フィリピン戦
(番外)
戦場の「人肉食」 ―ミンダナオ島編―


 「戦場の「人肉食」 ルソン島編」に続き、「ミンダナオ島編」をお届けします。

 念のため、「ルソン島編」で掲げた注意書きを、こちらでも再掲しておきます。
※「人肉食」などという猟奇的な事件が果たして本当にあったのか、軽い好奇心から調べ始めたのですが、予想を超える「気持ちの悪さ」にはいささか辟易しました。折角調べましたのでまとめてはみましたが、以下の記述は、私自身気分が悪くなるくらい、大変生々しいものです。閲覧には十分ご注意ください。




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荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


 まずは、荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』です。この本には自民党の大物政治家、渡辺美智雄氏(元「みんなの党」党首、渡辺喜美氏の父)が序文を寄せており、荻原氏が地元の名士であったことを伺わせます。


荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


発刊に寄せて

衆議院議員 渡辺美智雄


 この度、太平洋戦争(第二次世界大戦)の比島戦線における密林敗走実録「髑髏の証言」が、四十年ぶりで出版の運びとなったことは、誠に欣快の極みであり、衷心より祝意を表します。

 著者・荻原長一氏は、旧日本陸軍砲兵隊の軍曹としてミンダナオ島の対米攻防戦に参戦された。そのすさまじい死闘を経て、敗戦も知らずに部下戦友と共に人跡未踏のジャングル内を何ヵ月も彷徨。友軍兵の白骨化した死骸群の中、"共食い"など人間として極限を超えた飢餓地獄を、強靭な理性・忍耐力と創意工夫で見事に乗り越えられた。

 中隊指揮班の功績係という立場にいた著者の凡張面さから、その折節の実証をスケッチ付きで克明に記録。それを米軍の捕虜収容所内でまとめあげ脱稿、復員時に苦心して持ち帰り、今日まで温存されたという。それだけに、自分をさらけ出したその内容は、鬼気迫る当時を生々しく再現して小説よりも奇なる実録(ドキュメント)の迫真力十分。思わず引き込まれて一気に読ませられるものがあります。資料価値も高いと思われます



 荻原氏は、1944年6月に宇都宮市の砲兵連隊に入隊し、マニラで独立混成第54旅団砲兵大隊に編入されました。その後ミンダナオ島のザンボアンガ半島の守備にあたり、1947年1月に帰国しています。その間、氏は、何回か「人肉食」を見聞しています。


 まずは、山中をさまよううちに再会した、荻原氏氏と同じ「中島部隊」の、「N分隊」の話です。分隊長の「N伍長」は、まだ生きている「海軍」の兵士を、拳銃で殺して肉を食ったことを告白します。

荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


 「実は、二十日ほど前にも一人……。海軍五中隊の畑(北上の際同隊が最初に発見し独占していた古い畑)から少し南下した所で、肉が欲しくてどうにも腹の虫が承知しやがらねえんで、一緒に行動していた海軍の兵隊を、夜半にやりましたがね

 「一体何でやったんだ。軍刀でか」

 「いや、この拳銃すよ。眠っているところを頭に銃を当ててやりゃ、一発でいっちゃうやね

 そう言って、後ろに掛けてあった十四年式の拳銃を指した。そこに拳銃があるのに今初めて気がついた。

 私たちは、立ったままの姿勢で身動き一つ出来ず、ヒザがガタガタするのを力一杯踏み抑えようと思ったが、その力も出なかった。私は、嫌悪と脅迫感をまともに感じながら、顔から血の引くのを懸命に耐えた。

 彼はむしろ得意気に、さらに続けた。

 「最初はやっばり、腕や大腿部をバラして、良い所を乾燥肉(薫製)にして取って置く。まず臓物から食っていくんすが、肝臓なんざァ特にわッしの大好物でさァ。腸も小ちゃく切ってよく煮ると、シコシコして椎茸みてェで何ともいえねェ昧だね

�もう沢山だ、やめてくれ! お前たちはなんという事をするんだ″

 私はそう怒鳴ろうとしたが、ツバが乾いてロに出てこなかった。

 「それから、頭はこの軍刀でバーンと割って、中から脳味噌をグイッと引っつかんで、ペロッと飯盒に入れるんだが、随分あるもんすね。これに七、八分目ぐらいはあっかなァ

 そう言いながら、傍らにあった飯盒に指で線を引く格好をした。(P232-P233)



