経歴と実績
昭和 31 年 | 4 月 | 岡山県に生まれる。(4月28日) |
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昭和 38 年 | 4 月 | 備前市立片上小学校入学。その後、岡山市立富山小学校へ転校。 田舎で塾とも無縁な生活でのんびりと育つ。スポーツ少年団に入り、暇さえあれば田んぼで野球やサッカー。風邪一つひかない身体はこの頃の鍛錬のたまもの。 |
昭和 44 年 | 4 月 | 岡山大学附属中学校入学。 |
昭和 47 年 | 4 月 | 岡山県立岡山操山高等学校入学。 |
昭和 50 年 | 4 月 | 東京大学入学(文科一類)。 日本の大学生にありがちな、入ってしまえばこっちのもの。田舎から花の東京に出てきた高揚感も手伝って、合コン、合ハイ(合同ハイキングの略。今は死語)、麻雀などに明け暮れる。「我が青春に悔いあり」。もっと、英語の勉強とか、一つでもいいから本気で打ち込んだものがあったら。後悔先に立たず。 |
昭和 54 年 | 3 月 | 東京大学法学部私法学科卒業。 |
4 月 | 通商産業省(現経済産業省)入省。 反骨精神旺盛ながらも、大臣官房総務課(省全体の法律案作成や行政改革の実務責任者)、生活産業局(当時過当競争下にあったセメント産業の再編)、資源エネルギー庁(原子力発電所の安全対策)などを経験。 20 代の頃は月 200 時間の残業はザラ。でも残業手当は 2 万円でサービス残業の極致。 |
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昭和 62 - 63 年 | ハーバード大学に留学。 良くも悪くも、米国の懐の深さ、草の根民主主義を学ぶ。全米をバックパック一つで旅行も。 目からうろこが百枚落ちる。でも一年じゃ英語はうまくならない。ただ、その時のルームメイトがオバマ政権の大統領補佐官に。 |
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昭和 63 年 | 6 月 | 通産省に復帰。工業技術院で「 90 年代の科学技術ビジョン」を執筆。 |
平成 2 年 | 6 月 | 首相官邸に出向し、海部・宮沢両内閣の総理演説・国会を担当。 折しも「湾岸戦争」が起こり、内閣副参事官として、日本外交の空虚さ、危機管理能力のなさ等をイヤというほど味わう。 |
平成 4 年 | 6 月 | 通産省に復帰。経済政策の司令塔、産業政策局総務課長補佐となる。 日本経済混迷の要因が「構造的問題」にあることをはじめて指摘し、「新社会資本整備構想」を推進。 |
平成 5 年 | 9 月 | 通産省経済協力室長として、中国やベトナムなどの開発途上国の経済発展を促進。OECD(パリ本部)の国際会議にも毎月出席。 |
平成 6 年 | 6 月 | 村山内閣発足と同時に、橋本通産大臣の事務秘書官に就任。 阪神淡路大震災の復興や地下鉄サリン事件の収拾策、全世界に報道された「日米自動車交渉」などに携わる。 |
平成 8 年 | 1 月 | 橋本内閣発足と共に総理大臣秘書官(政治・行革担当)に就任。 行財政改革等の構造改革を推進。特に、大蔵改革や郵政民営化等をめぐって、族議員や官僚と激しく渡り合う。ただ、多くの仕事を通じて、与野党問わず、衆参国会議員の大多数の知己を得る。 |
平成 10 年 | 7 月 | 橋本内閣総辞職と同時に、通産省には戻らず、首相官邸(内閣官房)にて退職。 総理秘書官として、親元(通産省)のためではなく、国全体の利益のために働いたという、ささやかながらのプライド。自分なりにケジメをつける。ただ、社会人となって初めて、「無職無収入」(プータロー)の身となる。記事3 |
9 月 | ハワイに渡り、マウイ島、オアフ島を転々とする放浪生活。 500$ で買ったオンボロ車とパソコン一台で、日本人のいないところをねらって「晴泳雨読」する、まさに「何もしない贅沢」。ただ唯一、自らに「橋本政権の総括」を課し、執筆活動に専念。その成果が「誰のせいで改革を失うのか」(新潮社・ 11 年 12 月刊) |
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平成 12 年 | 6 月 | 第 42 回衆議院議員総選挙に挑戦するも次点。 |
平成 13 年 | 2 月 | セントラルユニオン教会(ハワイオワフ島)にて中谷弥生と結婚。( 2 月 17 日) 長男(龍生・りゅうき)が生まれる。( 10 月 29 日) |
4 月 | 日本環境財団理事(無給)に就任。桐蔭横浜大学法学部客員教授に就任。 これまで「統治構造論」「行政学」「社会人講座」等を担当。 |
