熊城に三度落ちた男

 

 

@tokikanibukikaです。

春爛漫、気持ちの良い季節がやってきましたね。

皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

 

以下、内容にボリュームがありますので、

PC等のデスクトップ端末でご覧になることを

お勧めいたします。

 

 

1. はじめに

 

まずは皆さま、

平成29年3月の出立より

1年も過ぎ去った今さらではございますが、

在職時にはたくさんのあたたかいご支援をくださり、

まことにありがとうございました。

 

以下で述べる事情により、

出立後のSNSの公開を控えてまいりましたので、

このようにご挨拶が遅れる形になってしまいましたこと、

ご容赦ください。

 

 

そして「このたびの挑戦」に際しても

多くのご声援を頂きましたこと、

あわせて篤くお礼申し上げます。

 

懸命に準備をしてまいりましたが、

「このたびの挑戦」の結果は、

まさかの書類選考落ち。

すなわち、門前払いを受ける結果に終わりました。

 

3月30日には既に不合格と判明しておりましたが、

念のため、しばらくお伝えするのを控えていた次第です。

 

不甲斐ない結果となり、申し訳ございませんでした。

 

 

 

 

───── さて、

「一連の戦い」が終わるまでは公にすまい、と

こころに秘め続けてまいりましたが、

これで「すべての戦い」が決着したため、

お伝えしたいと思います。

 

今日に至るいきさつを。

 

なぜ私は伊達武将隊にいて、そして1年で去ったのか。

そしてなぜこのたび、かくも奇妙な行動に出たのか。

 

 

いくら履正を貫こうとも、

負ければ賊軍、結果がすべて。

 

負ければ言い訳としか受け取られない。

せいぜいゴシップの種になるだけ。

 

それを承知の上で、それでも私は、

知っていただきたいと思っています。

 

 

事実を時系列に並べつつ、ご報告いたします。

 

はじまりは、3年前に遡ります。

 

 

 


 

 

 

2. 平成27年  7月~ 「 熊 城 」

 

今から3年前の、平成27年7月。

私は「熊本城おもてなし武将隊」の採用選考を受け、

不合格となりました。

 

しかし、どうしようもなく、

そのすべてに対して心奪われた熊城を

私はどうしても諦め切ることができず、

こう心に決めたのでした。

 

「他隊で功績を挙げ、業界への適性を証明した上で、

熊城オーディションに再挑戦してみせる」

 

と。

 

そして、活動期間を1年間と定めて伊達に応募し、

平成28年度、第7期の伊達武将隊に籍を置いたのでした。

 

 

 

詳しく申し上げましょう。

 

私は、今から8年前の、とある医療ミスによって負った後遺症を

現在もなお、抱え続けて生きています。

生きながらにして日々、心身を蝕まれ続けています。1

 

3年前の平成27年の上半期、私はその影響で、

半年にわたり病床に伏していました。

 

来る日も来る日も、死だけを思いながら寝たきりで過ごす、

先の見えない絶望の中、

偶然web上で、私は風変わりな求人を目にしたのです。

 

 

「熊本城おもてなし武将隊 ・・・?」

 

 

当時、私は武将隊という存在すら、知りませんでした。

はじめは、ただのコスプレ集団かなと思いました。

 

しかし、何となく興味をそそられ調べてみると、

みるみるうちに、そうではないことが明らかになってゆきました。

 

 

───── そして動画で、

宇土櫓を背に舞う全員演舞

「 虎嘯風生 」を目にした瞬間

 

雷に打たれたかのような衝撃を受け、

ぼろぼろと涙をこぼしている自分がいました。

 

そして、感じたのでした。

 

───── あぁ、自分はこのために生き長らえていたのだ

 

と。

 

強烈すぎるセレンディピティでした。

 

 

そのあと、調べれば調べるほどに、

粋で格調高く、硬派で洗練された熊城の世界観に

ずるずると惹き込まれてゆきました。

 

演舞のすばらしさはさることながら、

ブログを見ても、知性と品格を感じる

美しい文調で綴られていました。

 

とんでもない理想郷があったものだなと思いました。

 

私は元来、踊ることが好きで、

世界史・日本史ともに好きな歴史オタクで、

そして山里に生まれ育ち、アンチ・大都市一極集中のため、

「地方創生」に関心がありました。

 

表現者として働くことで、

人の関心を中央から地方へ向けさせること、

大都市圏から人を呼び寄せることができるなんて。

しかも題材は、地域の財産である歴史。

まさしく、「地方創生」そのもの。

なんてエキサイティングな仕事なんだろう!

