Ⅱの部屋です。
参考記事…胸躍る仏罰(説明)
長くなりましたので、別部屋を用意しました。
『トレーニングルーム』
区の体育館のトレーニングルームで筋トレをしています。体育館はしょっちゅう出入りしていたのでマシンは見慣れていますが、実際に使うは初めてです。
ランニングマシンも初走りです。戸惑いながら、おまけに強制的に走らされて、二十日ネズミのような気分に浸っています。雪の冬はとても便利なものでしょうけど、夏は外に出ないとな、などとも考えながらやっています。
元気のあり余る若者が5~6人汗を流している中、一人ノンビリやっているのも、まあおつなものでしょうか…。
計80分程の練習。結構な疲れも汗も出て、シャワーの後の軽い疲労感の気持ちのいい時間を過ごすのが、この頃の日課になっています。
創価学会の様々な想いを綴っています。
気を付けていることは、「現実の活動」を理論付けて、そこから再度現実に応用出来る話を書こうと努めていることです。普通はアンチ系のような「理論の為の理論」がほとんどです。まあ、そういうのも面白いにしても、「現実無視」のお話は個人的な趣味には合いません。で、かなり泥臭い話も出てきますけど、どこまで行っても「現実」を中心にした話を書こうと努めています。
これを読んで、若し、創価学会に対する偏見が少しでも薄まることが出来れば、嬉しい限りです。
「…(学会員の)家庭内の不和や離婚、経済状況の破綻も見てきました」
と得意げにアンコウさんは話されます。
学会に関してかなりの「知識」と「経験」がある様な話しぶりです。となると上記の「話」は、貴方が自分の目と耳と体で「実際に見て経験」された話だと、解釈します。では、何人程の学会員のその「不幸」を,貴方は実際に見られたのでしょうか?
とても大事な話ですし、また個人的にも気になる事ですので、お答え願えますでしょうか…。
いいですよ。
近所や業務上もそういうケースを見ることが多いです。
A)近所関係(徒歩5分圏内)
1、親の土地に新築後、ローンが支払えず離婚。土地建物は売却。旦那は鬱を発病して生活保護、年金暮らしの父と賃貸で暮らしています。
一家は昭和40年代からか、熱心な創価学会で有名な人です。ちなみに旦那は私の一つ下の後輩です。
2、これも一家は昔からの創価学会一家です。次男が社会人になってから、幼児の女の子に性的なイタズラをして逮捕されました。周囲からお付き合いがなくなり、家業の電気屋は全く売れず、家はボロボロで傾いているため消防署から注意があり解体し、今はどこかに引っ越していきました。その次男は私と同級生です。
3、もうひとつ近所にあります。やはり同級生ですが、創価学会の女性と結婚して、直後に会社が倒産。公明党の世話じゃないかと噂で聞きましたが、役所の清掃課に入って職を得たらしいのですが、夫婦のゲンカは近所で有名です。近所のパチンコ屋で旦那は遊んでいるのを何度か目撃しました。
B)仕事関係
立退き強制執行ってご存じでしょうか。裁判所が強制的に立ち退かない人を追い出すことです。この強制執行をみる件数はあまり多くないのですが、5割がた創価学会です。だから非常に多い。
なぜ創価学会だと分かるか。残していった荷物で分かります。
大量の創価学会と池田大作の著作と、前日の聖教新聞を置いていきます。小説人間革命、仏教辞典、その他、どこも置いてある本は全く同じだと思うのですが、書棚や押し入れから無数に出てきます。
また特徴としては学会関連以外の書籍はほどんどない。学会から買わされているだけで、読書好きだというわけじゃないということでしょう。
そうして明らかに創価学会だと分かった件数としてはこれまで3件くらいです。
実際は荷物がないケースもありますから、もっと多いのかもしれません。
なぜ創価学会が多いのか、お金がなく引越し費用もないのに、前日まで聖教新聞を購読していることから、いろいろ想像してみてください。
私にはそれも不思議な現象ですから、専門であるmonlingenに聞きたいくらいです。
失礼。敬称が抜けてました。
「monlingenさん」に訂正させてください。
気にしませんよ。
3件の「事実」を「実際」に見て,そして学会への評価の資料とされているというお話、了解しました。「何度か見た」と言うアンコウさんのお話ですが、その意味をもっともっと深く考えて欲しいと思い,以下の実例を記します。
1,35年程のお付き合いの学会幹部の夫婦がおられます。何かあると所謂「幹部指導」と銘打って遊びに行く、そんな間柄の仲です。彼等は夫婦で「聖教新聞配達の店主」をされていました。(現時点では円満退職)
15年程前に奥さんが、突然「統合失調症」(旧称・精神分裂病)にかかりました。
いつも見ていた奥さんの、元気一杯の笑顔や声がなくなりました。小学校の教師をされていた彼女は、とても頭の回転の早い,頭の良い人でした。でも病気になっている間、お宅に遊びに行っても、彼女は私たちのことも完全に忘れ去っている感じでした。目が完全に死んだ状態なのです。
