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「静かの海」

静かの海番外編・「BLANCA」

作者:筏田
 雪を溶かす大嵐が過ぎ去り、肌寒い日と汗ばむ日をくり返しながらやがて来る瑞々しい新芽の季節を待ちわびていたある日。
 どこからともなく鶯の鳴き声が聞こえてきそうな広い庭のある和風邸宅の一室で、床の間の前に男性が二人、静かに熱戦の余韻を味わっていた。

「――お手合わせ、ありがとうございました」

 ネクタイを締めたワイシャツ姿の若い男性が頭を下げると、その向かいに座っていた和服を着た老人は碁盤を覗きこみ、頬に深く皺を刻んだ。

「……いや、2子局置いていたとはいえ、結局三目しか差はなかったからね。最近、また腕を上げたみたいだね」

 老人は現役を退いて十年経っていないほどの年齢ではあるが、眼光は鋭く、また整然と狩り揃えられた白髪からは未だに衰えることのない隙の無さを窺い知れた。
 「なぁ、矢野くん」と呼びかけると、若い男性は恐縮して首を振った。

「いえ、私なまだまだです。いずれ、ハンデのない状態で、これぐらいの接戦に持ち込まないと」
「家で、特訓でも?」
「営業の空き時間に、携帯ゲーム機などで少々いじったりしてます」

 矢野、と呼ばれた男性は、さる新興の食品会社に勤める営業部員だ。まだ高校生と見まごうようなベビーフェイスとそれに似合わぬ長身をもった優男で、その外見はお年寄りから十代まで、特に女子層からの支持が厚い。
 対する老人の方は、糸川といい老舗の呉服屋を成り立ちとする小売りチェーンを数年前に退役した元会長である。矢野とは、去年関連会社の株式上場記念パーティーの時に知り合った。上司に連れられてきた矢野とその際に少し話をしていて、「最近囲碁に興味を持った」という話を聞き、囲碁有段者である糸川が「それなら私が少し手ほどきをしてやろう」と矢野を家に招いて以来親交がある。今日も早速、一局終えたばかりだ。

「そうか。仕事の方は、相変わらずの忙しさなのかい?」
「お陰様で……。たくさんのお客様にご愛顧いただいて、毎日持ち場狭しと駆け回っております」

 矢野はまだ若手ではあるが、愛想の良さとフットワークの軽さ、そして運動部仕込みの打たれ強さで実績を伸ばし、上部からの覚えもなかなかに目出度い。本人は入社当初こそ営業職に就くことに不安を覚えていたようだが、「頭使うより、外に出て歩き回った方が性に合ってる。酒も好きだし」と意外な適職を得たことに満足している様子だ。

「それじゃ大変だろう。体を壊さないか、心配になってくるよ」

 糸川が矢野を労うと、矢野は恐縮したように頭を下げた。

「自分は、ルート営業なのでさほど辛いわけではありませんが……、でも実は、この前の健康診断でγ-GTPがちょっとひっかかりそうでした」

 γ-GTPとは肝機能値の一つで、主にアルコールによる肝障害を調べるときに用いられる。要は、酒で肝臓がやられるほど高くなる値だ。
 営業に接待は必須というわけではないが、やはり付き合いで飲むことは決して少なくない。自戒を含めた口調の矢野に、糸川は「まだ若いのに」と苦笑した。

「だったら君のとこの部長に言っとかなきゃならんな。『矢野くんをあまりこき使うな』って」
「それは……、是非、よろしくお願いします」

 矢野が冗談交じりにそう応えたとき、庭に面して開け放したふすまの陰より、藤色の小紋を着た年配の女性が静かに現れた。

「当代も矢野さんも、少し休まれてはいかがですか?」

 そう言って女性は携えた盆を部屋の中に差し出した。
 女性は糸川の妻で、歳をとった今でもかつての美貌の片鱗をそこここに残した色香を纏っている。盆には玉露らしき茶と、見た目も鮮やかな和菓子が載っていた。

