とてもじゃないが、素人には分り得ない世界である
最近、私は神津善行氏が1980年に著わした『音楽の落し物』という音楽エッセイを読んでいる。
今から30年も前に買った本をまた読み返す気になった直接の原因は、中学高校時代の友だちの娘婿が作曲をするという話を聞いてから、音楽センスのない私には、そうした才能を持った人が身近にいることがとても羨ましいと思ったことがキッカケだった。
どんな条件下でも一つの音を聞いたら、どの音階の音かを一瞬のうちに判別してしまう「絶対音感」を持っている人がこの世に存在することなどとても信じられないほど、私は音楽に関しては鈍感で、音符を読むだけでハミングできる人は、ただそれだけで尊敬を通り越して、崇拝の念さえ感じてしまうのである。
友だちは幸せなヤツだとつくづく思う。そう言えば、音楽について色んな視点から書かれたエッセイがあることを思い出して、やおら私は本棚の奥からこの本を引っ張り出して読み出したのである。
音痴論や楽器性格論、そして音楽と盗作論など、実に興味のある話が幾つも載っている。
そんな中で、やはり私が興味を引いたのはやはり「音楽盗作」に関するエッセイであった。
日本で盗作ではないかとの疑いを掛けられたのは、鈴木道明作曲「ワン・レイニー・ナイト・イン・東京」が、ハリー・ワレン作曲の「夢破れし並木路」に似ていると言われたことが端緒のようである。だが、東京地裁は「二つの曲の旋律、節奏はかなり似たところがあるがワン・レニー曲には独創性の認められる部分もあり、同一のものとは断定しがたい」という判決を下した。
それ以後、音楽の世界では、全てが同じ旋律、節奏でなければ、いわゆる盗作と言われることはなくなったようだ。つまり、部分部分で似通った旋律があったとしても、音楽の趣味嗜好が似ていて、感動の度合いが大きければ、脳裏のどこかに刻まれていて、作曲する段階で知らず知らず出てきてしまうものらしい。
65年も長く生きてくると、音楽音痴の私の耳にさえも色々音楽の盗作騒ぎが聞こえてくることがある。
古くはベートーベンのピアノ協奏曲五番「皇帝」と中村八大氏が作曲した「上を向いて歩こう」が似ているとか、美輪明宏氏の「ヨイトマケの唄」と武田鉄矢がボーカルをつとめる海援隊の「母に捧げるバラード」の出だしの部分の何小節かが、「ヨイトマケの唄」そのものズバリのメロディで、明らかに盗作ではないかとか。見方によっては専門家に盗作の疑いのあると指摘される曲は枚挙にいとまがないとも言える。
素人の私にも、例に挙げた後者の「母に捧げるバラード」はまさに全く同じメロディと思えるのだが、当の武田鉄矢氏は美輪明宏氏との対談の中で、自然に浮かんできたメロディだったと語り、美輪氏もそれを即座に了承していた。つまり、脳のどこかに一旦刻まれたメロディは、曲作りのモチベーションが沸いてきたときには、何がオリジナルかなどという詮索をいちいち振り返ることなしに、あらゆる雑念を一気に乗り越えて、自然と湧き出てくるものらしい。
ある音楽作曲家から聞いたことがある。同じ旋律部分を多く持った二つ曲も編曲というフィルターを通すと全く別の曲に変貌してしまうという危うさを音楽は内包しているというのである。その音楽家が例に挙げたのは、古い例で申し訳ないが、演歌の山本譲二氏が歌った「みちのくひとり旅」のサビの部分ともんた&ブラザーズが歌った「ダンシング・オールナイト」のサビの部分である。その音楽家は、二つの曲をまったく同じテンポで演奏してから、まるで手品師が種明かしをするかのように、すべてが明らかにしてくれた。
ただ、この二つの曲は共に1980年に製作されていて、どちらかが影響を受けたとは私には思えない。音階が類似しているのは全くの偶然だったと思われる。とてもじゃないが、音楽の世界は素人には分り得ない世界で、それだけ深遠な領域ということなのかも知れない。
<参考>
【みちのくひとり旅】
たとえどんなに 恨んでいても
たとえどんなに 灯りがほしくても
お前が俺には 最後の女
俺にはお前が 最後の女
たとえどんなに つめたく別れても
お前が俺には 最後の女
たとえどんなに 流れていても
お前が俺には 最後の女
【ダンシング・オールナイト】
ダンシング・オールナイト 言葉にすれば
ダンシング・オールナイト 嘘に染まる
