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「LGBTが気持ち悪い」だから何だろう? 「ポリコレ棒で殴られる」だから何だろう?

朝日新聞「withnews」のある記事が一部から批判を受けている。

withnews.jp

朝日新聞、原田朱美記者による連載「LGBTのテンプレ考」のいち記事だ。
連載はアンケート調査による結果を踏まえながら、「LGBT」における「テンプレ」と化したイメージ、当事者、非当事者を含めた人々の偏見を探るといったもの。
特徴は、調査による生の声を数多く寄せていることだ。第一印象としてイラストを使ったポップさや判りやすさ、ポイントをまとめた記事INDEX、的を絞って短く終える文章といった可読性、一種の「読みやすさ」「受け止め易さ」が目を引く。
つまり「LGBTに抵抗がある人」も「興味が持てる」「抵抗なく読める」工夫がしてあるわけだ。
そのかいあってか、回を重ねて概ね好評で、件の記事も評価する意見が目立つ。

しかし、一方で、今回ばかりはLGBTに関心のある者たちが記事に厳しい意見を投じている。

テンプレ化するLGBTブームに一石を投じた

「ブーム」「社会現象」となった日本のLGBTムーブメントだが、自治体や企業とタイアップした「LGBTトイレ」「LGBT市場」ある種の「講師・コンサルタント業」などは当事者不在で邁進する様相を呈しており、実際の当事者の姿、ニーズからかけ離れたものとして当事者自身から批判されることも目立つようになった。
AERAが「大特集・LGBTブームの嘘」と銘打って特集を打ったのはちょうど一昨年前の今頃だ(AERA 6月12日号 朝日新聞出版)。
「テンプレ考」はメディアやコマーシャリズムによって先行する「LGBTのイメージ」に一石を投じるものだったはずと思われる。
実際、同シリーズは、アンケート調査からLGBTに付き纏う偏見を可視化する上で必要最低限の知識となる当事者の意見を度々引き出すことに成功している。
例えば「「ゲイ=女装おネエ」じゃない! 世間が知らない二重のテンプレとは」では、「『ゲイ=女装おネエ』ではない」「ほとんどのゲイはおネエ言葉を使わない」とゲイ当事者が語り、同時に「ガチムチ」「マッチョ」などゲイコミュニティにおける「テンプレ」にも言及する。
他にも「ゲイにはゲイの、トランスジェンダーにはトランスジェンダーの悩みがあり、「LGBTの悩み」とまとめてしまうことで誤解されてしまう」(LGBTが嫌いなセクマイ 「勝手に代表しないで」活動家嫌いの本音)とか、「仲間はずれ、寂しい 「LGBT=性的少数者」で見えなくなる人々」では、「メディアが『LGBT=性的少数者』としてしまうのは、LGBT以外にセクシュアルマイノリティがいないかのような誤解を広めてしまいます」とXジェンダー当事者が打ち明ける。
バイセクシュアル」をテーマにした「 味方がいない!バイセクシュアルの孤独 セクマイからも「ウソつき」」では『800人から回答がありましたが、「バイセクシュアルのイメージ」を聞いた質問』に『約5割が無回答』(無回答!答えられないのである)だったという当事者も注目せざるを得ない現実を明らかにしている。

「テンプレ考」は、言い換えると一種のホモノーマティヴィティ批判だと言える。もちろん、厳密には例えばゲイやトランスジェンダーのステレオタイプ批判とホモノーマティヴィティ批判は違うのだが、記者が拾い続けた当事者たちの声は、LGBTを差別する世間よりも、むしろ「LGBTムーブメントやコミュニティへ向けられている」。それはLGBTLGBT当事者自身を規定する、コミュニティが参加者を規定する、その規範性への違和感だと考えることも出来る。簡単に言えば、いわく「LGBT」の枠にはめられたくないとか、いわくキラキラしたサクセスストーリーに登場する理想的なビアンやゲイばかりがそうでないとか、いわくゲイコミュニティのテンプレとか、マイノリティの中のマジョリティの構図やカースト社会といったものへの生々しい抵抗だ。
しかし、ここ日本では「隣の家族は青く見える」でゲイとしてはようやくノーマルな人たちが描かれ絶賛されるわけだから、当たり前のようにゲイ・ビアンがドラマに登場したり、ナショナリズムネオリベラリズムと合流するゲイ・ポリティクスが問題提起される欧州や欧米とは事情がまるで違う。ゲイ当事者によるホモノーマティヴへの批判の兆候はあるものの今後のことだろう。発達してない上に、「LGBT」は当事者ムーブメントというより、ビジネス・イノベーションとして普及してしまった(から発達しないのか)。

