ニセ法主 阿部日顕の萌芽
拙のHNは阿部日ケ~ン(院政)である。
日顕宗破折をしているのに、なぜこんなHNにしているのかよく聞かれるが
もともと学会系公開掲示板上で邪見を披露しにやってくる“電網法華講員”ら
と対峙する時に、池田先生のHNをもじって揶揄するものが多かったので、
それに習ってみたのが最初で、10年以上にもなるだろうか。
このHNに変更してから、学会員さんからもHNについて苦言を言われるケース
がまれにあるのだが、それほどまでに隠尊日顕は学会員さんからも疎まれ
続けていることが伺える。
なぜ日顕がこれほどまでに学会員さんから疎まれるかというと、感情的に
ならざるを得ないいくつかの要因があげられるだろうが、拙が一番感じるのは
堕落した聖職者にありがちな「二面性」をもっていたことだ。
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第一次宗門問題が元弁護士の山崎正友や教学部長であった原島らの
暗躍によって後に「正信会」と名乗りをあげる日達派の宗内僧侶派閥らが
学会バッシングを実行していたことに端を発していたことは小説、新人間革命
にも描かれていたことを思い返していただきたい。
第一次宗門問題当時の存命であった日達法主が創価学会と、「正信会」を
名乗った坊主共らとの悶着をなんとか収めることに成功したのだが、日達法主が
急死し新法主となった阿部日顕も先師の学会との和解路線を引き継いだかの
ようにみえていた。
達師逝去を良いことに坊主共らは宗会選挙で多数派工作をとったうえで合法的
に発言権を得る事に成功すると1980年(昭和55年)に正信会を立ち上げ日顕
執行部に対して公然と批判を始めた。
同年首謀者数名が宗門から擯斥処分(僧侶の資格を剥奪したうえで退けること)を
されると彼等に追従する200名を超える坊主らが1982年(昭和57年)までに同様の
擯斥処分となった。
小説新・人間革命では簡潔に
と正信会僧らの顛末が取り上げられていた。
当時ほとんどの学会員さんたちは大石寺宗門執行部が先師の僧俗和合の願いを
引き継いで学会バッシングを止めない正信会僧らを斬ることで創価学会を護って
くれたように見えていたのである。
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「元バリ活の」という枕言葉をつければ発言の信用性が増すと安易に考えがち
な学会アンチ系ブログのある記事によると、この事実のみを指して
などと論じているが浅はかだ。
日顕が創価学会擁護派だと断定するには疑わしい人格であったことが、
本日付(2018年4月6日)の聖教新聞誌上に掲載された小説 新・人間革命に
かかれている。
おそらく明日(7日)の新・人間革命でも「本山呼び出し事件」の実情が更に詳しく
発表されるとおもわれるが、関西の学会員さんなら耳にしたことがあるであろうし、
秋谷会長(当時)が回想として聖教新聞誌上で公表されているのを目にされた方も
多いだろう。今、詳細はここでは書かない。
ポイントは阿部日顕自身が「関西平和文化祭」に参加しており、数日たってから
わざわざ会長らを「本山に呼び出し」したことである。
関西青年平和文化際は1982年(昭和57年)の3月のことなので、ちょうど
日顕ら宗門がマスコミからも叩かれ正信会問題で揺れに揺れていた時だ。
このような背景もあって、護ってやったはずの創価学会に対して些細な言いがかり
を付けて信徒と聖職者の「上下関係」を明確にアピールしておきたかったのでは
なかろうか。
ようするに相手を恫喝して機先を取る日顕法主(当時)お得意の「カマシ」である。
元バリ活氏のいう「日顕さんは(当時は)学会擁護派だった」というのは眉唾もの
であることが理解いただけるだろう。
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ただし、関西青年平和文化際が行われた昭和57年当時、阿部日顕の
「本山呼び出し事件」については、多くの学会員さんらが知る由もなかった。
現在は学会のトピックスはインターネットや、各会館、地区にあるSTBを通じて
動画を視聴できるが、この頃は8mmビデオ映写機を持った担当の方がで座談会
会場をまわってフィルム上映をされていた。
関西青年平和文化祭も、8mm映写機でご覧になられた学会員さんも多いだろう。
阿部日顕法主と池田先生が長居陸上競技場で並ばれ談笑されている所が写って
いたことを覚えている。
池田先生の全国指導が再開されたこともあって、青年平和文化祭の映像をみて
“創宗問題の雪解け”を実感されたかたもおられたのではなかろうか。
だが実際には、阿部日顕はこの頃から創価学会に対しウラで「圧力」をかけてきて
いたのだ。
今国会では、国会議員や関係省庁が一部学校でおこなわれた講演内容について
問い合わせをしたというだけで大騒ぎだが、創価学会においては法主自らが会長
らを静岡の本山に呼び出し、面前で直に内容について細かく批判をするという形で
圧力をかけていたのである。
法主という宗派を束ねる立場になった人物の“真の人格”に一般の学会員さんが
気づくのはこれよりずっと後のことになるが、表とウラのある二面性ニセ法主の萌芽
は昭和57年からだったといっても過言ではないだろう。
実際にはもっと早から阿部日顕は創価学会を疎んでいたのかもしれない。
日顕宗破折をしているのに、なぜこんなHNにしているのかよく聞かれるが
もともと学会系公開掲示板上で邪見を披露しにやってくる“電網法華講員”ら
と対峙する時に、池田先生のHNをもじって揶揄するものが多かったので、
