2018-04-09
読書:與那覇潤『翻訳の政治学』
最近、めっきり様子を見なくなってた與那覇潤先生が、数年に渡って体調を崩して、もう「歴史学者」をやめる、という文章が出ていました。
この文章を読んで最初に、「あ、これはつらそう…。でも、もともとこういう文章書くヒトでもあるよな」と思ったのですが、論旨について、細かいところ、そうねえ、となんとなく首肯するものの、全体に流れる「世間に疲れた」という雰囲気については、「大変でしたね…」と。そこまで責任を負わなくてもよかろう、と思う半面、この詩的とも言える繊細さがあるから、いろいろ文章かけたんだろうな、仕事し過ぎはよくないよねえ、などと思うのでした。
ま、そもそもの話として、普段の生活に「歴史」なんていらないよね、と。学問自体が、年中考えてるもんでもないし、普通に暮らしてたら、難しい事考えないし、二十歳前後の大学生に高望みしてどないするの。あと、安倍政権が出した談話は、参加してる先生方見たらわかるけど、妥協の産物にすぎんやん、とかも思いましたが、まあいいや(川島真先生が、あれで納得いくわけ無いでしょ?全体的に意味不明の妥協以外のナニモンでもない)。
あと、「歴史的に物事を語って、一本のすじを通そうとする心も自体に無理があるのであり、もはや有効ではない」といいますが、マルクス主義じゃあるまし、「一本のすじ」ってなに、という感じです。寧波プロジェクト終わってもう十年たちますが、あの成果のバッラバラで豊穣なことよ。ソ連が崩壊したときに一本スジやめたんじゃなかったっけ日本の歴史学、という思いを禁じえません。
- 作者: 小島毅,羽田正
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2013/01/17
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さて、その文章についての反応を、ツイッタで見ていたところ、実証史学とおおきな物語の対立であり、後者に与する與那覇先生に対して、前者の人たち、揚げ足取りばっかでヒドすぎないか、という話が出てきて、一方で、こいつ実証わかってない、中国わかってない、みたいな論もありました。
基本的にみなさん、『中国化する日本』しか読んでおらず、與那覇先生の実証的な仕事を知らないようで、ぱっと読んで好きか嫌いか、という話になっており、こりゃ報われないね、という思いを禁じえません。というわけで、與那覇先生の最初の単著の内容について、とっても面白いので、ざっくり紹介する記事を書きました。
- 作者: 與那覇潤
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/12/18
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序章 「同じであること」と翻訳の政治
第一章 外交の翻訳論 F・H・バルフォアと十九世紀末東アジア英語言論圏の成立
第二章 国境の翻訳論 「琉球処分」は人種問題か、日本・琉球・中国・西洋
第II部 「民族統一」以降 「沖縄人」が「日本人」になるとき
第三章 統合の翻訳論 「日琉同祖論」の成立ト二〇世紀型秩序への転換
間章β 帝国の翻訳論 伊波普猷と李光洙、もしくは国家と民族のあいだ
結論 翻訳の哲学と歴史の論理
序章
「本書のスタンスは、国民国家の形成や人種・民族問題、地域主義などを扱う際に云々されるいわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」とより広く「同じであること」(Identity)についての政治学(Politics)として解釈しようというものである。」(p.2)
それは、政治学ではなく、政治思想史の範疇ではないか、と思われますが、それは些末な用語選択の問題です。「政治学」とはどのように定義しているのか、というのが疑問ではありますが、言わんとしていることはわかります。
いずれにせよ、本章で議論されるのは、何かと何かを「同じもの」とする、それが異なる言語間であるならば「翻訳」することは、政治的に決まる、ということを指摘しています。まっとうな指摘です。
そのなかで、東アジアにおいては「嘘」、「日本・朝鮮・ベトナムが独自に「中華」を辞任した「小中華主義」の体制」を併存させており、それを当事者間のきっちりとした合意で意味を定めている西洋的な論理とは異なるもので、それは漢文脈運用によって成り立っているとします。
第I部では、「自覚された『蒟蒻問題』(落語)」について、つまり、相手の言い分を互いに無視する関係が取り上げられます。そのうえで、以下の安富歩先生の文章が引かれたりします。