 

それに、生死の境をさまよって生きてきた

自らの半生すら、

つねに死と隣り合わせだった武士のこころを

表現するうえで活きるのではないか、

とさえ感じました。

 

「熊本城おもてなし武将隊」の何もかもが、

ことごとく自らの価値観に当てはまってゆくので、

ぞっこんになるのに時間はかかりませんでした。

 

絡まっていた人生の糸が

ほどけてまっすぐになってゆくようでした。

 

 

パフォーマンスそのものに衝撃を受けた「 虎嘯風生 」は、

そのタイトルからも、運命を感じていました。

 

長年くすぶってきたそこのお前、才を活かせる場を得て世にいでよ ──────

 

そんなことを、ほのめかしてくれているように感じました。

 

 

そして、並行して他の武将隊についても調べてみましたが、

他に心を惹かれる隊は、ありませんでした。

 

そうです。

私は、武将隊に惚れたのでもなく、

役者や芝居がやりたかったのでもなく、

 

「熊本城おもてなし武将隊」そのものに、惚れていたのでした。

熊城でなければ、だめでした。

 

 

とは言え、先述のとおり自身の状態が優れなかったため、

応募はかなり、ためらわれました。

しかし、

 

「これを逃せば二度と人生のチャンスはない。当たって砕けろだ」

 

と決心をして、ハローワークで応募の申込みをし、

書類を送りました。2

 

 

するとすぐさま、書類選考通過のお電話を頂きました。3

 

それも、たいへん感じの良いご担当者さんで、

1時間近くも丁寧に、職場や仕事内容について教えてくださりました。

 

そして、その親切なお電話のなかで、

ご担当者さんが自ら、求人票記載の選考フローとは異なる

 

「すばらしい選考機会のお約束」

 

を、してくださったのです。

 

私は、その願ってもみないお約束を信じて、ご提案に従い、

病み上がりの不自由な心身ながらも懸命に準備をして、

4日後、面接とオーディションのために、熊本へ向かいました。

 

 

時は、緑かがやく盛夏。

はじめて訪れた熊本という土地の美しさにも、

私は深く魅せられました。

自然と歴史が調和した、気品のある街でした。

 

あいにく、天下の名城を訪ねる時間はなかったものの、

演舞を見るべく訪れた4「城彩苑」にて、

その石畳と白壁の空間の清らかさに、ただただうっとりしました。

サムライが、まったく浮かず調和する空間。

こんなに理想的な場所が、活動の拠点だなんて ─────

 

街を歩く和装の女性が、路端の社に向かって恭しく礼をしていました。

路面電車に揺られれば、「どこから来たの?」とおじさんが

声をかけてくれる人情もありました。

 

 

くまもとに、一瞬で惚れました。

 

 

私は、住居を転々として生きてまいりましたが、

 

「この土地ならば、この仕事ならば、何年も根を下ろして携わってゆける。」

「そうすれば、苦しめられ続けているこの医療ミスの後遺症も、固定の医師にかかって改善してゆくこともできる。」

 

と、ようやく人生が開けることを感じました。

 

 

面接は、形式張ったものではなく、

5~6人の面接官との、対話形式のものになりました。

これまでの心身状態について触れつつも、

終始和気あいあいと、意気投合して会は進み、

終わってみれば2時間にも及ぶ、充実した対話の時間となりました。

 

翌日のオーディションは、さすがに良いとは言えない出来でしたが、

事前にお電話にて頂いていた

 

「すばらしい選考機会のお約束」

 

がありましたので、

まだこれで終わりではないことを、私は知っていました。

 

近いうちにきっと、

このすばらしい土地で、このすばらしい仕事に携わってゆける ──────

 

ようやく見つけた生きる道に、私は淡い望みを抱き、

すぐにまた戻ることになっているその街の夕暮れを眺めながら、

帰りの新幹線に乗ったのでした。

 

 

 

───── しかし、その幻は

先方による信じがたい「約束の反故」により、

露と消えるのでした。5

 