ダンシング・オールナイト このままずっと
ダンシング・オールナイト 瞳を閉じて
今から30年も前に買った本をまた読み返す気になった直接の原因は、中学高校時代の友だちの娘婿が作曲をするという話を聞いてから、音楽センスのない私には、そうした才能を持った人が身近にいることがとても羨ましいと思ったことがキッカケだった。
どんな条件下でも一つの音を聞いたら、どの音階の音かを一瞬のうちに判別してしまう「絶対音感」を持っている人がこの世に存在することなどとても信じられないほど、私は音楽に関しては鈍感で、音符を読むだけでハミングできる人は、ただそれだけで尊敬を通り越して、崇拝の念さえ感じてしまうのである。
友だちは幸せなヤツだとつくづく思う。そう言えば、音楽について色んな視点から書かれたエッセイがあることを思い出して、やおら私は本棚の奥からこの本を引っ張り出して読み出したのである。
音痴論や楽器性格論、そして音楽と盗作論など、実に興味のある話が幾つも載っている。
そんな中で、やはり私が興味を引いたのはやはり「音楽盗作」に関するエッセイであった。
日本で盗作ではないかとの疑いを掛けられたのは、鈴木道明作曲「ワン・レイニー・ナイト・イン・東京」が、ハリー・ワレン作曲の「夢破れし並木路」に似ていると言われたことが端緒のようである。だが、東京地裁は「二つの曲の旋律、節奏はかなり似たところがあるがワン・レニー曲には独創性の認められる部分もあり、同一のものとは断定しがたい」という判決を下した。
それ以後、音楽の世界では、全てが同じ旋律、節奏でなければ、いわゆる盗作と言われることはなくなったようだ。つまり、部分部分で似通った旋律があったとしても、音楽の趣味嗜好が似ていて、感動の度合いが大きければ、脳裏のどこかに刻まれていて、作曲する段階で知らず知らず出てきてしまうものらしい。
65年も長く生きてくると、音楽音痴の私の耳にさえも色々音楽の盗作騒ぎが聞こえてくることがある。
古くはベートーベンのピアノ協奏曲五番「皇帝」と中村八大氏が作曲した「上を向いて歩こう」が似ているとか、美輪明宏氏の「ヨイトマケの唄」と武田鉄矢がボーカルをつとめる海援隊の「母に捧げるバラード」の出だしの部分の何小節かが、「ヨイトマケの唄」そのものズバリのメロディで、明らかに盗作ではないかとか。見方によっては専門家に盗作の疑いのあると指摘される曲は枚挙にいとまがないとも言える。
素人の私にも、例に挙げた後者の「母に捧げるバラード」はまさに全く同じメロディと思えるのだが、当の武田鉄矢氏は美輪明宏氏との対談の中で、自然に浮かんできたメロディだったと語り、美輪氏もそれを即座に了承していた。つまり、脳のどこかに一旦刻まれたメロディは、曲作りのモチベーションが沸いてきたときには、何がオリジナルかなどという詮索をいちいち振り返ることなしに、あらゆる雑念を一気に乗り越えて、自然と湧き出てくるものらしい。
ある音楽作曲家から聞いたことがある。同じ旋律部分を多く持った二つ曲も編曲というフィルターを通すと全く別の曲に変貌してしまうという危うさを音楽は内包しているというのである。その音楽家が例に挙げたのは、古い例で申し訳ないが、演歌の山本譲二氏が歌った「みちのくひとり旅」のサビの部分ともんた&ブラザーズが歌った「ダンシング・オールナイト」のサビの部分である。その音楽家は、二つの曲をまったく同じテンポで演奏してから、まるで手品師が種明かしをするかのように、すべてが明らかにしてくれた。
ただ、この二つの曲は共に1980年に製作されていて、どちらかが影響を受けたとは私には思えない。音階が類似しているのは全くの偶然だったと思われる。とてもじゃないが、音楽の世界は素人には分り得ない世界で、それだけ深遠な領域ということなのかも知れない。
<参考>
【みちのくひとり旅】
たとえどんなに 恨んでいても
たとえどんなに 灯りがほしくても
お前が俺には 最後の女
俺にはお前が 最後の女
たとえどんなに つめたく別れても
お前が俺には 最後の女
たとえどんなに 流れていても
お前が俺には 最後の女
【ダンシング・オールナイト】
ダンシング・オールナイト 言葉にすれば
ダンシング・オールナイト 嘘に染まる
ダンシング・オールナイト このままずっと
ダンシング・オールナイト 瞳を閉じて