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平成 14 年 | 10 月 | 衆議院議員に初当選(補欠選挙)。 たった一年間の議員生活だったが、政治とカネの問題に真正面から取り組む「自立した議員の会」や「マニフェスト推進議連」等を立ち上げ。イラク戦争では三度にわたり小泉首相に、その正当性を問う質問主意書を提出。 |
平成 15 年 | 11 月 | 第 43 回衆議院議員総選挙で次点。 |
平成 17 年 | 4 月 | 次男(翔紀・しょうき)生まれる。( 4 月 13 日) |
9 月 | 第 44 回衆議院議員総選挙で二回目の当選。 | |
平成 18 年 | 6 月 | 父・芳昭 没(享年78) |
平成 21 年 | 8 月 | 渡辺喜美氏らと「みんなの党」を結成。幹事長に就任。 第45回衆議院議員総選挙で 3 回目の当選。 |
平成 24 年 | 12 月 | 第46回衆議院議員総選挙で 4 回目の当選。 |
平成 25 年 | 12 月 | みんなの党 離党 「結いの党」を結成 代表に就任 |
平成 26 年 | 9月 | 「維新の党」を結成 共同代表に就任 |
湾岸戦争時代( 1990 年~ 1992 年)
通産省より首相官邸(内閣副参事官)に出向。丁度、異動の 1 ヶ月後にイラクがクウェートに侵攻。結局、「 PKO 法案」(国連の平和維持活動への協力法案)が社会党(当時)等の反対(牛歩戦術)で三日三晩の徹夜国会で成立するまでの、激動の 2 年間を見届ける。 官邸では、総理の施政方針演説の草稿づくりと国会対策を担当。国政の全般に関われる立場から、戦後初めて我が国の国際貢献のありかたが厳しく問われた現場を体験。しかし、現実には、我が国の、世界に評価されない国際貢献(中東への 90 億ドル支援)、ずさんな官邸の危機管理等を経験するばかりだった。当時の経験は貴重な反面教師となる。
産業政策局総務課長補佐時代( 1992 年~ 1993 年)
通産省に復帰。国政の中心は、「国際貢献」から「景気対策」へ。そこで「新社会資本整備構想」を提唱。従来型の「土木・建築」中心の公共事業から、より景気浮揚効果の高い「情報機器」や「医療器械」等の「設備機器」への積極投資を、政界、財政当局等に根回し。この構想は、来るべき「情報化社会」、「高齢者社会」への布石でもあった。
経済協力室長時代( 1993 年~ 1994 年)
ODA (政府開発援助)を担当する室長へ。 OECD (経済協力開発機構。本部パリ)へ日本政府の事務方を代表して出席したり、中国、ベトナム、中央アジア、東欧等の発展途上国の経済援助で世界各国を駆けずり回る。特に、中国の内陸部開発(沿海部との格差是正)を目的とした四川省ミッション(団長)、ベトナムの将来ビジョンについてのデュモイ共産党書記長(当時)との会談等。
通産大臣秘書官時代( 1994 年~ 1996 年)
世界の耳目を集めた日米自動車交渉で橋本龍太郎大臣を補佐。米国の理不尽な数値目標要求(目標年次を切った、米国車を扱う日本ディーラー数の増加や米国製部品の日本車への使用比率の向上等)を拒絶。また、橋本龍太郎氏の自民党総裁選への立候補( 1995 年 9 月)では、その政策綱領「元気を出せ!日本」をとりまとめる。
総理大臣首席秘書官時代( 1996 年~ 1998 年)
通産官僚から、通常役人は登用されない首席秘書官に。当時の内閣の最重要課題である「橋本六大改革」(財政、行政、金融、経済、社会保障、教育の諸改革)や、米軍兵士の少女暴行事件に端を発する「沖縄問題」に携わる。
特に、総理のリーダーシップ(官邸機能)の強化、中央省庁の再編(霞ヶ関改革)に中心的役割。首相官邸に「経済財政諮問会議」を創設する等、政治・民間人材を多数登用し、日本の司令塔を官僚主導から政治主導へと改革。各省庁も縦割り行政の弊害を是正し、より総合的整合的な行政にするために、約半分( 22 省庁から 12 省)に再編統合。国家公務員も 10 年間で 25% 減( 2001 年 1 月からスタート)とした。
その他、家庭内の介護の負担を地域社会で分かち合う介護保険の創設( 1999 年 4 月 1 日からスタート)、ペルー人質事件における危機管理等国政全般にわたる業務を経験。
「天下の素浪人」?時代( 1998 年~ 2002 年)
98年7月の橋本政権退陣と同時に、総理に辞表を出して役人生活にピリオド。公務員には失業保険がないので途端に無職無収入となったが、かねてから計画していた「南の島」に渡る。当初は「タヒチ」が希望だったが、長期ビザの関係と物価高で断念。結局、米国立イーストウェストセンターで客員研究員としてハワイに。そうは言っても日本人のいない所をねらって、マウイ島、オアフ島を転々と6箇所、放浪の旅。
サラリーマンあこがれの、目覚まし時計のない「何もしない贅沢」を満喫。起きたいときに起き、ビーチに寝そべり本を読み、暑くなったら泳ぐ。まさに「晴泳雨読」の生活。食事も、何もかもが完備したコンドミニアムのキッチンで自炊。接待も被接待もない健康的な生活で体重も大学時代の68㎏まで落ちる。ただ一つ自分に課した宿題が橋本政権の光と影を書き綴った本を執筆すること。それが「誰のせいで改革を失うのか」(新潮社99年12月刊)