熊本を訪れてから1週間後に受けた

「あの話はなかったことに」の電話に、

私はしばらく状況が飲み込めず、呆然としました。

 

しかし時間が経つにつれ、その筋の通らぬやり方に、

激烈な怒りが湧き上がってきました。

 

話が違いますという抗議を致しましたが、

もみ消され、約束が守られることはありませんでした。

 

 

 

私の心には、鬼が宿りました。

 

「他隊で結果を出して、適性と能力を証明し、

必ずや熊城に入ってみせる」

 

と。

 

別の仕事をステップアップのための手段にするようなことなど、

絶対にしたくはありませんでした。

しかし、そうするより他なかったのです。

 

どうしようもなく惚れた仕事を手に入れるために。

そして、欺きに抗うために。

 

 

 

“鬼”種流離譚 は

ここからはじまったのでした。6

 

 

 

そう決めて以降、翌春にいくつか出るであろう他隊の求人に備え、

病み上がりの体を少しでも人前に出られるように慣らすべく、

そして経歴として履歴書に記載できるキャリアを増やすべく、

個人契約できるモデルの仕事7を探して、取り組みはじめました。

 

たった10分の模擬挙式の出番のために、往復1,000km / 12時間の距離を

交通費で大赤字ながら通ったりすらしました。

移動中には、折に触れて熊本のことを思い出しては、

悔しさに嗚咽しました。

 

じっと待ち続けて秋冬を越し、迎えた平成28年の春。

上田、山形、岡崎、上越、高知、岩手8

そして名古屋からもキャスト募集が出ましたが、

検討の末9に、伊達に応募しました。

 

3月、はじめての仙台を訪れて選考を受け、

そして採用いただくことができました。

 

 

 


 

 

 

3. 平成28年  4月~ 「 仙 台 」

 

 

平成28年4月。

仙台での雪辱戦がはじまりました。

 

住んだことはおろか、訪れたことすらなかった宮城県に転居し、

甲冑や殺陣、芝居の経験もまったくない中でのスタートです。

 

歴史は元来好きだったため、すんなりと会得しましたが、

縁もゆかりもなかった県について、

隅々まで観光案内できるようになることは難しく、

観光については特に必死に学びました。

 

そしてもっとも苦労したのは、芝居とトークでした。

先述の医療ミスの後遺症で、ろれつが回らず滑舌が極めて悪かったためです。

それでも、なんとか人を惹き付けられるトークをすべく、試行錯誤を続けました。

私が道化のように振る舞っていたのは、そのための苦肉の策でした。

 

三畳ひと間。家賃は水道・光熱費込みで3万。

寝る時しか家には居ないからと、劇狭・激安の部屋に住みながら、

がむしゃらに仕事だけに打ち込みました。

 

もちろんその原動力は、必ず熊城に返り咲くという反骨心でした。

 

 

そんな、雪辱に燃えて挑んだ伊達での日々でしたが、

その日々は思いがけず、きわめて充実したものでした。

 

あくまで、私の心酔する世界観や演出は熊城のそれなので、

伊達のそういった面での価値観とは、まったく異なってはいましたが、

 

しかし「武将隊のキャスト」という仕事そのものは、

予想どおり、いえ、予想を遥かに越えて自らに合っており、

とてつもなくやり甲斐があったためです。

 

地方創生・観光PRという大きな使命のために、

知性・感性・身体をすべて余すことなく使う。

地域の方・観光の方・ファンの方など、

多くの方から必要としていただける。

四季を感じ、それを表現できる。

 

もう、おもしろくてしょうがありませんでした。

 

そして毎日そのPRをしているうちに、

気付けば、仙台・宮城という土地や文化のことも

好きになっていました。

 

武将隊が自らの天職であることを噛み締めつつ、

なればこそ、熊城への想い、

自身にも必ず熊城のキャストが務まるという確信を

日々強めながら仕事に没頭し、

瞬く間に月日が過ぎてゆきました。

 

 

入隊してわずか4ヶ月後の8月には、予想よりも早く

熊城との共演がありました。

それはそれは、心中穏やかならぬことはひときわでしたが、

兜を被ったままという制限がありながら、

意地で完璧に「 虎嘯風生 」を踊ってみせました。

 

