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一目惚れ

作者:筏田
「メリー・ポピンズみたいですね」

 思わず呟いた私に、彼は「たった一匙のお砂糖で、苦い薬も飲めちゃうのよ」と諳んじてみせた。
 その瞬間、私の心臓は心地よい痛みとともに少しだけ小さくなった。


 ここは、デパートの女性服売り場。今の季節は、秋の入り口。
 私はいま、これから来る冬に備えて暖かなコートが欲しいと、フロア内をいろいろと見て歩いていたところだ。
 でもまだまだ本格的に寒くなるまでは時間があるから、今日買って帰るとは決めてない。もちろん、いいのがあったら別だけど。今年はどんなのにしようかな。流行りを意識したやつにしようか、それともコンサバティブなお嬢様風にしようか。
 そんなことを考えながら、あちこちのお店を冷やかして回った。ショッピングは楽しい。まるで自分が中世ヨーロッパのお姫様にでもなった気分だ。
 その中の一軒で何気なく足を止めた。マネキンが着ていたクラシックなコートに視線を奪われてしまったからだ。

 色は濃紺と黒の間のような深い色で、生地も上等なものを使っているらしく手触りが素晴らしい。その前に立って見とれていると、若い男性の店員が「よろしかったら、着てみますか」と声をかけてきた。
 正直に言って、その男性は私の好みではなかった。背は私とほとんど変わらないくらいだし、髪の毛も短く刈り込んでいる。顔も、口と耳が大きくて愛嬌があるけれど、クールな王子様系が好きな私のタイプとは正反対だ。だけど、清潔感があって押しつけがましいところのないのには好感があった。私は「はい」と頷くと、店の奥にあった同じ商品を彼から手渡された。

 さっそく自前の上着を脱いでそれを羽織ってみる。腰の辺りがキュッと締まっていて、丈が長い。自分が着ている姿を鏡で見てみると、まるでこれは私が小さい頃見た映画の主人公みたいだ。

「メリー・ポピンズみたいですね」

 そう、そこで私はこう口にだしてしまったのだ。
 私は一瞬で後悔した。バカみたい。メリー・ポピンズなんてもう何十年も前の映画だ。私はたまたま児童クラブで見せられたから知っていたけれど、そうじゃないこんな若い人が見たことあるとは限らないのに。
 すると私の耳に意外な言葉が届いた。

「たった一匙のお砂糖で、苦い薬も飲めちゃうのよ」

 ――これは、メリー・ポピンズが劇中で語っていたことだ。
 なんてことだろう。彼は、知っていたのだ。私の一番好きな映画のことを。しかも、ただ知っているだけではなく、セリフまで覚えていた。

 私は憧れのメリーさんに近づけたのが嬉しくて、思わずそれを値段も確かめずに買ってしまった。服を包んでもらっている間も、ぼんやりしながら彼の指先を眺めていた。

 帰りの地下鉄に揺られ、私は帰宅の途に着く。
 ひざの上にある紙袋を見ながら、私は『運命』みたいだ、と感じた。『好き』を共有する不思議な感覚に囚われた。あんなに古くて、しかもどちらかというと子供向けの映画なのに。彼も私みたいに、魔法使いのような家庭教師のメリーさんに会いたいと願ったのだろうか。英語の辞書の「Supercalifragilisticexpialidocious」の項にラインを引いたりしたんだろうか。煙突を見ると未だに「チム・チムニー」を口ずさんでしまったりするんだろうか。

 それからというもの、私の頭の中は彼のことで一杯になった。

 出来たらもう一度会いたい。そして、これまで見てきた映画について聞いてみたい。もちろん映画だけでなく他の好きなものについても話してほしい。彼はどんなものを見て育ったんだろう。どうして今の職に就いているんだろう。気になることはたくさんあった。不器用そうな笑い顔を思い出すだけで、私の心は切なく、でも少し楽しそうに悲鳴を上げた。そしてどんなに仕事が辛くても、出社前にあのコートを着るだけで気分はたちまち軽くなった。まさに私にとって「たった一杯のお砂糖」だった。

「最近、楽しそうだね」
「えっ?」
「……誰か、好きな人でも出来た?」

 職場で仲のいい先輩に聞かれたけれど、私は曖昧に笑ってごまかすしかできなかった。
 だって、名前も知らないし、向こうにしてみれば私はただの地味な外見でちょっと不思議ちゃんなひとりのお客さん。今頃きれいさっぱり忘れられているのかもしれない、と想像すると、またお店に押しかけたり、それに乗じて連絡先をきいたり、なんて真似は出来るはずなかった。

 そうやって忙しい日々を過ごしているうちに、彼に対する熱情も少しずつ落ち着きを取り戻していった。たまの休みにちらりとデパートに立ち寄って彼のいるはずお店を覗いて見るものの、彼は飛ばされてしまったのか、辞めてしまったのか、その姿を確かめることは二度となかった。

 やがて春が来て、夏が圧倒的な暴熱をもって居座り、秋がおとずれ、冬が控えめに忍び寄ってはまた静かに歩み去ろうとしていた――

 その日、私は仕事が暇だったので半休をとり、職場から電車で一本の繁華街に向かっていた。特に理由はないが、まっすぐ家に帰るのがなんとなく勿体なくて、人のたくさん居る場所に行きたかったのだ。
 電車の入り口付近に凭れながら、降りては訪れる人たちをただ眺めていた。

 いくつかの駅を過ぎ、乗り込んで来た人の群れの中に、私は目を奪われ、そして息が止まりそうになってしまった。

『彼』がいたのだ。あの、私が今も着ているコートを買ったときに、これを薦めてくれたあの人が、まるで何事もなかったかのように、電車に乗り込んできたのだ!

 ただの似てる人じゃないか、と私も思った。だけど、買ったあの日から何度も何度もあの面影を脳裏に思い出していたのだ。情熱が冷めても、恋慕が跡形もなく消えるわけじゃなかった。見た瞬間にピンときてしまった。だからこれが、気のせいなんかであるはずがない。

 忘れかけていた感情が、一気に吹き返してきた。胸がじんじんと痛くなった。きっと彼は、このまま何事もなかったかのようにまた降りていってしまうのだろうけど、一分でも一秒でもいいから、彼のことを長く記憶に止めていたかった。

 そんなことを考えながらちらちらとその子供っぽい横顔を見ていると、不意に彼がこちらを向いた。

 咄嗟のことに、逸らすこともできず目が合ってしまう。彼が少し怪訝そうに肩を竦めたので私は俯いた。お願い! このまま気のせいだと思って立ち去って!!

 電車が次の駅について、周りの人が入れ替わった。
 気まずい思いで恐る恐る顔を上げると、いつのまにか目の前に人が立っていた。
 柔らかい笑顔が目に入る。彼はさらににっこりと口の端をつり上げると、私に向かってこう言った。

「メリー・ポピンズみたいですね」



(おわり)

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