怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。(『善悪の彼岸』)
有名なニーチェのアフォリズムだ。
人は怒るとき、最もその醜い部分を晒すのだろう。
これは自分にも言える。
怒る時に感情が乗っかるのはしょうがない。
それが人間なのだから。
だから僕は、特に怒る時、筋と道理が通らないことは絶対しないようにしている。
その代わり人情とか情状酌量とか、そんな部分も同時に無視する。
「相手が悪いのだから自分はそれ以上に悪いことをしても許される!」という心理には陥りたくない。
この辺はいつも危ういのだが。
ニーチェはこうも言っている。
キリスト教道徳は奴隷の道徳、弱者の道徳である。生の拡大を妨げ、本能の発揮を抑え、人間を萎縮させ、退化させる道徳である。(『善悪の彼岸』)
弱者の道徳、つまり弱い自分、何の役にも立たないヒキオタニートのクズ人間!でも俺最高!という倒錯的な理屈が、特にオタク層の中には根強くあって、それがネットの力で拡張し、「ポタク」の蔓延を招いている。
「高畑勲4」でも高畑さんが語っているように、「ムカついている俺は無条件に許されるのだ!」という、どうしようもない理不尽な動機が、現代のあちらこちらにどんどん芽吹いている。
特にアニメの周囲では、こんな幼稚なやり取りばかりで、眩暈すら起きる。
アニメが「弱者救済の場」「我儘オタクの駆け込み寺」であることに、未だ僕は違和感を感じている。
そういうアニメ文化のぬる甘さは、何も最近に限ったことではなくて、既に『鉄腕アトム』の誕生の瞬間から宿命づけられていたのだ、と宇野さんは『母性のディストピア』で語っている。
しかし、どうしてアニメばかりが?
納得し切れないことばかりだ。
「高畑勲後」のアニメ界で、アニメが自浄作用によってその歪さから解放されることは、もはや絶望的だろう。
しかし僕は自分の信じる道を往くしかない。アニメはオタクのおもちゃではない。
「真実の器」だ。