もちろん、伊達の在籍中にも、

熊城の運営に対して、入隊希望を伝え続けていました。

「無償のボランティアスタッフとしてでも結構ですので、

どうか熊本城おもてなし武将隊さまに携わらせてください」

とさえ、たびたび申し出てきました。

 

公式ブログでも時おり、熊本の復興・PRについて

記事を投稿してきました。

 

 

季節はめぐり、平成29年春。

いつ出るかが読めない熊城の欠員募集に備え、

仙台に来る前から決めていたとおり、私は1年で伊達を去りました。

 

ブログの最後を「 後の世も廻り会へ 」と締めて。

もちろん、熊本でふたたび皆さまにお目にかかることを、

意図してのものでした。

 

契約更新をしなかったことについて、

ありがたいことに、社内では強く慰留もしていただきました。

しかし、実際に武将隊を経験したことで、

熊城への想いは確信に変わっていたため、信念は揺らぎませんでした。

 

その想いは、「明智光秀」公の辞世に寄せて、

こちらに記していました。

 

「あるべき場所にたどり着くために、

1年間、がむしゃらに戦ってきた。

そしてそのためにいま、伊達を去る。

 

選択それ自体には、善悪も正誤もない。

勝てば正義、負ければ不義。

結果がどうなろうと、

何が正しいかは、私の心の中にある。」

 

という想いを込めて。

 

 

武将隊キャストとして多くのご支持を得て、

伊達のキャスト内で唯一無欠勤と、体力仕事への適性も示し、

観光PRやおもてなし、パフォーマンスの面でも、

1年目としては比類ない業績を挙げてきたと、自負しています。

 

「ただやりたがっているだけの無能」ではなく、

「やる気も能力も実績も適性も十分に備えている」ことを、

熊城に対して証明することは、できたはずでした。

 

お世話になった皆さまへの感謝の念にうしろ髪を引かれつつ、

私は、仙台を去りました。

 

 

===

3.1. Column :「重綱」という役名

 

ここからは余談ですが、

役名としての「重綱」は、私が生んだものでした。

 

平成28年4月の入社後まもなく、

前年度から引き継ぐ形で「重長」公役を拝命した際、

 

右も左も分からない中ではありながら

「名は『重長』よりも『重綱』の方が、良いのではないでしょうか?」

と、私からプロデューサーに提案したのです。

 

偏諱を受けている「重綱」という名のほうが、

初見の方にも景綱との関係がわかりやすいし、

世に名が広まる大坂夏の陣の頃には、まだ「重綱」だったのはもちろんのこと、

そもそも「重長」に改名したのは老年期のようなので、

 

いくら世間的には「重長」として名が通っているといえども、

役としては「重綱」の方がふさわしいのでは、と。

 

その後、片倉氏ご子孫であられる

青葉神社の宮司さんにもその旨を相談しにゆき、

史実としておかしくないかどうかの確認をしてお墨付きをいただき、

実現した役名が「重綱」でした。

 

───── そんな「重綱」の名が、

かつての重長公によって、第9期にて引き継がれました。

 

感慨深いものです。

 

 


 

 

4. 平成29年  4月~ 「 破 綻 」

 

伊達を出立したあとも私には、

「私人」に戻るつもりは毛頭ございませんでしたので、

SNSで「中の人」を公開することは致しませんでした。

 

熊城にキャストとして返り咲くことを以って、

息災のご報告を皆さまにするつもりであったためです。

 

 

そして、出立してから間もない平成29年4月。

私は、求人情報サイトにて公募されていた、

熊城の「運営スタッフ」職に応募しました。

 

依然、開催の時期が読めなかった熊城オーディションまでの間の、

修行と関係構築を念頭に置いてのものでした。

 

ちょうどその頃、たいへんありがたいことに、

伊達での私の功績を高く評価してくださり、

キャストとして熱心に私を勧誘してくださった

他隊さまがありました。

 

そのお誘いを断腸の思いで固辞した上で、

退路を絶っての、熊城「運営スタッフ」職への応募でした。

 

 

 

───── しかし、結果はあっけなく不採用。

 

それも、「採否に関わらずご連絡します」と

要項に明記されていたにもかかわらず、

結果通知をくださらないという非情なものでした。

 

応募から1ヶ月後に、しびれを切らせてこちらから問い合わせ、

ようやく不合格が判明する始末でした。

 

 

