◆青葉のキセキ−次代を歩む人たちへ− 第4部 見つけた居場所 歩 一歩ずつ(2)

8歳の頃の玉城歩。当時0歳だった大切な妹の世話をする(本人提供)

 朝は6時起床、夜は10時消灯。児童養護施設の厳しいルールは窮屈にも感じたが、14歳の玉城歩(あゆみ)にとって普通に学校へ通えることがうれしかった。

 中学3年の夏。友人にHIV人権ネットワーク沖縄が取り組む劇の練習見学に誘われた。「舞台とかやってキラキラしてる人とは、住む世界が違うし…」。そう思って最初は断った。だが、人の顔色をうかがう癖がついていて本音をしまい込みがちな歩に、施設の先生が「やりたいことをやって」と背中を押した。

 気持ちを表に出すのが苦手だったから、役の感情を考え表現する演劇は良いトレーニングになった。何より、自分が自分らしく笑える居場所。劇団のメンバーがよく話を聞いてくれて「お父さん」のような信頼できる大人にも出会った。

 演劇が学外活動として評価され、推薦で志望高校に合格。演劇に、生徒会に、アルバイトに打ち込み、放送部にも所属した。「ほんと楽しすぎた!」と振り返る高校時代。心のどこかで「この幸せな生活がいつなくなるか分からない」と思いながら、“普通の毎日”をかみしめていた。

 当時出演したのは、HIVに感染した女子高生がハンセン病回復者の「八重子おばぁ」の生き方に触れる劇。「私が八重子おばぁだったら、人や世の中や自分も恨んで生きていけなかった。でも、おばぁは全部許して生きていこうとしている」−。劇中のせりふの意味を解釈し自分に落とし込む中で、離れて暮らす母への複雑な思いに向き合った。

 「こんなつらい思いをするなら産んでほしくなかった」。そう母を否定しようとしたこともある。だが、そんな自分が許せなかった。常に心の底にある、母を好きな気持ちまで否定したくない。「やっぱりお母さんが好き」。これから母とどう一緒に生きていくか、考え続けた。

 16歳の誕生日。法的に結婚できて子を産み母親になれると考えた時、母に少し寄り添える気がした。何げなく電話すると、次第に本音があふれ出た。

 「お母さんと普通に暮らせなくて苦しかった」「母じゃなくて、一人の女性として生きてたんだね」「でも、お母さんなりに歩たちを守ってたんだよね」。最後に口から出たのは、自分でも予想していなかった言葉。

 「お母さん、産んでくれてありがとう」

 母は泣きながら受け止めてくれた。「こんなお母さんでごめんね」。今でも連絡を取り合うほど仲良しだ。=敬称略(社会部・宮里美紀)

<歩 一歩ずつ(3)に続く>