2018年04月07日

トロツキスト

「トロツキスト」というのは、ロシア革命でレーニンに次ぐ活躍をしたレオン・トロツキー(本名ブロンシュタイン)の思想と行動に単に共鳴する人のことを指すのではない。それ自体極度に論争的な文脈と含意を持つ言葉であったし、また今でもそうである。今日、そのような文脈がほぼ消滅している中にあって、それについて論じるアクテュアリティは少ないと思われるが、私自身、一時トロツキストとして活動した時期があるし、今日でも一部そのような運動にある種のノスタルジーを感じる人もいるので、私自身の今のスタンスを明らかにしておきたいと思うのである。

私は、政治的伝統とか政治的権威というものには大きな意義を認めるものであるが、ノスタルジーのような感傷は、政治という領域においては極めて有害であると思っている。それゆえ、特定のイデオロギーの政治的意義とその欠陥を明瞭にしておくことは重要であると思う。


トロツキストとは、ソ連の共産党、特にスターリンの政治に対して極めて自覚的に対決する必要を感じたマルクス主義者のことを指す。このさい、他の諸国(中国や日本を含めて)の共産党や共産党的諸政党も、多少の差はあれ、同様のイデオロギーを奉じるものとして等しく退けたという点が重要である(これを「反スターリン主義」という)。

こうした点については、それぞれに独自路線を歩みつつあった各国共産党には、受け入れがたいところであった。それゆえ彼らは、「スターリン主義」とか「反スターリン主義」という概念自体を、無効なものと見なした。

それでは、「スターリン主義」というような十把一絡げの断定には、内実がなかったのであろうか?

当時(60年代)、そのことが十分理論的に自覚されていたわけではないが、実は内実があったのだと私は考えている。40年代から60年代にかけて議論された「主体性論争」の意義について論じたことがあるが(拙著『神学・政治論』p-88)、私はそれに意義を認めるか否かが、「スターリン主義」と「反スターリン主義」とを弁別する基準になると考えている。

「主体性論争」はさまざまの形を取ったが、主たるポイントは、梅本克己が提起した問い、「もし共産主義革命が歴史的必然であるのなら、革命に献身する共産主義者の倫理的主体性は無意味にならないか?歴史的必然性と倫理的主体性とは両立するのか?」という点に凝縮されるだろう。

素朴な形とは言え、これはマルクス主義に根本的な、また致命的な問いを突き付けるものであった。

はたせるかな、マルクス主義に深い理解を持っていた丸山眞男は、この問いの意義を直ちに認めたが、当時、共産党中央の御用学者は、この問いの意義そのものを否認し、「修正主義、観念論、小ブルジョワ的偏向」などと言う罵倒を返しただけである。

梅本克己自身、他のトロツキストと同様、この問いを首尾よく解決できたわけではない。それは、梅本たちが、マルクス主義の根本前提(包括的唯物論)を不可疑のものとしていたからである。

唯物論的な歴史の包括的理論を承認する以上、ここにはいかなる根本解決もあり得なかった、というのが現在の私自身の考えである。「唯物論的歴史観」をどのように解釈するにせよ、主体の決断も物質の一部として唯物論的世界の法則必然性に縛られているとすれば、いかに「精神の相対的独立性」を繰り込もうと、政治的決断の決定的重要性を政治理論の中心に据えることはできない。それはせいぜい、「歴史的必然」を少しばかり円滑に進めるか、一時滞らせるかといった偏差を生み出すだけである。

このような理論の形而上学的性格が、いかに決定的な形で、実際の政治運動に影響を及ぼすことができるのかを考えると、うたた戦慄を覚えずにはいられない。この点は何度か論じたことがあるが、スターリニズムを論じるうえで決定的に重要な点であるから、繰り返し強調しておく。

史的唯物論は、政治的決断を「上部構造」に位置づけ、それを理論的に導出し得る包括的歴史理論と、それを習得しているエリート的知性の存在を承認しがちである。

もちろん、実際にその歴史的全知性が実現され達成されているか、それともそれは未だ課題にとどまっているだけにすぎないのか、という点には疑問の余地が残る。

しかし、マルクスに言わせれば、「人間は解決可能な問いしか立てることができない」(『経済学批判 序言』)のであるから、現在する政治的課題に対しても、唯一正しい解決が存在しているはずだ、という点は疑い得ないことになる。これは、問題や問題解決についての強い実在論的前提である。与えられた問いに対して、ある答えが正しいか否か決定されているということであり、問われている問いの意味について、それが何を求めるものであるのか、回答に先んじて決定されているということである。

このような実在論的前提は、独断的であるばかりではなく、論争や議論の持つ弁証法的実態を見失わせるものである。なぜなら、我々が問い進めるにつれて、当初の問いは姿を変えるのが普通だからであり、対話状況で意見が対立するところでは、その対立状況が問題そのものであり、その問題の意味は一義的に初めから明らかではないのが普通だからである。

つまり、実在論的見方は、実質上、議論による問題解決へのアプローチを認めない見方であり、そのことによって政治に暴力の介入を許すものになっているのである。ここに「力関係がすべて」といった言論に対するシニシズムが生まれる。