やる気も忠誠心も、実績も引っさげてお願いしても叶わない ─────

無論、激しく失望しました。

 

それでも

「オーディションを受けるまでは諦めるわけにはゆかない」と、

希望は捨てませんでした。

 

というより、血の涙を流してそのためだけに戦ってきた、

魂に刻みつけられた信念は、

その程度で曲げられるものではありませんでした。

 

別の仕事をしながら、日々屈辱に胸を焼かれつつ、

じっとオーディションの開催を待ち続けました

 

 

 

───── そして同平成29年8月。

2年間その開催を待ち焦がれた、宿願たる熊城オーディションが

ついに!とうとう!公示されたのでした。

長かった。平成27年7月以降、本当に待ちに待ったものだったので、

興奮を抑えきれない状態ですぐさま書類を作成し、応募いたしました。

 

 

しかし、いっこうに書類選考結果の通知がありません。

4月に運営スタッフ職に応募して無視された悪夢が、頭をよぎります。

 

厚かましいとは思いつつ、結果について問い合わせても、

要項にオーディション実施日と記載のあった8月30日まで、

のこり3日を切っても通知はなく、

深い絶望感とともに、私は諦めました。

 

 

───── ところがなんと、8月30日の「前日」10になって、

信じがたいことに、書類選考通過のメール(オーディション参加案内)

が届いたのです。

 

オーディション日はもちろん据え置きで、

要項にあったとおり8月30日。

翌日です。

遠方です。

 

九死に一生を得たかのような嬉しさやら、

この陰湿な対応への不信感やらで混乱しつつも、

大急ぎで準備をし、遠路、2年ぶりの熊本へ向かいました。

 

もちろん前もって、交通手段の確保と、

オーディション日に仕事を休めるように職場への手続きだけは

済ませておりました。

 

しかし、4月に応募を無視された経緯があったことから、

通知があるまでは、具体的なオーディション対策へと

動くわけにゆかなかったため、

一切の対策ができないまま、オーディションに臨む結果と

なってしまいました。

 

そのためオーディションの出来は、

いま思い出しても顔から火が出そうなほど

惨憺たるものとなってはしまいましたが、

 

しかし2年分の想いだけはまっすぐに伝え、

熊本でのオーディションを終えたのでした。11

 

 

一日千秋の想いで結果を待ちました。

ひと月ほどが経ち、秋の気配が漂い始めた9月24日、

結果が郵送で届きました。

 

 

800日間の想いも、仙台での努力も虚しく

不合格でした。

 

 


 

 

 

5. 平成29年10月~ 「 壊 滅 」

 

 

平成27年7月。

平成29年4月。

そして同年8月。

 

計3度、熊城から不合格を受けたことで、

諦めの悪い私でさえ、熊城に入隊できる可能性が万にひとつもない現実を

受け入れざるを得なくなりました。

 

その後しばらくは、自暴自棄になって過ごしました。

2年間、一心不乱にただそのためだけに生きてきた対象を失った

筆舌に尽くしがたい喪失感と敗北感からでした。

 

縁もゆかりもなかった仙台に転居してまで、

血の涙を流して必死に戦ってきた1年は、何だったのか。

 

そしてご存知のとおり、

合格したのは、元運営スタッフのお二方。

 

まさに私が、他隊さまの勧誘を固辞してまで、

平成29年4月に運営スタッフに応募し、構想したルートそのものからの

ご昇格であった事実は、いっそう私の心を締め付けました。

 

身も世もなく嘆き、取り乱し、ぬけ殻のように過ごしました。

 

 

 

そんな中、次第に、自己嫌悪するほど邪な

次のような想いが頭をもたげるようになりました。

 

「人生でやりたいことが熊城以外にないのに、

どうあがいてもそれが叶わない。

 

ならばその唯一の対象を圧倒し見返すことしか、

自らに生きる道はない」

 

「そのためには、名実ともに業界の頂点に君臨する

名古屋で武将になる他ない」

 

と。

 

 

しかし、それには幾つもの問題がありました。

 

そもそもの問題として、名古屋に、

今年度の欠員募集があるのかどうかも分からない。

 

さらには、仮に募集があったとしても、

それでなくとも業界最大手ゆえに狭き門であることに加え、

 