「人間どうし他人の頭や心は覗けない以上、互いに解釈の違いがある(かもしれない)としてもとりあえずは放っておくのが普通なのであり、逆に相違をなくし、お互いの認識が一致しているかを確かめようとするほうが、特殊な状態なのである。「それはこのよう意味にとっていいいのですよね」と聞き返されたとしたら、それはコミュニケーションが円滑にいっていないということなのだ。(原注:安富歩『複雑さを生きる』岩波書店、2006年、pp.62-65)」
あれ、コミュニケーション取れてるの、取れてないの、よくわからん。
第一章では、北京の日本公使館に雇われたイギリス人バルフォアによる、1879年にはじまる英字新聞上での日本政府側の主張の代弁の内容(「琉球処分は、中国から琉球を強奪(Seizure)したのでも併合(Annexation)したのでもない」)をきっかけに展開される、各地の英語新聞上での議論のズレが活写されます。そのうえで、日本・中国・朝鮮などの国際関係が、英語で議論されるなかで、19世紀末にゆっくりと、しかし無理やりにズレを解消してゆき、重層的・多様な解釈を許さなくなっていく傾向が見て取れると指摘します。
第二章では、「琉球処分」がじつは「民族問題」、すなわち、日本政府側から「日本と琉球は同じ民族だから同じ国家となる」と主張されていないことが指摘された上で、そもそも1870年代において、住民の人種的・民族的な性格と国境線は結び付けられていないこと、そしてそれが変化してゆくことが論じられます。このときに念頭に置かれているのは「暗黒の近代=ナショナリズム=民族で国境線を引くムチャ」という議論への批判です。この批判はとても説得的なものであるといえるでしょう。
民族と国家のマリアージュの端緒は、元米国大統領グラントによる1879年の日中交渉斡旋のなかで、米国側で、中国側が文字=漢字の話をした閩人三十六姓の話が琉球には中国人移民の子孫がいる、という話になったり、明治政府が琉球の単語はだいたい日本語だ、といったのを人種的に似てると言う話に読替えたりしたところにありました。というわけで、日中両国とも人種と琉球の帰属についてあんまり意識していなかったわけですが、グラントによって英語になってしまったおかげで、日本政府に批判的だった横浜で発行されてたJapan Gazetteに批判され、それに英語で「この問題では人種は関係ない!」と反論するに至ります。その結果、グラントなんかはむしろ「日本も中国も同じ人種(the same race)」と言い出すにいたります。(あれ、これ、「同文同種」の根本だったりするの?)さらに清朝のほうで、「琉球は福建とかとだいぶ近いんだよね」みたいなことを言いつつも、そのことと琉球の帰属については結びつけません。
著者はこのような分析を経て、東アジアには確かに西洋近代的ナショナリズム=民族の境界と国民国家の境界の一致の萌芽になりそうな要素がそこらじゅうに存在していたにもかかわらず、それらを西洋近代的ナショナリズムに変換する契機が存在しなかったことを指摘しています。
間章αでは、明治日本における「家」「人種」「文化」が、後世のナショナリズム論者がいうほどには「純血主義的」、あるいは「日本的なものは特別」としているわけではないことが論証されています。
第I部の議論を、乱暴に総括するならば、19世紀の第4四半世紀は、後世から措定されるほどには厳密ではなかった、ということになるでしょう。このことは、しっかりした典拠に基づいた指摘であるとともに、欧米の人種論もまた、19世紀においてもなお、その「科学っぽい用語」のわりにユルユルだ、ということを想起させもします。このことは谷川稔『国民国家とナショナリズム』にあるように、19世紀第4四半世紀は、ヨーロッパに於いてなお、ドイツ人とかフランス人とかの「国民」を作っている時代だったわけで、当然といえば当然なわけです。著者の議論は、むしろ明治日本を過度に「ナショナリスティック」なものとして描き、批判する戦後歴史学のやりすぎ(小熊英二『単一民族神話の起源』・『〈日本人〉の境界』とか)に対する批判として、非常に有効に機能しているといえるでしょう。
第II部は、20世紀に入り、「国家とは別個の民族という問題系が、ついに浮上」したあとの、「琉球弧」(本書では、琉球王国時代は「琉球」、それ以降は地域名称を「琉球弧」としているようです)の人々のアイデンティティをめぐる言説を検討しています。