 その夜、「N分隊」と行動をともにしている「I上等兵」が氏の宿舎にやってきます。彼は、「殺害」と「死体処理(携帯肉製造)」の作業を強制されていたようです。

 以下、「I上等兵」の証言です。

荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


 部隊解散の後、N分隊に所属した兵隊は絶えず彼らの体の一部分のように隷従させられて離れる事も出来なかった。深いジャングルを半月余り右往左往したあげく、食糧が全く尽きてからは、次第に病人が出始めた。

 飢餓患者が出れば出るほど分隊の足手まといになった。歩行不能に陥ると、順次それら患者の寝込みをうかがい射殺した。射殺の担当はほとんどK兵長だったが、その解体にはさすがに皆手を下さず、その言語に絶する非道な任をIが強要された。

 頸を切断し、腕や脚を胴から切り離し、臓器を取り出して洗ったりの作業を強引に命ぜられた。もしこれを拒むと、何も食べさせてもらえぬばかりか、彼らの刃が自分に向けられるのは明らかであった。

 こうして、多くの携帯肉を作っては食い続け、それが無くなると、また次の患者が犠牲にされていった。(P235)



 「I上等兵」によれば、実際には殺されたのは「海軍の兵隊」ではなく、自分の部下たちであったようです。

荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』

 N伍長が、海軍の兵隊などと言ったのは真赤なウソで、手がけたのは内地出発以来の最初から、同じ自分の分隊に配属されていた己の部下であった。それを平然と四人も殺していたのだ。その被害者はS上等兵、G上等兵、W一等兵とO一等兵と明確に氏名をあげた。話は終わった。(P236)





 さて次は、「食人」現場の目撃談です。荻原氏は、山の中で、「何やら食べている」最中の、四人の兵隊と出会います。


荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


 注意深く近寄ると、四人の兵隊が腰を下ろし、談笑しながら、何やら食べている最中だった。彼らは外敵に対し、ほとんど注意している様子はなかった。彼らを驚かして反射的な攻撃を受けないように、十分考えながら努めて静かに「こんにちは……」と声をかけてみた。(P239)

 ところが、彼らの驚きぶりは想像以上であった。鋭い視線が一斉に私の方に注がれた。うち一人は、咄嵯に傍らにあった銃を握った。(P240)

 四人とも小柄で何ヵ月も洗面すらしたことのないような黒い顔。目だけギラギラ輝かせながら「うわあ、驚いた」と、一人の太い声がした。私はもう一度改めて「こんにちは」と言い直した。

 すると一人が「こんにちは、あんたは何部隊ですか」と問い返してきた。

 「砲兵隊の中村部隊ですが、あなた方は?」

 「森部隊す」(P240)


 そして荻原氏は、彼らから「肉」を勧められます。


荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


 「ところで、あんた方は糧秣の方はどうすか。わしらはもうイモは二本ずつしかないし、因ってるんす。でも、肉はこうして幾らか残ってるんすけどね」

 肉のあることは、初めから食べているのが見え、わかっていた。私たちにとって、肉は一ヵ月前に、カラパオを食べたのが最後。あの特有の歯ごたえと口腔内に広がる脂肪性の昧が、舌の周辺によみがえる気がした。

 「いやあ、われわれはまだひどいね。惨めなもんです。イモが少しあるだけで、とても肉なんぞ拝みたくても無いですよ」

 彼らの座っている中央には、タケノコの皮みたいに丸くなったカラパオの皮と、焼いた骨が飯缶(軍隊で使う米飯容器)の中に入れてあった。私の視線は激しい食欲に燃えていた。

 「どうすか、こんなのでよかったら、一つ噛りませんか」と言って、一切れの肉片を差し出した。それは一見皮を焼いたもので、真っ黒く縮んで丸くなっていた。彼らの温かい好意に感謝して、早速喜んで押しいただくことにした。(P240)


 しかし「肉片」を口に入れる直前、荻原氏はその「正体」を告げられます。

荻原長一『髑髏の証言 ミンダナオ島敗走録』


 折角貴重品を分けてもらった以上、食べなければ済まない。怖いものをそっと隠すような仕草で、歯と歯の間にいやいや挟もうとした時、誰かの声がした。

 「それはカラパオじゃないすよ」

 「ほう……何ですか。馬ですか」

 「……」

 「台湾工すよ」


 「えーっ、あっあっ、そうすか」

 私は反射的に口を開いて手を引いた。

 「やあどうも、いろいろと済みません。いよいよ道もダメなら明るい中に引っ返さなければならんので、一足先にご免」

 辻褄の合わぬ挨拶だったが、早々に引き返そうとした。すると「そうすか。わしらも四人じゃ寂しいから、一緒に連れて行ってくれませんか」と言い出した。

 私は、そこに佇んで彼らを待つのは一刻も耐えられない気がした。「はあ、下で皆と一緒に待ってますから」と言い残して急いで立ち去り、彼らの目の届かない所まで来てから、先程の�台湾出身の徴用工員�の体の一部分なるものを、斜面を走りながら力一杯遠くへ投げ捨てた。(P241)