熊城を目指してきた経緯を話せない以上、

伊達を1年で辞めた事実は、ただの長続きのしない人間だと

見なされる可能性が高いし、

 

人付き合いが得意とは言えない私には、業界経験者でありながら人脈がないので

相手に不気味さを与えてしまうし、

 

新メンバーとして入るにはもう決して若くもないし、

芝居が盛んな隊であるものの、先述の後遺症で芝居に自信はない。

 

そしてなにより、この日本社会は、

いちど群れからはみ出た人間を二度と受け入れない、ムラ社会。

 

 

見込みはゼロに近いことは、分かっていました。

それでも、挑戦するしかありませんでした。

 

 

 

こうして悲痛な想いで待つこと5ヶ月、

平成30年2月、とうとう名古屋の欠員募集が公示されました。

 

ひとまず、「募集があるかどうかすら分からない」

という第一の関門はクリアしました。

 

そして「他隊経験者でもOK」という、

出処の確かな、極めて重要な情報も得ることができました。

 

私は本格的に、準備を開始させました。

 

 

しかしまだ、最も脅威となる問題が残っていました。

それは、熊城によって、私の経緯を名古屋にリークされる恐れでした。

 

というのも、熊城には容易に予想ができるはずだったからです。

熊城に落ちて伊達に入り、

そこからまた熊城を受け、そして落ちた私の行動から、

次は名古屋に応募するということが。

 

たとえ私が黙っていても、熊城から名古屋へ告げ口される可能性は高い、

そしていいようにされる恐れは十分にある。

ならばいっそ、それへの牽制の意味も込めて、自分から発信すべきではないか。

 

そういった考えにより、去る3月9日、

出立以降の長い沈黙を破って、

私はTwitterでの挑戦公表へと踏み切ったのでした。

 

 

もちろん、契約後の個人SNS禁止という内規は知っていますので、

それに準じる形でデメリットに作用する恐れも当然考えましたが、

その他の、公開に伴うあらゆるメリット・デメリットを天秤にかけ、

悩み抜いた末の決断でした。

 

そのようにイチかバチかの布石を打ちつつ、

「負けすなわち死」という覚悟で、

死力を尽くして準備をしてまいりました。

 

動機こそ、健全なものではありませんでしたが、

もし奇跡的にご縁を頂けた場合には、

名古屋という場所は命の恩人になりますので、

そこに骨を埋める覚悟で力を尽くすつもりでした。

 

 

 

───── ところが結果は、

冒頭で申し上げたとおりの書類選考落ち。

 

書類選考の結果通知期限である3月30日15:00を迎えても、

一切の連絡はありませんでした。

 

会って確かめていただくことすらできない、

あまりにあっけない結末でした。

 

 

正直、書類選考落ちは予想していませんでした。

 

なぜなら先述のとおり、「他隊経験者でもOK」という

出処の確かな情報を得ていたことに加え、

添削を何度も受け、入念に準備をした応募書類を送ったためです。

 

入念に準備をした応募書類が、かえってアダとなったのか

Twitterで挑戦を公表したことが、事務局の癇に障ったのか

はたまた、ウラでの「例の根回し」があり、業界から私を排除しにかかったのか。

 

真相は知る由もありません。

 

書類選考の通過を想定して、

オーディションに向けてまっすぐに準備をしていたため、

肩すかしを食らったようでした。

 

 

 

───── かくしてついに万策尽き、

対熊城の3年弱、実に1,000日に及ぶ戦いに終止符が打たれ、

私の敗北が確定したのでした。

 

 


 

 

6. さいごに

 

 

私は元より芸能志望ではございませんし、

個人名義で活動したいと考えたこともございません。

ですので、今後私が世に現れることはございません。

 

繰り返しになりますが、私は、

武将隊をやりたかったのでもなく、

役者をやりたかったのでもありません。

 

ひとえに「熊本城おもてなし武将隊」そのものに、

惚れていただけなのです。

 

 

城彩苑の親水空間にて

袴に、結った髪を振り乱して

「虎嘯風生」を舞うこと ─────

 

 

それが、私のひそかな夢でした。

だれよりも華麗に舞う自信がありました。

 

 

そのために2年間伸ばし続けた髪も、

いまでは肩甲骨の下まで伸びました。

ポニーテールを結うのに十分な長さとなりました。

 

しかし、遂にご披露することは、叶いませんでした。

 

