興味深い対談(トークショー)を見つけた。
高畑さんが晩年の大きなテーマに据えていた「ムカつく」の心性についてだ。
「ムカつく」という、非常に身勝手な言葉、そしてそれを安易に連呼する現代人に、高畑さんは強い不快感と、同時に強い興味を持っていたらしく、ことあるごとにこれに言及している。
「ムカつく」とは何だ!それはただのお前の気分じゃないか!
世界はお前の気分で回っている訳ではない!
僕も高畑さんの影響を強く受けているから、こういう物言いをしょっちゅうする。
しかし高畑さんは、必ずしも批判一辺倒で済ませていた訳ではない。
かの『火垂るの墓』、来週日テレで急遽追悼放送されるらしいが、この主人公である清太と節子は、まさに「ムカつく」を連呼する現代人として描いた、というのだ。
どうもこの作品、反戦の象徴だとか、戦争の悲惨さだとか、そういう感想がズラズラ並ぶのだが、きちんとフィルムを観ると、それが愚かで浅薄な考えなのだということは容易に解る。
これはどの作品にも見られる、所謂「高畑トリック」であり、高畑さんも意図的に仕掛けていたとしか思えない。
観客にわざと誤読をさせ、その愚かしさを見てほくそ笑むという、かなりドSな心理が、高畑さんにはあったのかも知れない。
話を戻して、清太や節子はなぜ死んだのか?
実は戦争のせいではない。
単におばさんの家を出たからだ。
その理由は、彼の言い方だと「ムカついた」からに他ならない。
おばさんのイジメがそんなに酷いものだっただろうか?ちょっと我慢して居候していれば、戦争は終わったし、二人も健やかに生き延びることができたのではないか?
しかし二人は、いや清太は、単に「ムカついた」ので、幼い節子を連れて、無謀なサバイバル生活を始めたのだ。
彼は『火垂るの墓』で、戦時中の状況に、すぐ「ムカつく」現代の若者を置いてみたらどうなるのか?それをシミュレーションして見せたのだ。
だから二人の死は、悲しいと同時に滑稽でもあり、そして自由なのだ。
高畑さんの作品は、かならずダブルミーニングというか、肯定と批判の両面を必ずキャラクターに背負わせる。
この高畑演出のアンビバレントさ、表裏一体感は、実は彼が学んだブレヒトの思想を持ってある程度は説明できる。
しかし、それだけではあの語り口の豊潤さ、僕達の心を左右に大きく揺さぶるあの情感を十分に説明することはできないだろう。
宮﨑駿論は巷に腐る程あるが、高畑勲論は意外とない。
まぁ論にするには非常に難しいところもあるだろう。
じゃあ俺がやってみようか?ちょっとそういう気になっている。