「喜嶋先生の静かな世界」

4年前に買ったのと同じ本棚が届いて、散らかった本を本棚に並べていると、以前になくしたと思っていた、「喜嶋先生の静かな世界」を発見して再読していた。

主人公は、研究室配属された大学生で、恩師である喜嶋先生との研究に没頭した生活が描かれている。短く言い切る文を連ねた文章で、ひとつひとつの描写ははっきりしている。ただし、全体的な読後感はどこか抽象的でさらりとしている不思議な読み味の物語だと感じさせる。

初読のときから記憶に残っているのは、物語の最後の一節だ。主人公は順調に博士号をとり、結婚し、そのまま大学に務め、助教授にまで出世する。そしてあるきっかけからふと以下のような独白を始める。

僕はどうだろう?

最近、研究をしているだろうか?

勉強しているだろうか?

そんな時間が、どこにあるだろう?

子供も大きくなり、日曜日は家族サービスで潰れてしまう。大学にいたって、つまらない雑事ばかりが押し寄せる。人事のこと、報告書のこと、カリキュラムのこと、入学試験のこと、大学改新のこと、選挙、委員会、会議、会議、そして、書類、書類、書類......。

いつから僕は研究者を辞めたのだろう? <中略>

僕はもう純粋な研究者ではない。

僕はもう......。

一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいたんだ。

あの素敵な時間は、いったいどこへいったのだろう?

喜嶋先生と話した、

あの壮大な、

純粋な、

綺麗な、

解析モデルは、今、誰が考えているのだろうか?

世界のどこかで、僕よりも若い誰かが、同じことで悩んでいるのだろうか。

もしそうなら、

僕は、その人が羨ましい。

その人は幸せだ。

気づいているだろうか。教えてあげたい。

そんな幸せなことはないのだよ、と。

もう......、

もう二度と......、

もう二度と、あんな楽しい時間は訪れないだろう。

もう二度と、あんな素晴らしい発想は生まれないだろう。

僕からは、生まれないだろう。

僕からは......。

僕は......。

今の僕は、王道から外れている。

エキセントリックだ。

外れてしまったのは、いつからだろう?

外れてしまったのは、どうしてだろう?

森博嗣著 「喜島先生の静かな世界」 講談社 2010年発行

研究者を技術者に置き換えてみるとハッとなる。

最近、コードを書いているだろうか。勉強しているだろうか。オフィスで会議ばかりしていないだろうか。自分にとっての王道とは何だろうか、王道から外れていないだろうか。

まだ大丈夫だとは思う。でも5年後はどうか。

本棚にひっそりと佇み、折りにふれて読み直させ、自問を促してくれる本。