しかしより重要なのは、十分な理由に基づかない決断や偶然性の余地を与えない政治理論は、それにもかかわらず決断や偶然性なしには政治や軍事が有り得ない以上、それらをあたかも存在しないかのように理論的に抑圧せざるを得ないということである。

その結果、実際には存在する決断が、不確実性の中でなされた決断ではなく、絶対的全知からの演繹的帰結であるかのように粉飾され、それゆえ有り得べき失敗から学ぶ余地が存在しないことになり、「決断を導いた全知」が、議論によって挑戦を受けたり、修正を受けたりする余地もなくなるのである。

かくて、極めて場当たり的な政治的決定や一見不合理な決断(例えば、独ソ不可侵条約締結)さえも、一般人には及びのつかぬエリート(スターリン同志)の全知からは正当化されるものであるかのように見なされる。かくて、それらに直面すればするほど「不条理ゆえにわれ信ず」といった典型的スターリニスト的態度を生み出すことになるのである。

さて、トロツキストは、そのマルクス主義的世界観と哲学においては、スターリニストと大差なかったので、その欠点をも共有していた。ただ、現実政治の中では、スターリン主義の欠陥を勇敢に指摘し、またスターリン主義諸国やその政党と断固として決別したのであり、それによって冷戦構造を突き崩すきっかけとなり得た場合もある。

たとえば、80年代初めヨーロッパにおける反核運動は、ヨーロッパの核兵器削減の機運を引き起こすことによって、冷戦構造を突き崩し、ヨーロッパの政治的外交的独立性の拡大に寄与した。それがその後のEU につながるのである。ここでは、西ヨーロッパの反核運動が、間接的に東ヨーロッパの反ソ的活動の支援になっていた、ということが重要である。

とはいえ、このようなことは我が国においては必ずしも成り立たない。朝鮮戦争以後、極東ははるかに厳しく冷戦構造にとらわれていたからである。したがって、我が国のトロツキストはスターリニストよりも外交の現実を熟知していたわけではない。

トロツキストは、政治方針としては1)二段階革命論(初めにはブルジョワ民主主義革命が先行して目指され、その後に社会主義革命の課題が遂行されるという立場)と、2)一国社会主義論(一国だけで社会主義が建設可能であるとする立場)という点でスターリン主義と対決していたが、いずれも本質的な対立点とは見なし得ない。

1)トロツキストが批判した「二段階革命論」と言ってもあいまいであるが、彼らがそのとき依拠したレーニンやトロツキーの永続革命論とは、そもそもどういうものであったのか?

レーニンは、民主主義革命を本来担うはずの主体であるブルジョワジーが、ドイツやロシアでは既に革命に怖気づいて、民主主義革命の課題さえ放棄していると見なした。それゆえ、ブルジョワ民主主義革命的課題も、今やプロレタリアートが担わざるを得ず、したがってその革命は、自然にプロレタリア革命に連続的に受け継がれるものと考えたのである。これが彼らの「永続革命論」である。

つまり「永続革命論」とは、プロレタリアートに主導されたブルジョワ的課題とプロレタリア的課題(社会主義)が、連続して生じるという説なのである。

それはもとより、半周辺諸国における民主主的課題を、どうでもよいものと考えるものではなかった。むしろ、先進地域以外では民主化が成熟せず、したがってその政治闘争は、民主主義的課題を中心として闘われるのが当然なのである。

スターリン主義は、二つの革命の連続性を否定していたであろうか? トロツキストが批判するように、民主的課題に自己限定することによって、社会主義的課題をサボタージュしてきたであろうか? むしろスターリンは、ブルジョワ民主主義を無視しても、農村の「社会主義化」(コルホーズ、ソホーズ)を強行しようとしたのではなかったか?

したがって、このような点でスターリン主義を「二段階革命論」として批判するのは、全くお門違いであり、むしろ、ブルジョワ民主主義的要素の重要性を、いくら強調してもしすぎることはないのである。革命初期における民主主義的課題を、決して軽視してはならないのである。

しばしばトロツキストの政策や現状分析は、反スターリン主義として反動形成されたものにすぎず、スターリニストと同様の欠陥を持っていただけでなく、現実の政治(議会対策)から隔たっていた分、一層抽象的議論に終始したとも言える。たとえば、ブント(共産主義者同盟)は、日本帝国主義の自立性を強調したが、それは対米従属を強調していた共産党に対抗するためであった。

しかし、ブントが考えたように日本経済は高度経済成長期に対米依存から離れて自立的成長に邁進していたが、共産党が強調した日米安保に基づく対米従属は、経済的自立とは違う要因(敗戦による我が国の外交的・安全保障的配置)に基づいたものであり、共産党の認識の方が現実に近いものであったことが分かる。それは、彼らが基地闘争や国会での安保論議などを通して、現実の政治にふれていたからである。

2)「一国社会主義」についてはどうか? マルクスもレーニンも世界革命を目指したが、現実の歴史では、敗戦や経済破綻など一国ごとに異なる政治情勢をきっかけとして革命的危機が生じるのであるから、社会主義を目指す革命も、当面は一国で起こらざるを得ない。

