吉田博一社長は元住友銀行(現三井住友銀行)の副頭取まで務めた後、電池メーカーを興した。 世の中にベンチャー企業は数多いが、燃えないリチウムイオン電池の開発・製造で注目を集める「エリーパワー」の吉田博一社長は69歳で起業した。300億円を超える資金調達に成功し、起業から10年余りで従業員数300人規模のメーカーに育てた。遅咲きのアントレプレナーが成功した要因を探ると、3つの「逆転の発想」が浮かび上がる。
逆転の発想(1)
「1日に90社を訪問すると決め、毎日、『預金してください』と頭を下げて回っていました。90件、すべて成功するわけはないんです。1件とれたらもうけもん。ここで『89件失敗した』と思うか、『1件成功した』と思うか。この違いは大きい」
銀行員と経営者に求められる資質には、おのずと違いがある。ましてや、吉田氏は副頭取まで務めた経歴の持ち主だ。「貸す」立場から「借りる」立場への切り替えは難しかったのではないかと聞くと、吉田氏は笑顔でこう答えた。
「頭を下げるのは平気になっちゃいました。役員時代のことはすっかり忘れた。セカンドキャリアを成功させるには、この『忘れる』能力が大事なんです」
忘れることを覚えた原点が、若き日の支店勤務時代、1日90社を自らノルマと課して歩き回った体験だ。
「失敗したことをいつまでも覚えていたら、翌日から動けなくなります。ベンチャーも同じ。うまくいったことを記憶して、失敗したことは忘れればいいんです」
1937年生まれの80歳。酸いも甘いもかみ分けた、熟練の新人経営者だ。
■現場に塩漬けで「辞めてやろう」と思ったことも
それにしても、1日に90社もの訪問先を回れるものなのだろうか。第一、アポイントメントを取るだけでもひと苦労ではないか。疑問をぶつけると、吉田氏は再び笑ってこう続けた。
「アポイントは取りません。当時の銀行員は名刺一つでどこでも訪問できた。エリアも限られていますから、ルートを決めてひたすらぐるぐる回ればいい。当時、僕は社長にしか会わないと決めていたんです。留守だったら、名刺だけ置いて帰ってくる。1カ月のうちに同じところを何回も訪問しますから、そのうちに名刺がたまっていく。それを訪問先の社長が見て、『今度、この吉田っていうのが来たら呼べ』と言ってくれるわけです」
規制金利の時代で、どこの銀行も金利は同じ。預金集めと貸付業務が支店営業の主な仕事というなか、売れる商品は「自分」しかないと思っていた。
慶応義塾大学を卒業し、旧住友銀行に入行したのは61年のこと。旧財閥系の銀行は、「学閥」の強い業界で知られていた。吉田氏が入行した当時、私立大学の学生は国立大学の学生に比べて、就職活動でも不利だった。
「国立大学の学生は面接だけで入れるけれども、私立の学生は筆記試験を受けなければ入れなかった時代がありました。住友銀行の場合、僕が入行する少し前から、早稲田と慶応だけは筆記試験なしでも入れるようになった。ただし、専務以上が出席する経営会議のメンバーになれるのは国立大学出身者、それも東大か京大、阪大が暗黙のルールとして存在しているという、そんな時代でした」
逆転の発想(2)
「住友銀行だけれど、あえて三菱・三井の子会社などを訪問することにしたんです。それも、系列の商社や金融機関が融資を渋っているような穴場を狙って行きました」
くぎを刺しても発火しないエリーパワーのリチウムイオン電池 入行後、多くは支店勤務からスタートする。本店へ引き上げてもらえるかどうかが出世コースに乗れるかどうかの分かれ目にもなるが、吉田氏はなかなかこの関門を突破できなかった。
「早い人は3年で本店に行きますが、僕は8年かかった。現場に塩漬けで、あまりにもおもしろくないから、辞めてやろうと思ったこともあります。だけど、やれるだけやってみるかと思い直した。全国で名が知られるぐらいの実績を上げたら、もしかすると本店に引き上げてもらえるかもしれないと思ったからです」