その間店主(旦那さん)は一人黙々と配達を続けていました。私も配達は10年程した経験があるので、その厳しさはよく分かります。それでも彼は明るく元気な人でした。
先日久し振りにお宅にお邪魔しました。何と、彼女は完全に完治していました。正直驚きましたね。こんな重症な病気が完治するとは…。
「学会員が負けちゃ決して駄目だと,そう思ったんですよ…。信心でここから(自分のこんな状態から)抜け出さないと,そう決心して…」
彼女がその時に話した言葉が、話し方は静かですが、とても強烈に心に残りました。
2,義母から聞いた話です。
嫁姑の関係の,よくあるゴタゴタですが、彼女は姑から虐めに近い状態にまでなったそうです。義母は「もう嫌だ!家を出て行く!!」とまで追い込まれました。そして最後の望みとして幹部指導(学会の幹部に話を聞いて貰うこと。そして解決策を見つけようとする行動)受けました。
幹部に話されたことは
「それは貴女(義母)が悪い。貴女はお姑(しゅうと)さんに対して本当の優しさを持っていないからです。本気の本気でお義母さんに愛情を振り向けるべきです」
と。
本来であれば、逆に義母(お祖母さん)が悪いと言う話になりそうですが、学会では「悩む本人」の問題だという答えが返ってきます。(この事に反発して退転が起こります)
義母は悩みながらも必死で題目をあげました。それこそ必死です。
ある日、御本尊の前に座り,いつもの通りに唱題を続けていると、ふと義母のことが本当に心の底から心配になっていました。文字通り突然です…。
唱題を終えて仏間を出るとそこに祖母がいました。そしてこう話すのです。
「〇〇(私の義母)さん、ゴメンね。今迄辛く当たって…」
義母は祖母に対しては何も話していませんでしたし、何もしていなかったのですが、突然こういう和解が成り立ったのです。
不思議な現象です…。
3,妻の話です。
体が弱かったので,しょっちゅう病気をしていました。
若い時に彼女は、聖教新聞配達をしてみないかという話に乗ってしまいました。
初めは大変でした。確か何回か辛くて休んだ記憶もあります。そんな時は私も仕事時間が結構自由だったので、代わりに配達をしました。
計十数年間配達員をしました。
今彼女は週2~3程レディス専門のトレーニングルームに通っています。あんなに弱かった体でしたが、今は普通の人の何割増しかの頑強さを持って、そして私を虐めているのです…(‘-‘*)
取り敢えず3人の体験を書きました。これらの出来事(最終結果)は、学会では特に異例の出来事ではなく,普通のよくある(統合失調症は若干の特別さはありますが)信心上の「結果」と言えます。
アンコウさんは3つの「見た」と言う症例を出して、そしてそれを元に学会への評価をします。では、上述の学会の「数十年間の事実の観察」を見てどう思われますか?どちらの「見た」に現実性と確実性を持ちますか…。
統合失調症の話では、奥さんの「途中の状態だけ」を観察すると、「学会員のくせに」「学会の信心をやっててこれじゃぁね…」という判断を下しそうです。でも、信心(学会)の「本当の結果」(本当の現実)は「途中を垣間見ただけ」では決して理解も評価も出来ないのです。信心を貫き通した後での彼女の「結果」を見ないと、全く何も結論は出ません。
嫁姑の問題もよくある話です。苦労している状態「だけ」を見れば,学会員はやっぱり苦労が絶えない…、と言う評価になりますが、さて本当の結果は…?
妻の話です。評価を下すには、数十年の歳月が必要です。夫婦の問題はそれだけの年数が必要なのです。…知っていました?
アンコウさんの話される「鬱の発病、生活保護」「何処かに引っ越し」「夫婦げんかの絶えないパチンコ通い」…それぞれ悲惨なんでしょう。でも、貴方はそれらの方々の最後の最後まで見続けている訳はありません。今現在の、彼等の人生の一瞬を「覗き見て」いるだけです。その一瞬の現実を傍観して、それで学会員の評価を決定付けることは,余りにも時期尚早ではないですか?
下に貴方の知らない学会での究極の話をします。
「その人間の評価は、彼(彼女)の最晩年を見ないと何も理解出来ない」
「信心をしている人は、最後の数年間で幸せの絶頂になるのだ。それまでどんなに苦労したとしても気にすべきではない」(それぞれ要旨)
これは創価学会第二代会長の言われた有名な言葉です。また、池田先生も言葉を換えながら同趣旨の話をされています。
この話は「誤魔化し」ではありません。
学会員は、「途中経過」も勿論それなりに大事に考えていますが、問題の本質は「最後の最後の人生がどうであるか」と言う事を究極に考えながら信心をしているのです。この事を理解出来るとは思いませんが、「そうかもしれない」と言う感覚は持ってほしいものだと,希望的観測でそう思っています。
人間の生活のほんの一時(「何度か目撃」と言う事)眺めただけで、彼(彼女)全ての人生が判る訳はありません。「一瞥(いちべつ)しただけで他人の人生全てが判るんだ!」と強弁する人って、どんな超能力を持っている人なのでしょうか……?
