「国民の目線に立つ」。裁判所には、そんな役割が期待される。しかし、実態は違う。彼らは立場を守るため、政治家と対峙することを避けてきた。そのことで、国民の利益が損なわれるとしても、だ。
憲法は、民主主義の根幹を支える選挙制度において、選挙民の「投票価値」が平等であることを求めている。一票に格差がある限り、国民の意思を公平に国政に反映させることができないからだ。
その意味で、「一票の格差訴訟」は地味ながら、国民の基本的権利に直結する訴訟であり、国会にはその是正をはかる義務が課せられているのである。
国政選挙が終わるたび、人権意識の高い弁護士たちによって、全国で繰り返し違憲訴訟がなされる理由もそこにある。
しかしこの格差の是正は、選挙制度の仕組みの複雑さと是正措置の技術的限界から、限りなく不可能に近い。
最高裁もまた、そのことはよく理解している。だからこそ、「6.59倍」という「最大格差」で実施された参議院選挙でも、1996年9月の最高裁判決は「違憲」とはしなかった。
「投票価値の著しい不平等状態」を認めながら、「憲法に違反」しているとは言いがたいとして、「違憲状態」としたのである。
「違憲状態」とは、一定の是正努力を認めながら、さらなる改善を求めるというものだ。そのための猶予期間を与えるという意味が込められている。
ただこの判決は、最高裁判事の全員一致によるものではなかった。15人の裁判官のうち9人が「違憲状態」を支持し、6人は「反対意見」で「違憲」を主張していたのである。
当時、最高裁判事として「反対意見」を書いた福田博は、『オーラル・ヒストリー「一票の格差」違憲判断の真意』の中で、最高裁内で交わしたやりとりを記している。
「(反対意見を)私が書くことを押しつぶそうという調査官がいた。これは許せないと思いました」
外交官出身の福田は、条約局長やマレーシア大使などを経て、1995年9月、最高裁判事に就任した。
最高裁入りが決まるや、欧米の憲法判例などを半年にわたって読み込み、選挙制度における「投票価値の平等」への取り組みを使命と考えるようになっていた。
福田の「反対意見」は、「定数較差の存在は、結果を見れば選挙人の選挙権を住所がどこにあるかで差別していることに等しく、そのような差別は民主的政治システムとは本来相いれない」というものだった。
これに対し、最高裁の担当調査官はほぼ全文に斜線を入れてきたという。
「思い出すと、今でも血がたぎります」。こう語ったのち、『オーラル・ヒストリー』の中で福田は続けている。
「(私の反対意見を)斜線で消して、翌日に返ってくる。返し方も投げ込みで……。ふざけるな、と思いましたね。反対だから反対意見を書くのです。
確立した先例に反するといって全部斜線で消して、末尾の『私は多数意見に反対である』という一文だけを残して返してくる。どういう神経かと思いましたね。『書かせない』という調査官の圧力を私はひしひしと感じたんですよ」