「先輩を抜く方法はないか」と考えて始めたのが、「人がやらないことをやる」だ。
「キャリアのある人ほど失敗している。失敗を重ねると、成功する方法も分かるようになりますから、仕事の進め方も段々と効率的になっていく。そうすると、難しい訪問先にわざわざ足を運ばなくなるんです。僕はその逆を行こうと思った」
そうしてつかんだ取引先のひとつが、大手商社が出資して設立したボウリング関連機器メーカーだった。日本でも間もなくボウリングブームが巻き起ころうかという時期。株主の商社は融資に動く気配はなく、吉田氏はそこに目を付けた。
「商社マンは鼻がききますから、海外から新しいビジネスを日本にどんどん持ってきます。しかし、お金を出すほうはどうしても渋くなる。リスクを取りたがらないのは、当時も今も同じです。海のものとも山のものともつかない会社を相手にするよりも、既存事業に融資したほうが安全だし、もうかるから、新しい産業にはなかなかお金が回らなかったんです」
■旧住友銀から三菱商事系への「越境融資」
後にボウリングブームが到来し、吉田氏が融資をまとめたボウリング関連機器メーカーは、支店でトップクラスの取引先に成長した。次に配属された神田駅前支店(東京都千代田区)でも、吉田氏は同じ手法で日本ケンタッキー・フライド・チキン(日本KFC)に食い込むことに成功した。大株主は三菱商事だ。
日本KFCとは今では有名企業だが、当時は郊外型店舗の集客に苦労し、資金調達にも困っていた。そこに狙いを定めた吉田氏は「今後、日本でも外食産業は伸びる」と主張して稟議(りんぎ)を通し、億円単位の融資をまとめて取引先の信頼を得た。
全国トップクラスの営業成績が樋口広太郎氏(元住友銀行副頭取で、後のアサヒビール社長)の目に留まり、8年目にして本店へ。支店長、人事部長などを経て副頭取となり、同期の西川善文氏が頭取に就任した97年、住銀リース(現三井住友ファイナンス&リース)に転出して社長に就任した。
逆転の発想(3)
「僕は技術の素人ですから、何か言っても、彼らは大抵、『電池というのはこういうものです』と反論してくる。それに負けたら、ビジョンを貫くことはできません。挙げ句、僕が怒って『ビジョンにそぐわないものは、やめちまえ!』となったことが何度もあります」
新人銀行員だったころ、1日90社をひたすら訪問して回ったフットワークの軽さは今も変わらない。「雨が降っても、台風が来ても、2週間に1度は必ず行く」と決め、滋賀県大津市にある技術開発センターを訪問している。行けば、半日かけて、技術者たちとディスカッションをするという。
2週間に1度は必ず技術者と意見を戦わせているという そこで貫くのが「技術ありきでなく、ビジョンありき」という哲学だ。技術者たちの反応を見て、吉田氏も負けじとアイデアを練り直す。2週間後に再びセンターを訪れると、今度は吉田氏が与えたテーマに対して、技術者の側から「このやり方だったらできます」と新しい提案がある。そんなやりとりを10年以上繰り返し、少しずつ技術の方向性を固めてきた。
「銀行員時代、いろいろな経営者を見てきて、メーカーの場合は経営者が技術者にやりこめられないことが重要だと思っていました。日本には立派なメーカーがたくさんあり、研究所には博士号を持った研究者もたくさんいますが、分野の違う偉い人が多いほど、物事を決められなくなる。その点、うちは意思決定がシンプルですから、僕が思った方向にぐーっと行く」
忌憚のない意見を交わしても最後は1つにまとまるのは、「創業の熱を共有した同志だから」。2006年、わずか4人でスタートした会社が、今では従業員数330人以上を数え、フルオートの工場と研究開発センターを持つメーカーに成長した。遅咲きのアントレプレナーは次々と事業を拡大し、最先端を走り続けている。
(ライター 曲沼美恵)
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