第三章では、まず向象賢(羽地朝秀)建議と為朝伝説という超メジャーな日琉同祖論の「根拠」とされたテクストが、べつに日本と琉球の民族的同一性を主張するものではないことが指摘された上で、1890年代になってもなお、日琉同祖論は、知られているけれども特に重視されていないことを明らかにしています。
ここで、日琉同祖論の超重要人物である伊波普猷が登場します。彼は、「沖縄人が日本人樽資格はアイヌや生蛮が日本人たる資格と自ら別物であること」を主張するために、日琉同祖論を持ち出し、琉球処分を「二千年前に手を別つた兄弟」との「邂逅」であるとします(pp.172-173)。このほか東恩納寛惇もとりあげられますが、彼らのような沖縄の側から、むしろ日琉同祖論が、「琉球処分」や「本土復帰」を「民族統一」として「抱きとめる」(p.179)ために見出されたことが指摘されます。要するに、戦後歴史学的な、日本が強圧的に「琉球は同じ民族だから併合して当然!」みたいな態度をとっていたという歴史像は、実態とは異なることが明らかにされているわけです。
第四章では、上の状況にさらなる分析が加えられ、日清戦争後も単純な日本一辺倒になったわけではない状況が明らかにされていきます。取り上げられるのは、もとの宗主国における辛亥革命についての認識です。様々な新聞の、それぞれの論調が紹介されて、必ずしも全体を包括する論調を見出すことは難しいのですが、ただ、辛亥革命と、それにつづく第二革命が、革命派の敗北と袁世凱の独裁に帰着したとき、進学悪名に大きな期待を寄せていた一部の沖縄の「青年」たちの目は、大陸から、日本の大正政変以降の「デモクラシー」と沖縄人の自己変革へ移っていく事になりました。
間章βは、同じ日本の植民地である、琉球と朝鮮が、伊波普猷と李光洙を通じて比較するものです。1900年代、伊波普猷は、日琉同祖論を通じて、琉球の日本への同化を説きますが、プレセンジット・ドゥアラが指摘する通り、第一次世界大戦前においては帝国主義は「文明による野蛮の征服」でしかなく、文明江の同化でことは済んでいたを示す好例でした。そして、ドゥアラは20世紀の帝国主義には、現地における「民族」や「文化」に適合した「真正さ」が求められたことを指摘しますが、李光洙が直面した朝鮮と日本の関係は、その「真正さ」を意識しなければない時代のものでした。にもかかわらず李は総督府へ協力的な態度を取り、「親日派」として批判を受けることになります。
結論は、第一章から四章までの議論とは直接は関係しません。現代哲学のなかの「翻訳」を論評しながら、ざっくりいうと、現代が、東アジアの「近世」的な、「複数の「世界」がその認識を相互に交渉させることなく、併存する時代になっている(山下範久『世界システム論で読む日本』講談社メチエ、2003年、pp.230-233)」(pp.256-257)状況を指摘しつつ、ネオリベラリズム的な能力差を唯一の基準として持ち出す現代を「中華帝国的」だとします。そのうえで、理念・理想がなくなりかねない「世界」においては、普遍的な理念をなんども「翻訳」し、無限に言い換えていくことが必要、「現実を理想へと翻訳する力が真に必要とされている」と主張します。
東アジア近世の、日本・中国・朝鮮・ベトナムなどが、勝手に自称中華になって、相手と別にどっちが中華か争ったりしない、大人というかユルユルというか、はっきりさせずに相手を見ようとしない国際秩序が、欧米の外交の論理が入ってくると、ゆっくりとそちらに引きずられてゆく、という大きな物語を、日本と中国の琉球を巡る言説のありかたと琉球弧における自己認識を、新聞や筆記などを用いて、丹念に分析しています。終章の哲学紹介のくだりはともかく、それ以外については、スタンダードな政治思想にかかわる実証的な研究だと言えるでしょう。読み直して、「ああ、才気が横溢しているな、これは良い本だな」と再確認しました。
もちろん、何でもかんでも納得行くわけではありません。これは、原著が出て以降、こちらで勉強したこともあるので、少し卑怯かもしれませんが、いくつか。
1:「小中華」は、朝鮮の自称で、あまたある「自称中華」の総称ではありません。朝鮮は、「大中華」である明は滅びちゃったけど、その遺風は「小中華」であるウチに受け継がれたのだ、という形で自らを「中華」化しました。ベトナムは、「我々は北の中華に並ぶ南の中華ですから」といい、日本は「将軍TUEEEE!」という論理で「中華」顔します。
2:「中華」同士はコミュニケーションしてない、というのは誤りで、公式の関係はないけれど、必要があれば商人とかにことづけたりして、いろいろ相手の意向を計って、対応を考えているというのが、岩井茂樹「沈黙外交論」です。むしろ、国家間ではコミュニケーションを取らず、勝手に都合よく解釈しあっているが、必要なときには商人などを介して、力を尽くして忖度しあっていた、といえるでしょう。