とりわけ世界市場においては、先進諸国と立ち遅れた地域とでは、異なる政治課題に直面せざるを得ず、危機に対する耐性も異なることから、一国の革命危機が容易にそのまま世界革命に波及することはない。

したがって、革命政権が当面一国で社会主義的課題を追求せざるを得ない。この点は、トロツキーが権力を握っていても大差なかっただろう。書記局を中心とするスターリンの党運営や、反対派の粛清などは、たしかに変える余地はあるが、それらは一国社会主義の問題ではない。

また、議会対策こそは、共産党の中でも最も優れた活動であろうが、トロツキストはそれを「議会主義」として批判することしかできなかった。議会の議論は形式上(手続き的)にも、内容上(どのような法を立法すべきかの議論)も法に則ってなされるが、トロツキストはマルクス主義の原則から、それをブルジョワ的上部構造としてしか位置付けられず、およそ欺瞞的なものと見なしてしまう。

その点、スターリニストは「二段階革命論」によって、ブルジョワ革命の部分を曲がりなりにも有意味なものとして位置づけることが可能であった。実際、少数でも共産党員を議会に送るようになってからは、その議会での論争を通じて、彼らは法的議論に習熟し、法的議論が議会における闘争においても、いかに重要な武器となるかを理解するようになっていった。(ちなみに、私は議会だけが政治闘争にとって重要であるとは考えない。私の「革命的法創造の理論」は、実定的制度に基づかない法創造の可能性を重視するものである。)

明治以来、天皇の官僚の力が圧倒的に強く、議会が容易に政権与党に買収されたり懐柔されたりするような政治文化において、共産党が明確な反対派として存在することは、議会の存在意義を高めるのに役立ったことは確かであろう。

とはいえ、この点も、現実のスターリニスト国家を参照すれば、単にマヌーヴァにすぎないかもしれぬという疑念が残り、彼らへの十分な信頼を自由主義者や保守主義者に保証するものではなかった。したがって、そのような自由主義者は、いかに国内政治で共産党が正しい議論をしようとも、国際情勢の大局にかんがみて、それを割り引いて見たし、また実際共産党は、国内政治においても、政権に挑戦する批判的討論が自党に有利になるところでこそ、合理的議論を尊重するけれども、いったん特定の部局または地方権力部門で自党勢力が優勢となるや、強引なやり方で権力独占をはかる傾向を見せた(大学学部内の人事など)。

これが特に際立った欠点として現れるのが、党員が特定部局の意志決定に参加する際、その部局現場の議論に即して行動せず、党中央からの指令を優先して行動する場合である。かくして現場の当事者たちの意見や議論は無視されてしまう。党中央は、個々の個別的政治課題より党利を優先し、しばしば党勢拡大のために現場判断と違う指令を下した。この指令は、政治の正しい方針が理論的に演繹されるという哲学に裏付けられている。原水爆禁止運動とか、さまざまの労働運動とか、学園闘争などがそのいい例である。

しかしこのようなスターリン主義の欠点も、マルクス主義の基本前提を疑っていなかったトロツキストが免れていたわけではない。唯物論的で主知主義的な哲学に基づいた政治の中には、討議が果たすべき役割が位置付けられないからである。

かくて、スターリン主義に対するトロツキストの対決も、理論的には、聖典の解釈をめぐる神学的論争に終わるしかなかった。トロツキストは、現実政治との妥協を余儀なくされる共産党を批判するとき、訓詁学的聖典原理主義に陥る傾向があった。

闘争現場の声は、しばしばスターリン主義・反スターリン主義の区別なく上がり、指導部を乗り越える勢いも見せたが、それらをくみ取る理論的枠組みが、いずれのマルクス主義的政治にも欠けていたのである。

それは結局、言論の自律性・独立性を否定する唯物論(言論の外部に、それを決定する唯物論的基底を想定する理論)に基づく。もし、問題状況が、その言説的表現と不可分であり、言説を通して定式化されたり、歪曲されたり、粉飾されたりするものであれば、言説そのものをめぐって論争状況が生じ、矛盾の暴露や批判的言説も、外的暴力としてではなく、議論そのものに即してその闘争を展開することができる。そして、それは容易に制度そのものの欠陥を、それを擁護するイデオロギーの暴露と同時に暴き出すであろう。

それゆえまた、その論争を通じて、問題解決の試みも法的制度化へと自然につながるはずである。したがって、おのずから論争状況は法的言語によって争われ、解決は法創造という形を取るであろう。こうして、政治闘争は法創造をめぐる闘争になるはずである。

しかし、マルクス主義は、その唯物論的哲学によって、かかる法をめぐる闘いをマヌーヴァとして扱う(法に対するシニシズム)。これでは、革命闘争が敗北するのは不思議ではない。革命の成果を定着するためには、法による制度化が不可欠だからである。

法の権威を無視するマルクス主義は、かくて革命の成果を取りのがしてしまう。中国の歴代の王朝を倒した大農民一揆が、やがてより強大な軍事独裁を生み出しただけで、人民の自由につながらなかったようなものである。

Posted by easter1916 at 17:37│Comments(0)