第8回目「 「理解されることは、あきらめている」あるゲイ男性の静かな絶望」は、その「捻じれ」がよく表れたものになった。
ここでは「覚めた当事者」が登場し「当事者のなかで、『じゃあ闘ってやろう』という人は、少ないと思いますよ。僕は周囲には比較的オープンにしている方ですけど、穏やかな差別をしてくる人はずっといるし」とシニカルな絶望感が描かれている。
一見、LGBTの規範性への違和感のようであるが、しかし実際、彼とLGBTの活動家が望んでいることに大きな矛盾があるだろうか。

「僕のアイデンティティのすべてを『ゲイであること』が覆ってしまうのは嫌です。自分を構成する要素はもっとたくさんあるのに」

シリーズを通じてやや悪者扱いを受けている「活動家」だが、およそ個人としての活動家の姿は、彼とそれほど遠くないのではないか。

そしてLGBTの規範性が可視化されるどころか、むしろ「異性愛規範性」(ヘテロノーマティヴィティ)を内面化した、言うなら「ヘテロ的に普通」であろうとする「アンビバレントなものを抱えるゲイ」たちが語られるのである。

「僕はまだ、これくらいで止まっていますけど、絶望が進化した人は、ゲイを嫌いはじめるんですよ。自分がゲイであることを棚に上げて、2丁目に出入りする人とかを、まるで自分が一般人であるようなスタンスで『嫌いだ』と。本当は同性愛者だから、ゲイコミュニティに行きたいのに、心をつぶされすぎて、ゲイに冷たい視線を送る。そういうアンビバレントなものを抱えるゲイに何人も会ったことがあります」

「絶望」すべきは「人々に理解されない」ことではないだろう。記事を読み終えた私が感じた「絶望感」は、「ブーム」と呼ばれるまでになった今の段階においてすらも、運動のコンセンサスを誰も全く共有出来てないかもしれないということだ。

何のための「テンプレ考察」だったのか?

当事者の生を声を掲載し、ブームに一石を投じていたシリーズだったが、第8回目「理解されることは、あきらめている」、批判が集まった第9回目「 LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」」は、「テンプレ考」と言うより、「当事者を傷つける言葉」をあっさり載せてしまっている点で、これまでのチャプターと「異質」に感じられる。
異性愛規範を内面化した当事者の言葉が、当事者を傷つけるのは至極当然だし、わざわざそれを当事者に語らせてしまっている。批判が集まった第9回では何が問題だったろうか。

「理解不能。気持ち悪い」「LGBTの人は非寛容で被害者意識が強い」「だって自分と同じ体をしているんだよ? それで興奮するの?」

いわゆる「カジュアルな差別」とか「マイクロアグレッション」と呼ばれて、当事者が職場や学校で体験するまさにそれの「再現」を行っている(それが「問題」なので、そもそも「LGBT」があるのだが…)。

初めから驚くべき記述もある。

セクシュアルマイノリティの当事者が、メディアに出て苦悩を語ることが増えました。でも、逆はあまり聞きません」

これは「あり得ない」話である。当事者がメディアに出て語ることが増えたものの、その逆というのは、それ以外の全てのニュースが、物語が、娯楽コンテンツが、法令が、学校の規則が、当事者にしてみれば全て「逆」なのだから。どうしてそれで「逆の話はあまり聞かない」ということになるのか。

続いて、都内の会社に勤める、いかにも「普通の男性」が登場する。
「しかめっ面をした、怖そうな人」でもなければ「人の話を聞かず、持論を一方的に話し続ける人」でも「斜に構えた、皮肉屋」でもない「人なつっこい笑顔」の「スーツ姿のBさん」だ。

Bさんはある時出会ったゲイについて「まったくもって普通の人でした。何も知らずに同僚として働いていたら、(ゲイだとは)気付かないでしょうね。いや、ステレオタイプの刷り込みって、あるんですね」と自分の偏見に気付き、「同性パートナーだと保険金の受取人になれない」ことに「驚き」、「そんな不都合は、すぐ解消してあげたらいい」と理解を示すも、「『うち実家の花畑はキレイだなあ』と思っていたら、いきなり戦闘ヘリが飛んできて機銃掃射で荒らされる、みたいな気持ちになる」と心象を語る。きっと穏やかな顔をして。

それは素朴な本心であり、である以上悪意はなく、だから当事者は彼の気持ちを傷つけないよう「優しく」「気遣って」主張しなければいけないだろう。彼のようなマジョリティを味方に付けないとLGBTの理解は促進されないのである。
しかし、ここには、差別を指摘されても、無反省でいようとする典型的なマジョリティの姿が露呈している。
そして彼は言うのだ「僕の方が社会的に葬られる」と。

