東浩紀氏が次のようなツイートをした。おそらくは私のアカウントに対しての発言だろう。
@hazuma 今回のサイトブロッキング問題であらためて思ったけれど、川上量生さんはなんで、誰もが川上さんだと知っているのに、匿名のフリをしたアカウントで、しかも業界がらみの発言を続けているのだろう。発言力だけ持ちたいが、責任は取りたくないという、とても矛盾した態度に見えるのだが。
このブログの読者の多くはよく知っていると思うが、ぼくはこれまで匿名でネットでは活動しており、いくつかのやむをえない事情による例外をのぞいで自分から自分の名前を明かしたことはない。ただし、基本的にばれてもかまわないというスタンスをとっており、アカウント名は怪しいし、フォローしている人間とかもカモフラージュはとくにおこなっていないので類推しようと思えばある程度は可能だろう。また、まわりの友人に聞かれたら、ぼくのアカウントだと別に答えている。ただし、匿名というスタンスでやっているという説明はしているので、まわりの友人からぼくのアカウントの正体が公にばらされることはない。
ちなみに、これまで、ネットやまわりの人間に対しても自分から宣伝をおこなったことは一度もない。
まず、最初に、力説したいのは、ぼくのアカウントがばればれなのは、ぼくの意図ではなく、ぼくのアカウントの正体をばらしたがる多数のネットユーザーがいるからだ。最初にばらしたのは多分ぼくの友人や社内からの口コミで広がったひとだろうし、ねとらぼとかのPVのためなら仁義も遠慮も無いメディアだったし、ぼくとの関係をアピールしたかっただろうそれほど親しくない知人だった。
そう、ちなみにぼくはいくら仕事の関係で重要だとしても、基本人付き合いをほとんどしないので、ぼくが食事を2回したひとというのは相当興味なり好意を持っているひとであり、ぼくの中では友達に分類されていることが多い。だが、相手からはそこまで思われていないことが多い。
ぼくが結婚したとき披露宴に呼んだひとは仕事だけの付き合いの人はひとりもなく、すべてぼくにとってはこれまでの人生での付き合いを感謝したい友人ばかりであった。東浩紀氏もそのひとりだ。
残念ながら東浩紀氏にとって、ぼくは友人ではなかったようで、彼はぼくが人脈を見せつけるためのラインナップの駒のひとつとして呼ばれたと思ったようだ。当然のように彼は友人でもなんでもない他人の披露宴の写真をネットにツイートしまくった。ぼくの親しい友人たちはみんな激怒していた。ぼくは、あー、また間違えたんだなと思った。ぼくの人生の中でよくあることだ。
話が脱線した。
ええと、ぼくがなぜ半匿名という中途半端なスタンスでネットで活動しているかの話だった。
ぼくがそもそも匿名かつばれてもいいという見ようによっては中途半端なスタンスでネットで書き込みをおこなうのか?
それはぼくが理想とするネットの姿にある。ぼくが理想としているのは、インターネット以前、パソコン通信の時代だ。
ぼくが最初にやったネットはASCII-NETというパソコン通信サイト。そのとき、ぼくは大学生だった。
あまり現実世界に友達のいなかったぼくは、パソコン通信にはまった。パソコン通信の知り合い、付き合いがぼくの人生の中の他人との付き合いの中心になった。
ぼくは日本で最初期に誕生したネットの住民のひとりだったと思う。ネットの住民とはなにか?ネットとの付き合い方は2種類あると思っていて、ネットに住むひとと、ネットはツールだというひとだ。後者は現実世界の住民ということだ。
ぼくは当時から現実よりネットのほうに帰属意識があった。ここがぼくの居場所だと思った。
当時のパソコン通信はどんな世界だったか。
いろんなひとがいた。年齢も職業もバラバラだ。下は中学生から上は70代ぐらいまでいた。びっくりするような有名な人もいた。といっても、それは当時のぼくにとっての話であるが、森田将棋をつくった伝説的なプログラマー森田和義氏だ。ぼくにとっては神様のような存在だった。
そしてみんな本音であり対等の立場で話していた。年齢も職業も社会的地位も関係なかった。ぼくはそこが理想的な社会に見えた。
激しい議論もあったけど、いまのネットみたいな醜い罵りあいはほとんどなかった。
ぼくみたいな学生に対して、ぼくよりもはるかに社会的地位も人生経験もあるひとが対等の議論に応じてくれた。
当然、森田和義氏とも激しい議論の応酬があった。森田氏があるとき僕との議論で負けを認めたときは嬉しかった。でも、今にして思えば森田氏は大人の対応をしてくれたのだろう。
