仏教用語としての分別、無分別
分別(ふんべつ)のある大人になりなさいと、普通は言う。
分別のない人間ではいけない。ちゃんと善悪をわきまえて、しっかりと自分の頭で考えて判断して生きるべきだと。
今どきの成人式でも言われているのかは知らないが、市長の挨拶のなかで分別という言葉が登場したのをこれまでに何度か聞いたことがある。
成人、つまり大人になるということは、分別のある人間になるということなのだと。
それはそれで当然のことである。
たまに「もう分別のある大人なんだから、そんなことをしていてはいけない」というような言い回しも耳にするが、それは順序が逆というもの。
大人になったから分別があるのではなく、分別のある言動を指して大人と呼ぶのである。
ゆえに、年を重ねても大人になれない人はいる。
体は自然と大きくなるが、精神は自然には育たない。
食べ物は食べなければ生きていけないが、精神は育てなくても生きていくことができてしまう。
この違いが大きい。
だからあえて精神を整えようとする努力をする人はあまりいない。だから磨かれた精神は貴重なのでもある。
大人と子どもの違いは、体ではなく精神のほうにあるのは、これも言うなれば当然のことなのだ。
年齢で大人と子ども分けることに、生物的な意味付けはあっても、本質的な根拠はないのだから。
仏教用語としての分別
分別を肯定しておいて申し訳ないが、じつは仏教では分別というものを良いことと考えてはいない。
むしろ分別とは迷いのなかにいることの証しであり、妄念から脱却できていない状態を指す言葉として使われるている。
仏教で分別という言葉が使われる場合、それは戒めるべき事柄として使用されているのである。
さっきとは正反対のことを言っているように聞えるかもしれないが、ここが分別という言葉の面白いところ。
仏教でいう分別とは、対象を識別していく頭の働きをいう。
善悪をわきまえるということであれば、この行動は善、あの行動は悪、というように、頭で判断して識別するのが分別。
これは一般的に使用される分別という言葉と概ね同じ用法・意味である。
しかし、仏教はその識別についての捉え方が一般とは違う。
一般的には、判断ができるのは良いことであると考えられているが、仏教では識別という作用自体をあまり良いことと考えてはいない。
「分ける」ということを良く思わないのである。
なぜか。
分ける、という判断は、ほとんどの場合自分の主観認識によるもので、実際のところ分けられた対象がそのように分かれているのではない場合がほとんどだからである。
ややこしい話なので、1つ例を挙げてみたい。
汚くもなく、綺麗でもなく
たとえば『般若心経』のなかに「不垢不浄」(ふくふじょう)という言葉がでてくる。
「垢つかず浄からず」と訳すことができるが、これは、あらゆるものは汚いのでも綺麗なのでもない、という意味の言葉である。
分別とは、たとえば汚いものと綺麗なものを識別する頭の働きだが、もし本来どのようなものにも汚いとか綺麗といった区別がないのだとすれば、分別とはないものをあるかのごとくに識別する働きとなる。
本当はないのに、あると思い込む。これは誤りである。
分別が迷いの証しと呼ばれるゆえんはここにあるのだが、問題はなぜ『般若心経』は「不垢不浄」などということを言うのか、という点に集約されるだろう。
これが間違っていれば、分別が迷いの証しであるという根拠は崩れるわけなので、ここは詳細に考えていかなければいけない。
なぜ不垢不浄なのか
一般に汚いと思われているもの……よし、例はお風呂の排水溝でいこう。
お風呂の排水溝は掃除をしないと髪の毛やら石鹸カスやら垢やらがこびりついて、それはもう大変なことになってしまう。
ヌメヌメした謎の物体が出現することもあり、そんな状態まで放置した排水溝は見るだけで鳥肌が立つ。
できれば見なかったことにして蓋をしたい、と考える人もいるかもしれない。
しかし、そんなとんでもない状態の排水溝であっても、仏教は「汚くない」という。
なぜなら、そのとんでもない排水溝は、ただ髪の毛やら石鹸カスやら垢やらがこびりついて、あるいはヌメヌメの未確認生物が出現しているだけであって、「汚い」というのはそれを見た人間の頭のなかだけに生じる概念にすぎないから。
つまり、どんなものもそれ自体には汚いも綺麗も付与されておらず、ただ事実があるだけであり、そこに人間が外から意味を付与することで、汚いや綺麗といった主観が混ざり込んでいるだけだというのが仏教の主張なのである。
排水溝を汚いと認識するのは、排水溝が汚いからではなく、「排水溝が汚い」と頭が判断したために起こる認識だということ。
試しに、今夜お風呂に入ったとき、目を瞑ってお風呂の排水溝の蓋を開けてみていただきたい。
おそらくこう思うことだろう。
「……何も見えない」
見えない? そうだ、目を瞑っていたら何も見えない。何も認識できない。
すると排水溝はどうなるか。汚いか、綺麗か、頭はどう判断するか。
ここが重要。
すでに一度排水溝の状態を見てしまっていれば、そのイメージが頭に残っているから汚いという認識を持つことも可能だろうが、何も見ていなければ、汚いという認識を持つことができないことに気が付かれるはずである。
排水溝が……汚くない! 綺麗でもないけど、汚くもない!
