※牧村さんに聞いてみたいことやこの連載に対する感想がある方は、応募フォームを通じてお送りください! HN・匿名でもかまいません。
「友人 恋人」と検索すると、関連検索キーワードはこんな感じです。
「違い」
「境目」
「わからない」
友情と恋愛の間で思い悩み、こっそりスマホで検索している人たちの姿が思い浮かぶようです。検索結果を見ても、「友情と恋愛は別物」という前提に基づき、どう見分けるかを解説する記事がたくさん書かれています。
が……
果たして、本当に別物でしょうか。
友情と恋愛は、「分かれている」のではなく、「分けられている」ものなのではないでしょうか?
「友人」と「恋人」が別の単語として存在する現代日本語だけで考えていると、それぞれが当然別モノであるように思えてきます。けれどそもそも「友人」「恋人」を区別する考えは、明治以降、西欧から入ってきたものなんです。
では、開国前後の日本ではどう考えていたのか。また、西欧ではない国々……例えばアフリカのレソトとか中米のグァテマラでは、どう考えていたのか。今回はそうした実例を引きながら、「友達に欲情してしまった。罪悪感でつらい」というご投稿をもとに考えていきます。友情と恋愛の間に、なぜ線が引かれたのか。そして、どう線を引くかを。
以下、青い字が投稿文です。
はじめまして。お伺いしたいことがあり応募させていただきました。
私は生まれてからずっと異性が恋愛対象でした。ですが、この間同性の友人と遊んだときに彼女に欲情してしまいました。彼女は肩の透けたトップスにミニスカートをはいて来ており、その姿を一目見て「彼女の服を剥いで性行為をしたい」と思ってしまいました。
私は今までずっと彼女を仲の良い友人だと思っていましたし、今まで同性の方にそのような思いを抱いたことがなかったので正直驚いており、また、友人にそのような思いを抱いてしまったことにとても罪悪感を抱いています。
友人に抱いてしまったこの思いはただの気の迷いでしょうか、それとも私が気付かなかっただけで本当は私は彼女に恋愛感情を抱いていたのでしょうか?それと、牧村様は友人に抱く感情と意中の人に抱く感情とをどのように区別されていらっしゃいますか?
(ご投稿を一部編集して掲載しました)
胸の内をお聞かせくださって、ありがとうございます。
いや、しょうがないですよね。かわいいもん、かわいいものはかわいいもん。欲情しちゃうのはほんと、しょうがないことだと思います。
世の中には、「欲情しちゃうのはしょうがない」に「そんな格好してくる方が悪い」って続けて手出ししたりいやらしいことを言ったりする自己中ウホウホモンキッキーの皆さんがいらっしゃいます。でもあなたはそうはなさらなかったのね。相手を思って踏みとどまり、その欲望と向き合った。
めっちゃかっこいいぜ。
以上!
って終わりたいのですが、まだよね。向き合う過程で多分、この2つのポイントが問題になってるんですよね。
(1)欲情した。なので罪悪感を抱いた。
(2)欲情した。なので、友情でなく恋愛感情だったのではと思った。
(1)については、「何も悪くない。自己中ウホウホモンキッキーにならずに相手を思いやり自分と向き合ったんだからえらい。すごい。だいすき」ということで、私から申し上げられることは以上です。
では、次に行きましょうか。
本当は私は彼女に恋愛感情を抱いていたのでしょうか?
ここです。性欲=恋愛≠友情、みたいになってるとこ。
恋愛と友情の区別を、性欲の有無で決める。この方程式、わりとポピュラーですよね。
でも、おかしいと思いませんか。
じゃあなんでセックスフレンドって言葉があるのか?
じゃあなんで「キスやセックスをしようとは思わないけど仲良し」っていう恋人たちがいるのか?
じゃあなんで「恋愛のトキメキは男性に感じる、でも性欲は女性にしか感じない(英語で言うandroromantic gynosexual/アンドロロマンティック・ジノセクシュアル)」というあり方の人たちがいるのか?
