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「武道」と「御本尊オタク」

教学オタク

「居合い」という武道があります。剣を抜いて、そして鞘に納めるまでの一連動作の『型武道』です。使用する武器は「模造刀」ではなく、「真剣」です。所謂、人斬り包丁です。

「本尊義」という馬鹿な話を、未だあれこれやっている連中が世に存在します。御本尊が本物かどうかを、微に入り細を穿(うが)った詳細なる文章を書きまくりながら悦に入っている、下劣な似非(えせ)信心オタクです。
「どうだ、参ったか…!!」
と言う声も聞こえてきます。
彼等は自分の貧弱な知識を披露したい、単なる古文オタクです。難しければ難しい程、更に嬉しそうに古代文字を並べ立てます。そんな暇があれば題目の一つでも…と思わないでもありませんが…。
彼等「御本尊オタク達」には、決して本物の御本尊を見つけることは出来ません。何千年探したとしても、見つかる物は坊主の骨の欠片(かけら)だけでしょう。何故なら、彼等には信心の欠片もないからです。どんなに理屈の通った文章を書こうと、何をしようと、決して御本尊の「ご」の字も発見は出来ません。

さて、本物の武道家は武器を選びません。どんな物でも武器に出来ます。
唯の棒きれも武器に出来ます。突然襲ってきた凶賊数人を、小さな薪(たきぎ)で全て叩きのめしたと言う話は実際に存在します。模造刀は偽(にせ)の日本刀ですけど、刃筋(はすじ)さえ合えば、力の入れ具合で相手の腕を切断することが出来ます。薪の棒だとしても同じです。切れるか痛いかの違いだけです。
偽者の武道家はどうでしょう…。
彼等が、どんなに立派な本物の日本刀を持っていたとしても、切り方が偽物なので、大根一本切れるかどうか…。下手をすれば手首を骨折した上で、更に足首を一刀両断と言う可能性も持っています。気を付けましょう…。(実際にあることなのです)
私は、信仰と武道を同じと言っている訳ではありません。しかし、考え方は同じと言えます。

「本物」とは「信心」のことだと言う事が、いつまで経っても「偽者」は理解しません。本物の信心の持ち主が御本尊に向かうと、本物の功徳がでるのです。本物の武道家が持つ全ての得物(えもの)は、本物の武器だと言えるのかもしれません。
アンチが何を騒ごうとも決して功徳が出ないのはその違いです。偽物はどこまで行っても偽物です。御本尊や日本刀の「真偽」の問題ではありません。偽者が持つ物は全て偽物なのです。功徳が出る訳は無いのです。
でも、偽者に限って「形(かたち)」を気にします。偽者が「本尊義」に異常に執着するのは、偽者なるが故の行為だと言えます。偽の武道家に限って(金の許す限りですが)高い日本刀を所持したいようです。武道具も高級品を揃(そろ)えようとします。で、それで何が出来るか…。せいぜい剣に振り回されるのがオチなのです。
「偽者」とはそう言う習性を持っているようです。そんな御本尊オタクの話を聞く必要は一切ありません。時間の無駄です。

信心も無い、功徳も信じない連中は、例え大聖人直筆の本物の御本尊を持っていたとしても、それは唯の紙切れ同然のものだと言えます。(そんな意味の事を池田先生が言われたこともあります)
御本尊は、自分の信心で本物かどうかが決まってきます。この事実を肝に銘じて更に学会の活動をやっていきたいですね…。

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「武道」と「御本尊オタク」” への1件のコメント
  1. 福島の壮年 より:

    学会員でありながら、理屈ばかりを捏ねてこの記事内容を疑う者は、
    次の御文をよくよく拝すべし。
    『但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、
    法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし』

    あはは、そのままですね。

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