なぜなら、それを見ていないために、頭に認識が生まれないから!!
もしも物自体に汚い・綺麗といった特性が具わっていれば、それを見ようと見まいとに関わらず、その物は汚なかったり綺麗であったりするはずである。
しかし実際には、どのような物であっても、それを認識しないことには汚いとも綺麗ともいうことができない。
これは当たり前のようでいて、とんでもなく重要な真実だと声を大にして言いたい。
仏教において、「真実は、ただ事実があるということ」と言われるのは、この意味。
人間が意味を付与しなければ、あらゆる物に相対的な価値は生まれない。
善も悪も、損も得も、綺麗も汚いも、そうした価値は外から付与されているだけであって、そのもの自体に具わっているのではない。
ゆえに、分別をするのは未だ迷いのなか、というわけだ。
そして、この「分別をしないでありのままに物事を受け取る」認識を、仏教では「無分別」(むふんべつ)と呼んでいる。
分別が無い、とは少し違って、無分別という1つの単語として理解したほうがわかりやすいかもしれない。
この無分別こそ、仏教がもっとも尊ぶ智慧であり、最終的な目標なのである。
ゴミを無分別で出せば迷惑なことこの上ないが、分別で生きることもまた、それほど賢い生き方ではない。
少なくとも、仏教的な視点から考えれば、そうなるだろう。
智慧と無分別
「不垢不浄」と述べる『般若心経』の「般若」の原語(サンスクリット語)はプラージュニャー(パーリ語:パンニャー)であり、意味は「智慧」である。
だから漢訳するときに『智慧心経』と訳してしまっても問題はなかったはずなのだが、訳者はそうしなかった。
あえて意味で訳すことをせず音訳にして、パンニャーに近い発音をする漢字で「般若」と訳したのには、じつは大きな意味がある。
なにかというと、智慧と訳してしまうと、いわゆる世間で考えられている「知恵」の意味で受け取られてしまうかもしれないことを危惧したのだ。
知恵とは頭の働きを意味し、つまりは分別を意味する。
判断や認識といった作用に代表される頭の働きは、ほとんどが分別の知恵。
もし『般若心経』で説かれている智慧を、分別としての知恵と受け取られてしまったら、その説くところは真逆になってしまう。
だからあえて「ちえ」とは訳さなかった。
100%ではないが、仏教で智慧という言葉が使われれば、それは無分別を指し、知恵という漢字が使われれば、分別を指すと覚えておくのは無意味なことではないかもしれない。
もちろんごちゃ混ぜになって、知恵で無分別を意味する用例も見られるので絶対とはいえないが、一応使い分けている人が多い。
私も一応便宜上使い分けている。
- 智慧=無分別
- 知恵=分別
ちなみに、分別や無分別という言葉では、それが頭の働きを意味するというニュアンスが弱いので、無分別智・分別智と、語尾に「智」を付ける場合も多い。
分別なのに「智」を付けていいのかという疑問はぬぐえないが、まあ、そこは深く触れずにおきたい。
物事に価値判断を加えていくというのは、ある意味では、ひたすら好き嫌いの選択を行っていると見ることもできる。
これは好き、あれは嫌い。そうやって判断を続けていくところの延長に、善悪や損得の分別がある。
そうであるなら、仏教が避けようとしているのは好き嫌いのほうなのかもしれない。
排水溝の真実
しかし、好き嫌いという自分の感情はひとまず横に置いておいて、そのもの、それ自体を見ようとするなら、物事は少し違って見える。
排水溝は汚いのでも綺麗なのでもない。
それは髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったものでしかない。
髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったものを「汚い」と認識するのは、頭がそう認識をするからであって、髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったもの自体が汚いからではない。
髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったものは、髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったもの以上でも以下でもなく、ただ髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったものなだけ。
それが、髪の毛と石鹸カスと垢とヌメヌメした謎の物体が混ざり合ったものの真実である。
認識が生じること自体は人間である以上防ぎようがないので、大切なのは、認識が真実に直結していると思い込まないこと。
この点を胸に1つ心得ておくだけで、物事はだいぶ変わって見える。
そうした生き方を忘れなければ、無分別という悟りは、案外すぐ近くにあるのかもしれない。