それに習ってみたのが最初で、10年以上にもなるだろうか。
このHNに変更してから、学会員さんからもHNについて苦言を言われるケース
がまれにあるのだが、それほどまでに隠尊日顕は学会員さんからも疎まれ
続けていることが伺える。
なぜ日顕がこれほどまでに学会員さんから疎まれるかというと、感情的に
ならざるを得ないいくつかの要因があげられるだろうが、拙が一番感じるのは
堕落した聖職者にありがちな「二面性」をもっていたことだ。
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第一次宗門問題が元弁護士の山崎正友や教学部長であった原島らの
暗躍によって後に「正信会」と名乗りをあげる日達派の宗内僧侶派閥らが
学会バッシングを実行していたことに端を発していたことは小説、新人間革命
にも描かれていたことを思い返していただきたい。
第一次宗門問題当時の存命であった日達法主が創価学会と、「正信会」を
名乗った坊主共らとの悶着をなんとか収めることに成功したのだが、日達法主が
急死し新法主となった阿部日顕も先師の学会との和解路線を引き継いだかの
ようにみえていた。
達師逝去を良いことに坊主共らは宗会選挙で多数派工作をとったうえで合法的
に発言権を得る事に成功すると1980年(昭和55年)に正信会を立ち上げ日顕
執行部に対して公然と批判を始めた。
同年首謀者数名が宗門から擯斥処分(僧侶の資格を剥奪したうえで退けること)を
されると彼等に追従する200名を超える坊主らが1982年(昭和57年)までに同様の
擯斥処分となった。
小説新・人間革命では簡潔に
『一方、前年九月に、「宗内の秩序を乱した」として、約二百人が処分された正信会は、
さらに宗門批判を強めていった。そして、この八一年一月、彼らは日顕と宗門を相手取
って裁判所に提訴するなど、対決は激化し、ますます熾烈な争いとなっていった。』
(勝ち鬨 6 2017/12/13付 聖教新聞)
と正信会僧らの顛末が取り上げられていた。
当時ほとんどの学会員さんたちは大石寺宗門執行部が先師の僧俗和合の願いを
引き継いで学会バッシングを止めない正信会僧らを斬ることで創価学会を護って
くれたように見えていたのである。
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「元バリ活の」という枕言葉をつければ発言の信用性が増すと安易に考えがち
な学会アンチ系ブログのある記事によると、この事実のみを指して
“阿部日顕さんは本来学会の 擁護派の人だったんです。
(略)
そして阿部日顕氏も創価学会との対立を避け、融和を図ろうとしたというのが
歴史的な事実・・・”(創価学会非活のブログより抜粋)
などと論じているが浅はかだ。
日顕が創価学会擁護派だと断定するには疑わしい人格であったことが、
本日付(2018年4月6日)の聖教新聞誌上に掲載された小説 新・人間革命に
かかれている。
おそらく明日(7日)の新・人間革命でも「本山呼び出し事件」の実情が更に詳しく
発表されるとおもわれるが、関西の学会員さんなら耳にしたことがあるであろうし、
秋谷会長(当時)が回想として聖教新聞誌上で公表されているのを目にされた方も
多いだろう。今、詳細はここでは書かない。
ポイントは阿部日顕自身が「関西平和文化祭」に参加しており、数日たってから
わざわざ会長らを「本山に呼び出し」したことである。
関西青年平和文化際は1982年(昭和57年)の3月のことなので、ちょうど
日顕ら宗門がマスコミからも叩かれ正信会問題で揺れに揺れていた時だ。
このような背景もあって、護ってやったはずの創価学会に対して些細な言いがかり
を付けて信徒と聖職者の「上下関係」を明確にアピールしておきたかったのでは
なかろうか。
ようするに相手を恫喝して機先を取る日顕法主(当時)お得意の「カマシ」である。
元バリ活氏のいう「日顕さんは(当時は)学会擁護派だった」というのは眉唾もの
であることが理解いただけるだろう。
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ただし、関西青年平和文化際が行われた昭和57年当時、阿部日顕の
「本山呼び出し事件」については、多くの学会員さんらが知る由もなかった。
現在は学会のトピックスはインターネットや、各会館、地区にあるSTBを通じて
動画を視聴できるが、この頃は8mmビデオ映写機を持った担当の方がで座談会
会場をまわってフィルム上映をされていた。
関西青年平和文化祭も、8mm映写機でご覧になられた学会員さんも多いだろう。
阿部日顕法主と池田先生が長居陸上競技場で並ばれ談笑されている所が写って
いたことを覚えている。
池田先生の全国指導が再開されたこともあって、青年平和文化祭の映像をみて
“創宗問題の雪解け”を実感されたかたもおられたのではなかろうか。
だが実際には、阿部日顕はこの頃から創価学会に対しウラで「圧力」をかけてきて
いたのだ。
今国会では、国会議員や関係省庁が一部学校でおこなわれた講演内容について
問い合わせをしたというだけで大騒ぎだが、創価学会においては法主自らが会長
らを静岡の本山に呼び出し、面前で直に内容について細かく批判をするという形で
圧力をかけていたのである。
法主という宗派を束ねる立場になった人物の“真の人格”に一般の学会員さんが
気づくのはこれよりずっと後のことになるが、表とウラのある二面性ニセ法主の萌芽
は昭和57年からだったといっても過言ではないだろう。
実際にはもっと早から阿部日顕は創価学会を疎んでいたのかもしれない。