新幹線の建設現場に防空壕15カ所 爆心から1.8キロで次々確認 「被爆の跡ない」長崎市は取り壊しへ [長崎県]
長崎市天神町の九州新幹線西九州(長崎)ルートの建設現場で、戦時中の防空壕(ごう)が15カ所確認された。被爆直後などに多くの市民が避難したとみられるが、市は「被爆の痕跡が残っておらず、保存する特段の理由もない」として壕の穴埋めや撤去を認め、建設を進める鉄道・運輸機構九州新幹線建設局(福岡市)が工事を続行する方針。壕は来年中に姿を消す見通しだが、市民からは保存や調査を求める声が上がっている。
防空壕は空襲から身を守るため、各家庭や町内会などが掘った。今回見つかった防空壕は爆心地の南約1・8キロ、被爆当時の地名では銭座町2丁目。「長崎原爆戦災誌」によると、銭座町1丁目を含めた銭座地区全体で約480世帯2350人が住んでいたが、原爆投下で建物が全壊、全焼する壊滅的な被害を受けた。
機構によると、現場は新幹線新長崎トンネルの出入り口付近に当たり、現在のJR長崎駅から約400メートルと近い。機構がトンネルや高架橋などを建設するため、昨年7~12月に家屋や店舗を撤去したところ、崖下や斜面に掘られた壕が次々に見つかったという。大きさは幅0・7~1・3メートル、高さ0・8~1・6メートル、奥行き最大4・9メートル。いずれも家庭用として掘られたとみられ、近年まで個人宅の物置として使われていた壕もあったという。
機構は順次、壕を削ったり埋めたりする作業を進め、来年中に完了する予定。2020年度には線路や関連設備の工事を終え、22年度に武雄温泉(佐賀県)-長崎間の暫定開業を迎える。
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■「被爆時物語る遺構」 市民団体は保存求め活動継続
長崎市が今回の防空壕を保存しない理由は大きく二つ。残すべき被爆遺構の“線引き”を定めた被爆建造物の取り扱い基準と、古い壕が崩れる恐れなどの安全性だ。市は「当時、どこにもあった防空壕の一つ」との認識だが、複数の市民団体は「爆心地に近く市民らが避難した可能性がある貴重な遺構」として保存を要望。合同でシンポジウムを開くなど、今後も活動を続ける方針だ。
市が保存の可否を判断する材料の一つにしているのが「市被爆建造物等の取扱基準」。基準では「熱線や爆風など原爆の痕跡が認められるもの」「痕跡はなくても、当時の社会的状況を示唆するもの」を保存対象と定義。市の説明では、今回確認された防空壕に熱線や爆風など原爆の痕跡はなく、軍事施設や重要施設のような「社会的状況を示唆」するものでもないと判断したという。
さらに安全面の問題もある。2005年に鹿児島市で防空壕内に入った中学生4人が一酸化炭素(CO)中毒で死亡したほか、各地で防空壕の上を通る道路の陥没も起きている。市はこれまで、市内471カ所の防空壕を確認し、崩落の危険性がないものを除く447カ所で、穴を埋めるか開口部をふさぐ対策を取っている。
「100年、200年たったときに、歴史を物語るものを残すべきだ」。壕の保存を訴えるため、五つの団体が今月9日に開いたシンポジウム。登壇した「在外被爆者支援連絡会」共同代表の平野伸人さん(71)は参加者約50人に訴えた。
平野さんらが保存を求める理由は、爆心地から約1・8キロと近く、原爆投下時に市民が実際に避難した可能性がある点。さらに、壕から約200メートルの場所には捕虜収容所があり、捕虜のオランダ人らが被爆翌日に壕のそばで休む姿も住民に目撃されているという。平野さんは「被爆者が減る中、被爆当時の状況を伝える歴史的な遺構として残すべきだ。被爆の痕跡がないというだけでは片付けられないはずだ」と訴える。
平野さんらが3月に市に保存を求めた際、市原爆被爆対策部の中川正仁部長は「文献を調べても捕虜が避難したか特定できない」とし、工事の進展を理由に壕内部の調査も拒んでいる。
=2018/04/13付 西日本新聞朝刊=