アステカ文明とはメキシコ盆地に栄えた王国の文明を します。王国の首都は湖上の島に築かれたテノチティトランです。王国は1521年、コルテス率いるスペイン人に滅ぼされましたが、14世紀から続いていました。アステカ人の呼称は伝説上の出身地アストランに由来しますが、同時にメシトリ神をあがめるメシカを自称しました。国名のメキシコ、スペイン語ではメヒコは、その名にもとづいています。メシカ人がアストランを離れたのは12世紀初頭とされ、13世紀にメキシコ盆地に移住したとみられています。当初は傭兵として勢力をたくわえ、湖の東岸と西岸の王国とのあいだに都市同盟を結び、スペイン人と出会った時にはメキシコ湾岸から太平洋岸まで勢力下においていました。
アステカの「暦石」は1790年12月17日、テノチティトラン、つまり現在のメキシコ・シティの中央広場で発見されました。大聖堂の修理中であり、そのまま1885年まで大聖堂の外壁に置かれていました。直径約3.6m、厚さ約1m、重さ24トンもある巨大な石造レリーフです。現在はメキシコ国立人類学博物館に展示され、わたしも実見したことがあります。展示場の他の石造遺物を従えるような圧倒的な存在感があり、まさに目玉展示でした。民博にも原寸大のレプリカが展示されています。
ふつう暦石(カレンダー・ストーン)とよばれていますが、厳密には年月日を知る暦の役割を果たしているわけではありません。むしろ、アステカの宇宙観、時間観、歴史観をあらわす石彫の造形物といえるでしょう。なぜなら太陽の時代にかかわる観念を彫りこんでいるからです。
レリーフの中央に彫られた像はふつう太陽神トナティウとされ、両手に人の心臓をもち、垂らした舌は犠牲用のナイフを象徴すると解釈されています。アステカの人身供犠は有名ですが、その祭祀場の基盤ないし装飾として使われたのが、この「暦石」というわけです。
他方、周囲に死滅した4つの太陽の時代が配置されているので、夜の主、ヨウァルテクートリであるとする説や、創造神話で大洪水を飲み込んだ海の怪物、トゥラルテクートリとみなす説などもあります。
いずれにしろ、4つの太陽の時代とは、右上が第1の太陽、左上が第2の太陽、左下が第3の太陽、そして右下が第4の太陽です。中央の円が第5の太陽、つまり現代となります。第1の太陽はジャガーによって表象され、神のつくった巨人たちは農耕を知らず、洞窟に住み、野生の植物や果実を食べていましたが、ジャガーに喰われてしまいました。第2の太陽の時代は嵐のために滅びましたが、神は風に吹き飛ばされないよう人間を四足の猿に変えました。第3の太陽の時代は火山の噴火と溶岩で滅亡しましたが、神によって鳥に変えられた人間は難を逃れました。そして第4の太陽の時代は大洪水で終末を迎えますが、神は人間を魚に変えて滅亡から救出します。その大洪水を飲み込んだのがトゥラルテクートリというわけです。
さて、「暦石」の命名の根拠の一つとなるのは、4つの太陽の外側の円周に彫られた20の絵文字と13の数字です。なぜなら、これが260日暦をあらわすとされるからです。絵文字は左上からワニ、風、家、トカゲ、ヘビ、死、シカ、ウサギ、水、イヌ、サル、草、葦、トラ、ワシ、コンドル、動き、火打ち石、雨、花をあらわしています。1年260日暦は誕生日とか儀式の占いにもちいられました。ワニは吉、風は凶でした。数字も吉は3,7,10,11,12,13であり、凶は4,5,6,8,9でした。2は吉凶の中間、1はさまざまに変化する運とされたのです。
アステカには365日暦もあり、また暦元の日を定め一直線で時を数える暦法もありました。これらの暦法についてはいずれマヤ暦をとりあげる時に言及することにします。
スペイン人はアステカの神殿を破壊し、その上にカトリックの教会を建設しました。この「暦石」もその過程で発見されました。アステカ文明の遺物がメキシコの誇りとなっているのも皮肉な運命です。吉なのか凶なのか!?
日本カレンダー暦文化振興協会 理事長
中牧 弘允
国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。
著書に本コラムの2年分をまとめた『ひろちか先生に学ぶこよみの学校』(つくばね舎,2015)ほか多数。