 

伊達の出立以降のこの雌伏の1年は、

それまでにも増して、本当に辛く苦しい1年でした。

目標を実現できなかったがために、副次的に失ったものも、

あまりに多くありました。

取り返しはつきません。

 

申し訳ありません、綺麗ごとは言えません。

いまは心の底から思っています。

3年前、熊城に出逢わなければ良かったと。

3年前、あのまま病床で果てているべきだったと。

 

 

しかし、

勝てる見込みなどほぼ無くとも、

ひとり強大な相手に立ち向かい続けたこと、

それ自体には後悔はしていません。

自らの義を貫き、戦い抜いたのですから。

例の、光秀公の辞世そのものです。

 

 

歴史の本流に名は残さずとも、

そのようにして命を散らせてきた豪傑たちが、大勢います。

 

「 九戸政実 」公も、そのひとりでしょう。

筋の通らぬことを看過できずに異を唱え、

天下人に喧嘩を売って、戦場の露と消えました。

僭越ながら、私も似た感じなのかもしれません。

 

 

とは言え、この投稿をご覧くださった方の中には、

「明らかに拒絶されててムリなのに、熊城に挑み続けて、バカじゃないの?」と

思われる方も少なくないでしょう。

 

それはそうでしょう。他人事ですから。

当事者になれば、違うものです。

 

あなたは、死ぬほど惚れた仕事に出逢ったことは、ありますか?

 

 

さて、この投稿も終わりが近づいてきました。

あらためまして、“ 紫地獄の住人 ”でいてくださった方々、

応援してくださった大切な皆さまへ。

 

 

この雌伏の日々、私が今日まで耐え忍んでこられたのは、

在職時に頂いてきたあなた様方のあたたかいお心、

お言葉の数々のおかげに他なりませんでした。

篤く篤く、お礼申し上げます。

 

 

そして “ 後の世も廻り会へ ” ず、

申し訳ございませんでした。

 

 

さようなら、どうかお元気で。

 

 

 

 

 

[ 脚注 ]

  1. 表に出したことはありませんし、事実、無欠勤を貫きましたが、もちろん伊達での日々も、それを抱えながらの日々でした。
  2. 当時はまだ、熊本城おもてなし武将隊はハローワーク求人でした。下記の事件までは。
  3. 以降で述べる平成27年7月の選考およびそのやり取りに関する情報については、守秘義務を伴っておりませんので、良識の範囲内で事実の記述をしております。平成29年8月の選考に関してはその限りではありません。後述します。
  4. 雨天中止で結局見られなかったのですが 笑
  5. 「反故」の詳細は、先方事業所の名誉のために伏せておきますが、この件によって先方事業所は、平成27年8月7日に、ハローワーク熊本から「求人の是正指導」を受けているという事実だけは、申し上げておきます。
  6. この言葉は、私の人生観に大きな影響を与えた「アルスラーン戦記」の登場人物「ヒルメス」から着想を得たものです。
  7. それ以前にもモデル事務所に所属していた経験は多少ありましたが、事務所を通して仕事を探すのは、レッスン・オーディションを経なければならず、とにかく短期間に場数だけが欲しかった当時の私には煩わしかったため、事務所は通さずに直接契約のできる仕事を探した、ということです。
  8. ちなみに岩手は、熊城に落ちた直後に募集が出たため、平成27年8月の混乱状態のなか、キャラが全く異なるのに血迷って応募しましたが、あっさり不合格になりました。
  9. 1.隊の規模や人気が熊城と対等であり、熊城との交流の機会も多かったこと。2.ハローワーク求人のため応募人数が確認でき、勝算のある倍率だったこと。3.名古屋は高倍率が予想され、役者経験のない私にはまず勝ち目がないと考えたこと。4.古代東北史が好きだったこと、が理由です。
  10. 厳密に言うと、通知メールが届いたのは8月28日の夜でしたが、夜に通知があってから出来ることを考えると、事実上の前日と言えます。
  11. 当該オーディション内容の詳細については、「誓約書にて同意した守秘義務」に従い、控えます。対して、誓約書の守秘義務に含まれない、誓約書捺印前の出来事である、書類選考結果通知の遅れについて、および先述の平成27年7月の選考については、守秘義務を帯びておりませんので、事実について一定量の記述をしております