99年9月に帰国して、なる気のまったくなかった政治家に挑戦することに。自民党の菅義偉さんから強く説得され、当時の神奈川8区(横浜市青葉区・川崎市宮前区)から2000年6月の総選挙に出馬。自らの不徳の致す所に加え、当時の森喜朗総理の「神の国発言」やら「無党派寝ておれ発言」やらで惨敗。自民党の組織選挙の限界を嫌というほど味わう。この時の経験が今の江田けんじの政治スタイル(脱業界依存、脱労組依存。しがらみのない100%ボランティア選挙)の原点。
2002年秋の衆院補欠選挙を機に自民党を離党。 2001年4月から地元の桐蔭横浜大学法学部客員教授に。昔取った杵柄で「行政学」を若い学生、社会人を相手に講義。その立場で7月からテレビに進出。最初の出演はテレビ朝日「スーパーモーニング」のコメンテーターだった。折りしも小泉政権発足で政治への国民の関心も高く、その後、「TVタックル」「朝まで生テレビ」「サンデージャポン」「情報ツゥ」等の情報番組のレギュラーに。特にワイドショーでは、国民、特に主婦の皆さんの関心が奈辺にあるかを徹底的に学ぶ。官僚出身の江田けんじに、少しでも庶民感覚があるとすれば、このワイドショーのレギュラーを8年近く務めたことが大きい。
国会議員初当選(純粋無所属)の時代( 2002 年~ 2003 年)
現職の衆院議員の横浜市長への転出に伴い、思いがけず、2002年10月に衆院補欠選挙。
大学やマスコミでの活動が軌道にのっていただけに最後まで悩むが、支援者の顔が一人一人浮かび、出馬を決意。
落選して厳しい時こそ人情がわかる。変わらず応援してくれた支援者の思いを無駄にしたくない一心で、ただ、こんど選挙をやるなら、しがらみだらけの組織選挙ではなく、本当に江田を支援してくれる人たちだけの100%ボランティア選挙で、それでだめならあきらめもつくと、自民、民主の候補を相手に戦う。
当時の政治不信、政党不信の波にものって、ダブルスコアー、トリプルスコアーで圧勝。晴れて国会議員に。
たった一年の議員生活だったが、政治とカネの問題に真正面から取り組む「自立した議員の会」や「マニフェスト推進議連」等を立ち上げ。公職選挙法の改正で、マニフェストを選挙戦中に配布できるようにする。また、イラク戦争では三度にわたり小泉首相に、その正当性を問う質問主意書を提出。「間違った戦争」であることを内外で主張するとともに、サマワへの自衛隊派遣にも反対。小泉改革も、次第に財務省主導の「予算ぶったぎり」改革というニセモノの改革であることを随所で指摘。
国会議員二回目当選(純粋無所属)の時代 ( 2005 年~ 2009 年)
2003年11月の総選挙で二度目の落選を経験。
江田の不徳、油断もあったが、直前の「民由合併」で日本にあたかも「ニ大政党制」の時代が到来したかのような騒ぎの中で「純粋無所属」は完全に埋没。それでも勝てる自信はあったが、約2000票差で民主党候補に惜敗。
ただ、幸運にも、その二年後、2005年の「郵政選挙」で二度目の当選。元々、小泉首相より早く政権の中で「郵政民営化」(97年夏の行革会議中間報告)に取り組んだ「元祖・郵政民営化」を訴える。
その後は、無所属議員は国会質問等で虐げられる中、60本以上の質問主意書を提出。年金記録の責任問題や高齢者医療制度の欠陥、天下り(押し付け型天下りをはじめて政府に認めさせる→天下り規制の法律制定へ)や道路や特別会計のムダ(埋蔵金187兆円、タクシー代125億円)、食の安全等を徹底追及。インド洋上での自衛隊給油のイラク戦争流用疑惑をはじめて指摘し、米国を巻き込んだ全国的な大論議に。これらの成果はメディアで続々報道された。
また、2008年6月には、「官僚の手の内を知り尽くしている人間だからこそ、国民のため、できることがある!」として「官僚国家日本を変える元官僚の会」(「脱藩官僚の会」)を設立。代表幹事に就任。さらに、2009年1月には、自民党を離党した渡辺喜美氏とともに、官僚政治を変える国民運動「日本の夜明け」を全国で展開。その後の、「みんなの党」結成につなげる。
国会議員三回目当選(「みんなの党」幹事長)の時代 ( 2009 年~)
2009年8月の選挙で、三回目の当選。怒濤のような民主党への流れの中で、皆さまから頂いた得票数はなんと12万8753票! 投票率が前回(郵政選挙)と変わらない中で、4万票伸ばし、当の民主党候補には5万4千票の差をつける。自民、民主の候補を相手に勝って、しかも得票率は50%。あらためて、この選挙区で政治家をさせていただいている幸せを感じる。それだけに責任も大変重い。
これからの活動に、、、
乞う、ご期待!
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