また、あいての「嘘」をそのままにする、というのも、少し違うかもしれません。明朝も清朝もベトナム・ビルマにいちゃもんつけて侵攻・占領して、撃退されています。必要ならいつでも「嘘」を暴き立てる、あるいは相手を攻撃するための「嘘」ならいくらでも生み出せるのです。このへんについては、以下の書物にあります。
- 作者: 夫馬進
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3:「東アジアの近代」について議論しながら、「近代とはなにか」と格闘してねじ伏せた吉澤誠一郎『天津の近代』が引かれていませんが、別に引いても左証が増えるだけなので、別にいいのでしょう。また琉球・日本・清朝のビミョーな、相互の関係を知りながら黙ってる関係について、渡辺美季『近世琉球と中日関係』の元論文(著書になったのはこちらのが遅い)は引かないの、と思いますが、これも別に論旨に関係ないのでいいでしょう。
ちなみに、この一九世紀中葉から末期にかけての時期の、同じ事象を中国側から丹念に位置づけているのが岡本隆司先生ですが、こちらは引きまくりです。
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以上のケチからわかるように、中国史について勉強したことがあると、本書の「大きな物語」について、アラがどうしても見えてきます。そして、このアラが見える部分に、前近代の日本と中国の「社会経済状況」についての肉がついて、一般向けにリライトされたのが、『中国化する日本』でした。だから、與那覇先生は、当初から大きな物語と実証をどちらもやっていたのが、途中から「大きな物語」の方を主に扱うようになったわけです。
中国化する日本 増補版 日中「文明の衝突」一千年史 (文春文庫)
- 作者: 與那覇潤
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『翻訳の政治史』には、人名索引しかついておらず、事項索引がありません。思想史の本ですから当然でしょう。そのつもりで読んでいれば、中国史についてのアラはあんまり気になりません。近世=18世紀的東アジア国際秩序から、20世紀初頭的西洋近代外交秩序への移行という大枠ではおかしいとは思いませんし、その以降にも結構いろいろある、という本書の物語は、とても説得的です。しかし、そこから、「日本社会とは」「中国社会とは」といくと、怪しくなってきます。
余計なことを言わなければよいのに、というのは、政治史にありがちで、例えば2CHで叩かれまくってた平野聡『清帝国とチベット問題』も、後半のほうがキモなのに、乾隆年間の話のチベットについて漢文で議論しようとしたので、エライことになってしまったように思います(書評書いた先生はもちろん読まれてるはずなんですが、周りでヤイのヤイの言ってる連中には通読されてないんじゃないか、と疑ってます)。政治学的には木村幹先生のいうように、「外れ値はアリ」なんですし、そのことはわかります。当たり前です、人間はみんな同じ方向を向いているのではなく、いろんな方向むいたベクトルを全部合わせると、結果的に集団として特定の方向を向くのです。ただ、それは「外れ値」がアリになるのは、「大きな物語」「マクロ分析」があたっている場合であって、それがあたってるように見えないとどうもこうもないのです。與那覇先生が、『中国化する日本』で叩かれたのは、近代日本思想史の専門家だから当然あまり詳しくない、中国の社会経済史や、日本の社会経済史について、「これが真実だ!」みたいな感じで語ってしまったからです。
まあ、『中国化する日本』の中国史理解、すべてすっかり正確かどうかはうーんと思うところはあるし、書き方が不用意かなと思うところもありますが、そんな激怒するほどおかしくなくない?(倉山満とかギルバートと同じレベルで怒っちゃダメ)、と思うのですが。
そもそも、與那覇先生の「中国」観、足立啓二以前に、山川出版社の『世界各国史3中国』の明清のところそのまま(中公『世界の歴史』とも同じ)なんで、中国史の「物語」をそのまま使ってるんで、90年代から中国史もだいぶ進んでその辺については確認してないのかもしれませんが、日本近代思想史のひとにその辺ちゃんと追っとけよ、とまでは言えないんじゃないですかね。彼らに漠北とか回族とか東南アジアとか無理だよ。79年生まれだと90年代末からゼロ年代初頭に勉強した口でしょうから、こんなもんだろう、と十分納得できるレベルだと思いますけど。そもそもゼニ勘定できてない、というのは思想の人なんだからしょうがないでしょう。