「菓子は金沢からとりよせたものでございますの。お二人のお口に合えば幸いと存じますけれど……」

 しっとりした風情のある声でそう付け加えると、女性はすぐにまたいなくなってしまった。
 二人はさっそくそれらに手を伸ばす。一口食べると案外腹が減っていることに気づいて、あっというまにそれらを平らげてしまった。一局終えた丁度よい時間にこうやって口直しを持ってくるあたりは「さすが」としか言いようがない、そう矢野は思った。

 手持ち無沙汰になり、矢野は庭の方へと目を向けた。

「……立派な庭ですね」

 初めて来たときから思っていたが、今回改めてそう感じた。春になり彩りが増えたからかもしれない。広い日本式の庭園は、園内に池も設置されていて、枯山水とはまた違った華やかな趣のあるものだった。

「……こう見えても私の第二の趣味は庭いじりでね。この家も、長年かけてようやくここまで持ってきたのだよ」

 矢野の呟きに、糸川はまんざらでもなさそうに目を細めた。

「見てみるかい?」

 糸川は立ち上がりながらそう矢野に声を掛ける。矢野もそれに付いて腰を上げる。
 玄関には向かわず、縁側からそのまま庭に降り立つ。外は風も少なく晴れていて、過ごしやすい気候になっていた。
 つっかけを置き石の上で鳴らしながら、矢野は糸川の後を歩いた。

「この広い庭、全部お一人で管理されてるのですか」
「まさか。月に1,2度ほど庭師を呼んで、あとは自分でちょこちょこと手入れするぐらいだよ」

 矢野はそれを聞いてまたも感心してしまった。この規模の庭であれば、日々の水やり程度でもかなりの労力が要るだろう。素人目にもきちんと手入れされているのが分かるし、庭作りにかける糸川の並ならぬ熱心さが見てとれた。

「菖蒲ですか。随分早い気がしますが……」
「これは著莪 (しゃが)といって、アヤメ科だけれど春先に花をつけるもので、菖蒲とは種類が異なるんだよ。たとえばここの色なんか……」

 そのように説明を受けながら庭を散策する。糸川の解説はわかりやすくまた興味深いもので、植物のことなどほとんど無知に等しい矢野でも退屈せずに聞くことができた。
 矢野は庭の隅に植えられた木の前でふと足を止めた。

「あ、これは……」

 思わず口にすると、糸川は再び蕩々と語り出した。

すももの樹だな。……大きくてあまり味気はないけれど、私はこの花の色がこの上なく好きでね。桃や桜の赤い花びらは、少し主張がすぎるというか」

 ちょうど花の季節だったのか、枝の先には白い花弁が今にも溢れそうに咲き誇っている。
 李……といえば、洋名はプラムだ。矢野はかつて、その実を片手に自分の元へやってきた子供の姿を思い出した。

『プラム、だよ。うちの庭先で採れたんだ』

(あいつ、何やってるかな)

 あの子と別れてから何度目かの春が来た。今はどれだけ成長しているだろうか。それとも、自分と一緒にいた頃の無邪気さは失われて、つまらない人間になってしまっているだろうか。ひょっとしたら、日々変わっていく世の中のきらびやかさに目を奪われて、自分のことなどとうに記憶から消し去ってしまっているかもしれない。
 だけど――

『今言ったこと忘れないでね。絶対に、会いに来てね』

 別れ際にそう誓って、あの子とはあれ以来会うこともなければ手紙のひとつすら書いていない。それでも、少なくとも自分の方は、あの約束を忘れることなどなかった。あの子には「かつての思いは振り切って、もっと自由でいてほしい」と望んでいながら、だ。

『ユキナリ』

 どこからか呼ばれたような気がして見上げると、一斉に咲いた李の白い花の奥には青い空が覗き、そこにあったのは――

(あ……)

「――矢野くん? どうした?」

 糸川の言葉に、はっとして矢野はそちらを振り返った。

「いいえ、なんでもありません」
「……そろそろ、肌寒くなってきたね。家の中に入って、もう一杯お茶でも飲んでまた一局やろうか」
「ええ、それもいいですね。行きましょう」

 談笑を交わしながら屋敷の方へと戻っていく。晴れた空にはまだ、白く透き通った昼の月が頼りなげに浮かんでいた。


(終わり)


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