今日スタジオにようやくTVが届いた。
これでアニメスタジオらしくなったな。
西小金井村塾にも使えるし。
今のTVは凄いね。Wi‐Fi拾うから勝手にYoutubeとも繋がる。
もうTVもネット抜きには語れないんだろうね。
で、早速ヒカキンの動画などを漁る。
広報美人衆のなべりん・うりたんをユーチューバーにするしかない!宣伝・広報として今できることはそれしかない!と急に思いついて「トワイライトライブ!」を企画したが、それに伴い僕もユーチューバーの動画を観ることが増えてきた。
しかし、そこまでかぁ?と思ってしまう。
映像のテンポ、カット割りは今のTVバラエティよりも更に洗練されていると思う。
テロップワークやSEの配分も申し分ない。
これを観たら僕の「薄暮どうでしょう」はかったるく見えるかも知れない。
しかし、なんか違うんだよなぁ。
今ひょんなことで完全にハマった「水曜どうでしょう」の研究をずっと続けてて、もう寝る時も睡眠学習のように動画を垂れ流しているので、その違いが感覚的に良く解る。
それはやっぱり演者の才能・タレント性なのか?所詮ひとりで番組を作っていることのキャスティングの限界なのか?
いろいろ考えられる。
しかし、僕は一番の原因を、ユーチューバーの最大の武器、「洗練され過ぎた編集技術」に特定する。
凄く緻密なのだが、どうも人間的な間合いがなく、機械的で、無機的なのだ。
演者の方も(自分の)編集ありきで語り、動いているので、どうも窮屈なのだ。
もっと遊びであるとか、グダグダなところがあってもいいのだ。
これは演出文法として言えることだが、全部がクライマックスで、隙がなさすぎると観客は疲れるのだ。
今のユーチューバーの演出は隙がない。
であるがゆえに、凄く乾いた、人間性の薄い映像になっているように感じるのだ。
あ、似たようなことがボカロにも言えるな。
まぁそれが、次世代の映像文法なのだ、と言われたらまぁ、へぇそうでっか、と思わなくもないし、同じく三島由紀夫から「セック(乾いた)な映画だ」と言われた巨匠・市川崑とどこかで通底するのかも知れないな、と思えなくもない。
しかし、同じくリズムで切ってきた僕の映像文法とは、根の部分で違うと思う。
「呼吸」と言った方がいいのかも知れない。
そう言えば「呼吸をするようにカットを切れ」と言ったのはゴダールだっけか。