それはね。恋愛と友情が、分かれているものじゃなく、分けられたものだからです。
生きればわかるけど、人間のドキドキやムラムラやトキメキやヒリヒリなどなどを、キレイに整理しようとしても無理ですよ。機械じゃないんだから。それでもなぜ恋愛と友情が分けられたか、そしてなぜ性欲と恋愛が結び付けられたか。それは、「恋愛と友情は別。恋愛の先にこそ結婚やセックスがある」とした方が、社会の管理上やりやすかったからではないでしょうか。
「恋愛→結婚→セックス」ルートが正しいとされた背景として考えられるもの
(1)ウイルスや病原菌の進化・新種登場により、性感染症が重症化・多様化した(例えば梅毒は諸説あるが15世紀ごろ、AIDSは20世紀に出現)。そのため、特定の性的パートナーとの間だけで関係を持つようにすることで、感染リスクを減らし、感染ルートを明らかにしようと試みられた。
(2)貨幣や所有の概念が広まり、扶養・遺産相続・養育費などなどといった、家族間の金銭的な責任関係を表す概念も登場。そのうえ今のようなDNA検査もできなかったので、「この子は誰と誰の間に生まれた子供か」を、性的パートナーの限定ではっきりする必要性が生まれた。
で、こういう近代社会の運営方法を、西欧は植民地主義に乗せて広めたし、日本は岩倉使節団とか伊藤博文とかに持って帰ってきてもらって導入したわけです。「ちょんまげなんか恥ずかしい」って切り落として。
ちょっと世界を見回せば、ちょっと時代をさかのぼれば、現代日本式(というか、もともとは西欧式)ではない関係性は色々出てきます。いま私たちは現代日本語で話し合ってるので、どうしても「結婚」とか「友達」とかそういう言葉を使って表現せざるを得ないんだけど、それでも例を挙げてみると、こんなやつがあります。
・チャミング(米国テネシー州メンフィス、19世紀ごろ)
女性の親友同士がキスしたり、ハグしたり、手を繋いだりする行為のこと。
・カマラディア(グァテマラ領・チノートゥレコ族)
結婚のような儀式をもって一対一の親友関係を結ぶ関係性のこと。ケンカしたら、破棄の儀式もある。
・Motsoalle(読み方がわからないごめん/アフリカ・レソト王国)
年長の女性が、自分を慕ってくる年少の女性に、性の手ほどきをしたり勉強を教えたりする。Motsoalle関係は、女性が男性と結婚した後も続く。マミーベイビーともいわれる。ちなみにGoogle翻訳で調べると、「友人」も「恋人」も、レソト王国のソト語では同じく「Motsoalle」になるけど、本当かなあ。
・エス(日本、明治~昭和初期)
いずれ男性に嫁ぐことを強いられていた若い女性同士が、文通する、お揃いのリボンをつけるなどして強い絆を結ぶ関係性。
ね。人間と人間の関係の結びかたって、本当、色々でしょ。そういう中でたまたま、恋愛と友情を分ける派の文化圏に属するみなさんが優勢になっただけなのよ、人類。
なので私は、「ちょんまげ切らされてたまるかーっ」ってなりながら、武者のような勢いでエスの女の子たちの手紙を読みます。アマゾンの人たちの暮らしについて読みます。「パートナーとカレシと俺」っていう暮らしをしてるゲイの友人一家のゴミ出し当番制の話を聞くし、「うちら子供の頃お互いの首筋をなめあう遊びをしてたんだよね。ゾワゾワして楽しかった」と笑う幼馴染の女性同士の話を聞きます。それで、自分に戻って考えるんです。
自分はどう生きたいかを。
自分は、誰と、どう生きたいかを。
関係が社会を作るし、社会が関係を作るのです。あなたが、お友達と認識する人との関係において抱いた、「友達に欲情してしまって罪悪感。これは本当は恋愛だったのかしら」という思いは、めちゃくちゃ、社会によって形成されたものだと私は思います。
人は、人と、友達になれる。けどエスにもなれるし、チャミングもMotsoalleもカマラディアもできるはず。名前なんかないオリジナルの関係性を作っていったっていい。っていうか本当はそれぞれオリジナルの、かけがえのない関係性で人は結ばれているはず。ただ社会の運営やコミュニケーションの都合でラベリングをしているだけで、その中身はもっと自由なはずなんです。
あなたが、あなたの大切な人と、これからも、素敵にオリジナルな関係性を築いていけるように願っています。
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