ASCII-NET最大の荒らしユーザーとして有名だったvoid-No.2と喧嘩をして、彼を怒らせたときは、みんなに祝福されて勝利感でいっぱいだった。
そう、明らかにぼくは、いまぼく相手につっかかってくる生意気で人生経験もないくせに自信満々な若いネットユーザーたちと同類だった。ネットで社会デビューを果たした痛い学生だったと思う。
この当時のパソコン通信のコミュニティがぼくの中の理想のネット社会だ。
インターネットが普及した当初はそういう牧歌的なコミュニティを破壊しやがった敵だとぼくは思っていて、いまでもインターネットのコミュニティには気にくわないことが多い。
というわけで、話の準備は終わった。
ぼくがなぜ匿名でかつ自分がだれかを隠さないというスタンスでネットで書き込みをしているかを説明する。
ぼくはネットの素晴らしいところは、立場に関係なく、対等に話せるところだと思っている。立場に関係なく話すというのは、匿名でやりとりする2ちゃんねる的な世界を意味しない。自分の立場を明らかにしてなお対等に話せる場所というのが、ぼくの理想とするネットだ。
ところが、いまのインターネットで有名人が名前を明らかにするということはどういうことか。それはインターネットをメディアとして利用するということだ。要するに現実の住人としてネットをツールとして利用するという生き方だ。彼らはけっして一般のネットユーザーと対等に付き合ったりはしない。彼らにとってはネットは公共の場所であり、ポリティカルコレクトなよそゆきの発言をする自分を宣伝する場所だ。
こういう使い方は損得でいえば得であり合理的かもしれないが、ネットの住民であるぼくにとってのネットはもっと神聖なものであり、ぼくには冒涜にみえた。だから、そういうネットを宣伝の場所にすることはぼくはやらないと決めた。
だから、ぼくはツイッターアカウントをフォロワーが増えたら定期的に消している。
ただし、別にストイックにネットを自分の得になるようなことには一切つかわないように気をつけるということをするつもりはない。
ぼくがやりたいのはネットを自分の住処とすることであり、そこで素の自分を出すことだ。なんでわざわざ住処のネットで自分を偽わらなければならないのか。仕事をやっている自分も自分であり、当然、ぼくが話したいこと、興味のあることで仕事に関わる部分は当然にある。また、他人に話す価値のあることも当然ぼくが仕事で関わりがあって得意なもののほうがたくさんある。
そしてぼくは基本他人に聞かせるためにネットでわざわざ発信する情報は、ぼくしか発信できないような情報にしたいと思っている。それはたまたまぼくしか知らないこともあるが、もっとぼくが責任を感じているのは、みんな思っていてもネットでタブー化されていて炎上をおそれてだれも喋れないでいることを発信することだ。そういうのは自分の役割だと思っている。
ぼくが匿名で責任をとらない立場で、しかもだれもがぼくの正体をしっている状態で発信することを卑怯だというひとがいるようだ。しかし、ぼくはフェアだと思っている。なぜなら、現実問題として、ぼくが発言するたびに、ぼくがだれそれだとか、宣伝してまわってイメージを悪化させようと努力するネットユーザーはたくさんいるので、あまり責任回避にもならなければ得もしていないからだ。だいたいそういうわけでぼくのツイッターアカウントは宣伝もしないから、ほとんどフォロワーはいない。それに増えたも消す。
ぶっちゃけぼくの半匿名のスタンスは割が合わないと思う。だいたい、僕以外にそんなひとは今のネットにあまり見当たらない。
本当に得だったら、真似するひとがでるだろう。
こういう状況で、東浩紀氏がぼくのスタンスについて、卑怯だと非難するのは、彼が基本的にルサンチマン気質があるのだと思う。ぼくはこのスタンスでぶっちゃけ得をしていない。続けているのはたんなる意地だ。
だいたい披露宴でもさんざん他人のことを新しいメディア王だの、自分は末席の貴族だの、ぼくの友人達が善意でやってくれた余興を権力を見せつけたとかいってひがみ根性が丸出しだった。
仮にも日本の言論界の代表者のひとりなんだから、その賤しい本性をうまく取り繕う品格を身につけて頂きたい。
いいたい文句があるならツイッターでぐちぐち呟いていないで、言論人らしくゲンロンカフェにぼくを呼んだらどうか。出ます。