野坂昭如の小説『火垂るの墓』を収録した新潮文庫は、実際のタイトルは『アメリカひじき・火垂るの墓』にもかかわらず、カバー表紙には『火垂るの墓』とだけ掲げられ、装画にも映画版の節子のキャラクターが用いられている
正直にいえば、私は高畑勲の「火垂るの墓」をこれまで何となく敬遠してきた。これは原作者である野坂昭如への思い入れがそうさせてきたのかもしれない。少年時代の自分にとって野坂は、ときにCMで畳の被り物をして歌う愉快なおじさんであり、あるいは放言、暴言も辞さずあらゆることを斬る論客だった。また、長じて最初に読んだ彼の小説が『エロ事師たち』だったことも大きい。同作といい、愛聴していた「マリリン・モンロー・ノー・リターン」などの野坂の歌といい、戦災孤児を描いた『火垂るの墓』とはイメージも内容もことごとく遠いものに思われた。ましてやアニメ映画化された「火垂るの墓」のイメージは、この作家が持つ猥雑な雰囲気とはなはだしい齟齬を感じさせた。
それが今回、ほぼ初めて映画版「火垂るの墓」をDVDで観たところ、胸に迫るものがあり、いままで避けてきたことを反省した。それとあわせて、原作小説もあらためて読んでみたのだが、話の筋は同じとはいえ、やはり映画とは別物という感想を持った。
『火垂るの墓』の原作と映画の違いについては、日本文学者の越前谷宏(龍谷大学教授)が「野坂昭如「火垂るの墓」と高畑勲『火垂るの墓』」という論文(『日本文学』2005年4月号、日本文学協会)でくわしく検証している。ここでもそれを踏まえながら、見ていきたい。
清太とおばさんは具体的にどんな関係だったのか
越前谷の論文では、原作もアニメも「幼い兄妹が実母と死別し、他人の冷遇に耐えきれず、逃亡漂白する継子譚の定型」を踏んでいるとしたうえで、《だが、原作にはあったはずの幾つかのノイズが、アニメでは消されてしまっている》と指摘している。
たとえば、主人公の清太と未亡人である「小母さん」の血縁の距離。清太と妹の節子が母親を神戸大空襲で亡くしたあと、身を寄せるこの小母さんは、劇中では「遠い親戚」としか語られず、具体的に兄妹とどのような関係であったのかには触れられていない。…
原作から、此れだけ賭け離れているわけだ。それも踏まえて見るべきでしょうね。
みるよ!もちろんみるよ!
現代の少年が昔にタイムスリップしたみたいなのは『ラピュタ』『紅の豚』も同様。まだ発明されてない物や珍しかった物を見て驚かず、当時のありふれた物を見て驚くんだから。
救いがない話だから見たくない・・・><
悲しいストーリーらしいから、みんな涙ながすんでしょ。だから今まで観ないでした。 でも観たい気もするけど、やっぱり怖い。どうしようかな。