表面的な行動ならいくらでもできる。
老人に席を譲ったり、同僚の仕事を助けたり、
病の友人に見舞いをしたり、落とし物を届けたり、
後進のためにできることをやっておく、
家族のためにサービスする、彼女にサプライズして喜んでもらう、
できるだけ楽しい思い出になるように「ニコニコ仮面」を被りお調子者を演じる。
思っていた通りの反応。
その繰り返し。
だけど、俺は人を愛せない。
俺を慕ってくれている家族や恋人、友人には本当に申し訳ないのだが、
愛する人のために命を捨ててもいいというような境地に至ったこともない。
あまりにも演技が上手くいってるおかげで優しいとか気が利くとか評価され慕われている。
けれども、それは全てただの行動だ。
そう学習し行動してるにすぎない。
もちろん、誰かが傷ついているところを見ると心が痛む。
だが、これは相手を思いやっているわけではないのだ。
誰かが傷つく可能性があるということは、いつか自分にその順番がめぐってくるかもしれない。
そういった不幸への恐怖心が俺の心を動かしている。
俺が募金をしないのは、募金を必要とするような大多数の不幸な人間のことまで考えてしまっては、
自分の心に生まれる恐怖心は膨大に膨れ上がり、日常生活を送れなくなるからだ。
だから当然アフリカの子供たちが何万人死んでいようが俺は救おうとも考えようともしない。
ただ己の範囲内でそういった人間がいると穏やかでいられないから、
他人の目からはそれは誰かを思いやった心から出た善意に見えるかもしれない。
しかし、俺からしたらストレスを減らすための自分のための行動でしかない。
どうすれば人を愛せるのか?
俺は人を愛したい。
だけど愛する心が無い。
こればかりはどうしようもない。
目が悪ければメガネをかければいい。
耳が悪ければ補聴器をつければいい。
足が悪ければ杖をつき、車いすに乗ればいい。
だが心が足りない人間はどうすればいいのか。
善意からくる行動をまねていれば、いつか答えが分かると思っていた。
誰かの喜ぶ顔を見れば、いつかこの冷めた心にも小さな芽が育つと思っていた。
だが、どれだけ待っても、芽はひとつも出ることがなかった。
元々そこに種はなかった。
俺自身、愛を信じていないのだろう。
本当に愛が素晴らしくこの世の真理であることが疑いのない事実であれば、
とっくの昔にこの地球は愛で満たされているはずだろう。
実際は今日も飢餓で死ぬ人間や殺される人間、貧困に苦しむ人間が
この地上には数えきれないほど存在する、今、この瞬間にも。
この世は地獄だ。
俺は単に、日本という社会、この時代に生まれ勉強することができ、
俺とアフリカの子どもの違いは、単に生まれた場所、境遇の違いだけだ。
俺がアフリカで彼らと同じように生まれたら、今のような生活は絶対に送っていない。
それは誰にも変えられなかったことであり、起きてしまったことだ。
愛せない人間はどうすればいいのか?
俺は必ず死ぬ。
産まれてきてよかったと一度でも思うことができれば、
自分も普通の人間と同じように趣味や仕事ややりたいことはもちろんある。
だが、それらは死への恐怖に打ち勝つだけの魅力にあふれる題材でもない。
愛だ。
人に愛してもらうのではなく、究極に人を愛する必要がある。
おそらくそれこそが死への恐怖に打ち勝つ唯一の手段であり、最も尊い行為だろう。
だが人を愛するには何が足りないのか未だに理解できない。
人を愛する人間と同じポジションに立てば何か分かると考えていた。
余計分からなくなった。
愛が素晴らしいのは分かる。
どうしても愛を手に入れたい。
親になり子を持てば分かるのだろうか?
表面上愛しているように見えて、子もそう思い信じている。
誰も知らなければいいというのは通用しない。
できる以上のことはやってきた。
何かを意図的に信じ込むことも試してみたがどうしてもできなかった。
愛はどこから与えられるのか。
愛を知る人たちが眩しい。
俺はこの先ずっと彼らに劣等感を持ちながら生きていくしかないのだろう。
俺は地獄にいる。
ハハハ無駄に真面目すぎ お前のそれ普通だから 考えてみろ 子供がいじめで殺されても復讐もしない親だらけだろ? ほんとの愛があったら加害者ぶち殺すだろ 自分の人生や命よりも子供...
表面的な行動ならいくらでもできる。 これで十分 何が問題だと言うのだろう
あなたの好みの美女と付き合えばいいでしょ。 あなたが鬱陶しいと感じていた存在はもういません。 楽しい事だらけじゃないですか??
人に表面的なサービスをするとか、 心配したくないから募金しないとか、 とても普通の人間だと思った。 人を愛せない人間が劣っていると思っているようだけれど、 「私は○○を愛し...