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『中国化する日本』にカチンときてたのは、中国史クラスタなんだと思うんですよね。しかも、これは、別に『中国化する日本』だけではなくて、国史の中国に対する、なんというか、漢文くらいスイスイ読めるから、国際化して、中国についても勉強しちゃうよ★中国スゴーイ♪という態度が嫌なんだと思います。「それ、中国やなくて、清朝や!満洲や!」「蒙古旗人について理解されてない!」「明朝と清朝違う!ぜんぜん違う!」「清朝は海禁してねえ!」みたいな(最後だけ具体的)。他所の専門家に対して、どっちも失礼な感じですなあ。仲良くせえよ…。とにかく、喧嘩腰、よくない。
この点は、その昔、梶谷懐先生に
「東洋史界隈の人々とその外部にいる人々との間にある暗くて深い川のようなものが浮き彫りになった」
と書かれましたけど、べつに東洋史だけじゃなくて、学問分野ってそういうもんなんじゃないですかね。その辺は荒ぶることなく、冷静におかしいところをリストアップしたりしていったらいいんじゃないかな。
あと、大きな物語と実証主義者の永遠の戦いなんですけど。
木村先生のツイートを見て、歴史学にも、「大きな物語」はあるよなあ、という気がしました。とくに中国史の場合で言うならば、「社会経済構造が思想を規定する」という観念でしょうか。岡本隆司『「反日」中国の源流』は強烈です。あれは、日本の中国の明清史や近代史がもつ「大きな物語」そのものです。古くは田中正俊『中国近代経済史研究序説』だって、あるいはその弟子筋にあたる岸本美緒先生の著作だって、久保亨『戦間期中国〈自立への模索〉』だって、「外れ値」をあるときは排除し、あるときは包含しながら、「大きな物語」を力強く語っているものだと思います。たとえば、本野英一『伝統中国商業秩序の崩壊』なんかは物語ドーン!みたいな本だと思います。それを読み取るのに確かに手間がかかるかもしれませんが…。日本中世史とかだって、桜井英治『贈与の歴史学』なんて、時系列には沿ってないかもしれませんが、「日本中世っつうのはこういう時代だ!」というメッセージが迫ってくるものだと思います。朝鮮史だって、宮嶋博史先生の著作も「両班ってこれ!ドン!小農社会!ドドドーン」って感じじゃないですか。趙景達先生だって、「物語」ありきですよね(それしかしらん)。
その意味では、別に他の社会科学と歴史学に違いはそんなにないと思うのですよ。土足で入ると大変だけど。あと、いちいち「ドーン!」だな。そうか、このへんが、「ヒャッハー!」なのかな…。
でも、「大きめの物語」のどこに位置づけるのかが大事よ、というのは歴史学の講座ではちゃんとやるもんなんじゃないの?やんないの?全国の中国近代史関係の学部生(そんないないだろけど)が跪いて読むといわれる田中正俊『東アジア近代史の方法』も、岡本・吉澤『近代中国研究入門』も、実証は前提でちゃんとしてて当たり前、それをどこに位置づけるが重要なんだよ、と口を酸っぱくして言ってるから、実証だけが大事、みたいのはダメ、っていう教育受けるんじゃないの?日本史はしらんけど…。
というわけなんで、與那覇先生の著作について、叩かれるのには、大きくわけて2つの理由があると思うんですよね。ひとつは、上のような、他所の地域の歴史に首突っ込むと叩かれるか、スルーされるのは世の常、というの。もうひとつは、文体です。
『翻訳の政治史』でも、文体と言うか、若いなあ、というのを随所に感じるのですが、『中国化する日本』は、読みやすいんだけど、きれいとは言い難い文章でした。ブログっぽいというか、編集のサシガネだろ、あれ。文藝春秋社の書かせ方、正直言ってかなりキモいなあ、と思わざるを得ません。本人のキャラなんて存じ上げませんけど、アレは敵を作るだろうな、と。断言するのも多くて、「いや、それは含みもたせたほうがいいんじゃ…」みたいのをたびたび感じます。この点は、この間のYahooの記事でも影響が残っているような気がしますし、悪しき編集上の同類がKADOKAWAの呉座勇一『陰謀の中世史』で、いちいち、バカを断罪して、バカに毛が生えたヒトを喜ばす、みたいな感じで、編集のヒトなんなの?なんか読者も著者も馬鹿にしてる気がするよ…。それで、大人が、若い著者をおだてあげて使い倒して、病気にしたんでしょ、ホントなんなの???
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