まあ、それは誤解がありますね。
何十年も同じところに住んでいて近所とお付き合いがあるのですから。
住んでいる所はそういう地域です。
変化をみて、不幸に落ちていくのか、幸せになっていっているのか、どちらの方向を向いて努力しているのかが重要ですね。
その方向を決めるのは自己責任で自分でしょう。
宗教には潜在的にその部分を教団の教えに移譲してしまっています。
だから怖い。
世の中には、お金がどんどん貯まるサイフがあります。
雑誌の裏表紙に広告が載っていました。今もあるのかどうか、昔ありました。
載っている2、3の体験者の声は本当かもしれない。
しかし、雑誌の広告は貯まらなかった人の体験談は載せる必要がないから載せない実情がある。
宗教のご利益の体験もそういうものでしょう。
幸福になった人の話は宣伝しますが、不幸になった人の話は無かったことにする。
その体験談を聞いて、周囲は皆幸福になっていると勘違いする人が自分も成りたいとサイフを買う。
つまりギャンブルとか投資とかの感情と同じです。
自分だけに何か特別に有利な手があると思っているのなら危険です。
判断が甘い。入れ込んで熱くなってみればいい。生活が破綻していきます。
了解しました。
学会員が不幸の底に落ちていくんだという貴方の主張は、変更する積もりは一切ないようですね。それはそれで個人の感想ですので、これ以上この話を進める事は無意味のようです。
後気になることが、貴方は「学会の目標」の話をしていました。
貴方の考える学会の目標とは,一体どういうものだと主張されますか?また、その理由も聞かせて頂くと有難いですね。
私の個人的感想というより、会員と一般人の創価学会に対する評価の違いは全く正反対だということです。
創価学会の信仰にご利益があるかないか。
一般人からみれば不思議な論争で、周囲の会員を見てきて無いと判断できるから、かかわらないわけです。
もし明らかなご利益があるのなら、もう日本国中がやってますよ。
情報化の社会ですから良いものはすぐに普及していくのが常です。
更に言えば、創価学会の人の非常識な行動はいい加減にして欲しいということです。
つきまとい、いやがらせ。どんなにやっていないと嘘を言っても近所は皆みています。
創価学会の目的は何なのか。
これについてはあるがままに評価すればいい。
主張していることとやっていることが矛盾しているのが創価学会のひとつの特徴ですから。
戦後から現在に至るまで、団体の財を蓄え、政治や司法にも進出して、ありえないほどの大量の名誉称号を取得している。
金・権力・名誉を俗物よりも俗物的に一直線に欲しがる団体でしょう。
戦後から、何かしら社会貢献を続けてきたのであれば、それはもう大きな成果になっていると思います。
明らかな社会貢献や人々を救ったという実績があるのなら信用されたと思いますが、
多くの一般人が嫌っているのは宗教団体を名乗るのだからどこかに奥ゆかしさがあってもいいじゃないかと思えるほど、露骨に信者を利用して蓄えてきたものがそれだからです。
その証拠に創価学会の会員の修行は、機関紙の販売と、党の票集めと、寄付でしょう。
紛れもない事実だと思いますけど。
了解しました。
貴方の学会に対する感想はよく理解出来ました。とても参考になりました。
ありがとうございます。
で、最初の話の、「宗教に対するご質問」には,まだ興味がありますか?なければ終了しますが…。
迷惑なようですね。これで退散します。
絶対に正しい宗教に対して信仰を維持するには、数々の矛盾を内面的に解決しなければならない。
現実は汚い世界ですから、強引なこじつけと思えることや根拠のない理由を常に考えだし正当化する行為が必要になります。
そういう行為は信仰を持たない人達にとっては、非論理的で説得力を持たない言に聞こえるのですが、信仰者同士では求めている疑問に対する理由付けを得て、信仰を維持する助けを得て安心できるわけです。
創価学会は常に現実の矛盾に対する言い訳を考える行為が必要なのでしょう。
このサイトはその役割を担っているのだろうと感じはじめました。
また私の発言が信仰者を傷つけてしまうのはそういうメカニズムなのかと気付いた次第です。
数百年もすれば現代人の考えのほとんどは間違いとなり否定されるものものでしょう。
宗教の歴史もそうだし、科学の歴史も、生物もそうです。
変化を繰り返しながら進化していく。
だから進化というのは何かを捨て、何か新しい機能を得るもので、生物はそうしてきた。
より高度なものを得るために勇気をもって固執しているものを捨て去ることが、常々当然だと私は考えているので判断が遅れてしまいました。
また機会がありましたらコメントします。
お付き合いいただき、ありがとうございます。