の日曜日、きょう罪と罪がもたらした死に打ち勝ってよみがえられました。

きょうは主のよみがえりからもう一歩進んで、使徒信条で「からだのよみがえり、

とこしえのいのちを信ず」と告白していることについて、『ハイデルベルク信仰問答』

を手がかりに確認したいと思います。信仰の先輩たちは聖書の教えを次のように

まとめました。

 

第57問 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを、与えますか?

答 私の魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、という

   だけでなく、やがて私のこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、

   再び私の魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、

   ということです。

 

第58問 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか?

答 私が今、永遠の喜びの始まりを、心に感じているように、この生涯の後には、

  目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な

  祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

 

使徒信条は、三位一体なる神さまとその救いのみわざを告白しつつ、天地創造から

最後の審判、永遠のいのちの完成に至るまでの、神さまの壮大な救いのみわざを

まとめています。私たちに差し出されている救いは、天地万物の造り主であり、

主権者であられる神さまが私たちを愛し、世界の歴史に働かれ大きな犠牲を払って

備えてくださったものです。

 

「からだのよみがえり、とこしえのいのち」はその最後の部分です。神さまは、

御子イエス・キリストのいのちの犠牲によって私たちのすべての罪を赦し、私たち

をご自分と和解させてくださり、正しい者として受け入れて永遠のいのちを与えて

くださいました。しかも神さまは、私たちを御子キリストに連なるゆえに「神の子ども」

として受け入れてくださり、この地上にあって神さまの愛と守りと祝福を受け、祈りを

聞いていただけるのです。そして神さまとの豊かな交わりに生きることができるのです。

死ねば直ちに主のみもと、またご自分のみもとに召してくださり罪から解放されての

しばしの休みに入れてくださいます。

 

そしてやがて祝福に満ちあふれるご自分の永遠の御国が完成するときには、私たちを

ご自分の子どもとしてここに入れ、これを相続させてくださる約束が聖書に記されています。

この最後の完成は、「からだのよみがえり」と「とこしえのいのち」において実現されます。

私たちはこの地上の生涯においても、いのちの与え主であるお方との親しい交わりに

よってこの祝福を部分的に味わうことができます。そして神さまがこの祝福を完全に実現

してくださるのを、楽しみに待ち望みながらこの地上の生涯を送るのです。やがて間もなく

その完成のときがきます。

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                      http://www.karuizawa-christ-church.com/sermons.html

                     (4月1日の礼拝説教を音声で聞くことができます)

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

来週の日曜日はイースター(復活祭)です。私たち人間の罪の身代わりとなって十字架に

かかって死んでくださり、3日目によみがえられたイエス・キリスト。

今週は「受難週」です。

きのう宣教区の会議がありその席で T 牧師が語ってくださいました。復活されたイエス様に

出会った2人の弟子の様子です。

 

 

 

 

ルカの福音書 24:30-35

24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、

 

エマオ途上の二人の弟子は、意気消沈し絶望していました。その二人にイエス様が

歩み寄り、共に歩いてくださり、みことばを解き明かしながら、イエス様こそ約束された

救い主であることを示してくださいました。

 

よみがえられたイエス様を知るまで、暗くふさぎ込んでいた二人でした。弟子たちの

交わりから離れて行った二人でした。その二人が心開かれ、心燃やされた時、まことの

イエス様を知った時、彼らは変えられました。二人は、目の前の食事に手を付けることも

せず、すぐさま立ち上って、エルサレムに戻ったのです。

 

もう日は暮れ、あたりは真っ暗でした。けれども、彼らの心には光がしっかりと灯って

いました。イエス様というまことの光を知った彼らは、夜の暗闇を打ち破って、まっすぐに

エルサレムへ駈け出して行ったのです。もう一度、主イエス様にある交わり、弟子たちの

交わりに加わるために、エルサレムへと戻って行くのです。

 

全く対照的な11キロの道のりでした。エマオにやって来たときは、昼間でした。けれども

彼らの心は真っ暗闇でした。しかし今、外は真っ暗闇になっていたにも関わらず、彼らの

心は光に照らされていました。

 

私たちも、時に虚しい歩みをし、悲しみの道を通らされ、意気消沈してしまうことがあります。

けれども、私たちの人生は孤独ではないのです。伴走者、共に走り、共に歩いてくださる

方がおられます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」

(マタイ28:20)と約束してくださる主イエス様が、共におられます。みことばで私たちを励まし、

支えていてくださいます。