こうなると「テンプレ考察」は一体何のために行われていたのか疑問に感じざるを得ない。もちろん、差別を訴える側の声に対して、それを指摘される側の声も収録したいのは判るが、そもそも論で世の中に明らかな非対称性が歴然とあるにも関わらず、両者賛否を載せることの意味はなんだろうか
LGBT」の主張が人によって無理筋で過激なものに感じられることは理解出来る。当事者においてすら意見が分かれる運動もある。そして差別する人は一般通念から言って常に「悪い人」とは限らないのである。むしろ大抵は良識のある隣人、信頼していた知人によって行われる。それだけに当事者の絶望感は深く、些細な事で一方は自死に至る現実があり、一方は「ポリコレ棒が怖い」のだと言う。それでも相手を思いやって、優しく主張してくれという要求がいかに非人道的であり、残酷なことか想像力を逞しくして欲しい。

その上で第9回に批判が集中した原因を探れば、おそらく「差別の問題」を人の「好き嫌い」や「忖度」、「感情」の問題としてポリシングしてしまっていることではないかと考えられる。
差別を訴える声に対して「そんな言い方をしたら人がびっくりするし、傷つくからダメよ?」という「取り締まり」である
「平等に扱う」ということは「忖度しろ」ということではないし、「理解してくれ」というのは「好きになってくれ」ということではない。
LGBTは気持ち悪い」だから何だろう? 「ポリコレ棒で叩かれるのが怖い」だから何だろう!?
「テンプレ考察」はもとより、はっきり言って「差別の問題」からも「LGBTの問題」からも完全に逸脱してしまっているのではないか。
というか、記事自体がよく有りがちな「差別の言説」になってしまっているのではないだろうか。

「理解して欲しい(好きになって欲しい)」が問題ではなくて、「何が差別なのか理解出来ない」ことが問題である。
「Bさんと会って、話して、よかったな」と記者は結んでいるが、一体、何が「よかった」のか。こんなことはLGBT当事者も、アンチLGBTな当事者ですらも、少なくない者たちが「日常的によく体験していること」ではないだろうか。
シリーズは最終回を迎えようとしている。

当事者の声を拾い続けて来た記者が、しまいには当事者の声を「取り締まる」「規制する」ポリスになってしまったのはなぜなのか、これは皮肉な結末である。
当初の目論見は成功していたと思う。記者に自身の仕事を今一度振り返る機会が欲しい。「警察」ではなく、「記者」に戻って欲しい。

自分がやりたかったことは何だったのか、もう一度考えて欲しい。

 

おまけ ん? なんかヘン?

なんとなく気になるので、少し触れておく。

テレビでよく見る「おネエ」はLGBTのどれ?

「おネエ・タレント」は、しばしばLGBTに該当するが、必ずそうではない。「おネエ」属性と「LGBT」属性はジャンル・レイヤーが異なるものだと考えるのが妥当。例えば「女装はLGBTのどこに入るの?」でもいいのだが、「女装」は「女装」であって、誰でも出来る(※別に「おネエ」をFtMがやっても全く問題ないのである。実際に夜の社交場では「おネエ」化したFtMが見れる。ちなみにオネエ化したFtMはオカマなのか何なのかよく判らない存在となり、もの凄く面白い。はっきり言って「おネエ」なんて「誰でもいい」のダ)。これは「監修者」にも問題があるが、「問い」の前提がとてもおかしい。せいぜい「もとは何だった?」ということだろう。(【イラスト解説】テレビでよく見る「おネエ」はLGBTのどれ?)

セクシュアルマイノリティはこの4タイプだけではありませんが、数が多いのがこの4タイプ」

「数が多いのがこの4タイプ」?特にこの「4タイプ」という記述は頻出するのだが。TはLBGにカブってるし…私は意味が判らない。他のマイノリティもLBGにカブるだろう(性指向性は色々。ただ他のマイノリティが性指向性をいつもアイデンティティファイするとは限らないだけ)。「LGBT」といっても総称出来ない、はっきり4タイプに分けられないし、当の当人たちがそもそもそれで困ってるわけで、だからこそLGBTのテンプレ批判なんかもあり得るのだが。(今さら聞けない!「LGBTLBTってどんな人?」 イメージと差)

LとGとBとTはずっと別コミュニティでした。あまり協力もしてこなかったし。海外がセクマイの連帯のために掲げた「LGBT」が輸入されて、日本でも「連帯せねば」となり…

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