 何と「肉」の正体は、徴用された台湾人であったわけです。

 氏の直接体験の話はここまでで、以降、いくつかの「聞いた話」が紹介されます。いずれも生々しい「体験談」ですが、あまりに長くなりますので、こちらでは省略します。






住民を殺し、その肉を食う



 さてミンダナオ島では、日本兵が住民を殺して、その肉を食う、という信じがたい事件が起こっています。それも被害者は数十人にも及び、かなり組織的であったことは間違いありません。

 さらにこの事件の特異性を際立てるのが、事件が起こったのは終戦後、1945年10月頃からの1946年にかけてのことであった、という事実です。

 まず、毎日新聞の記事を紹介しましょう。

1993.10.7付『毎日新聞』朝刊 6面

日本軍敗残兵の比住民虐殺 補償、謝罪求める声 次々

合同調査団 心の傷、いまも深く
      遺族60人から聞き取り



 第二次世界大戦終結後、フィリピン・ミンダナオ島北部のキタングラン山ろくで起きた日本軍敗残兵による住民虐殺・人肉食事件が戦後四十八年を経てクローズアップされている。日比両国の弁護士やジャーナリストから成る調査団がこのほど現地のスミラオで、被害者の遺族ら約六十人から聞き取り調査を実施したが、ショッキングの証言の連続に、調査団は息をのんだ。

クリセンシア・アリンポグさん(六八)、ホビタ・ヘロカンさん(七〇)姉妹

「一九四六年十月、スミラオ町の自宅に五人の敗残兵がやってきた。食物が屋内にないことがわかると、敗残兵は父親の首を切り、私たちの目の前で肉をたべ始めた

カルメリノ・マハヤオ氏(五七)

「四六年十月、インパスゴン町の自宅に敗残兵七人が押し入り、まず兄を食べた。母親と妹は連行され、行方不明になったが、のちに脳のない頭部だけが見つかった。私は生き延びた。やせていたので、食べる気がしなかったようだ」

 四七年に日本の敗残兵三十七人を捕らえた地元の元陸軍大尉、アレハンドロ・サレ氏(七四)も証言。「この地域には野生のシカもいたし、果物も豊富にあった。なぜ人を食べたのか疑問を感じた」と述べ、ニューギニア戦線のような極限状態下の人肉食でないことを強調した。

 被害家族は、自給自足に近い生活を営む先住のヒガノオン族。聞き取り調査を実施したイスラエル・ダマスコ弁護士の話では、犠牲者は約八十人。アニミズム(精霊崇拝)信仰の住民は、体がバラバラにされた犠牲者の魂はいつまでも安らかになれず、悪霊が親族に取りついて病気や災いをもたらすと信じて疑わない。遺族の間には、加害者を現地に招いて鎮魂のための伝統儀式を実施すべきだとの意見もある。

 この事件は、マニラの軍事法廷で裁かれ、敗残兵十四人に死刑や終身刑を宣言。だが四八年、キリノ大統領(当時)の恩赦で全員、日本に帰国、放免された。現地調査を行った西田研志弁護士(東京弁護士会)の話では、うち七人は健在で、現地での謝罪表明を申し出ている人もいるという。

 日比の弁護士団は近く日本政府に遺族の要望を伝えるが「全く無抵抗の住民に対する特に悪質な事件」とし、政府の対応次第では従軍慰安婦同様、補償請求訴訟を起こすことも検討している。

 フィリピン人弁護団の中心人物、ロメオ・カプロン弁護士(五八)は、「遺族の証言はマニラの軍事裁判記録と合致しており、信頼できる。人道に対する罪として国連人権委員会に訴えたい」と述べ、今月二十八日から京都で開かれる日弁連人権大会にも出席して、この問題をアピールする。





 この事件は、 辺見庸『もの食う人びと』でも紹介されています。

 辺見庸は、早稲田大学文学部卒、共同通信社勤務を経て、現在は作家・ジャーナリストとして活躍しています。1991年には小説『自動起床装置』で芥川賞を受賞しています。

 『もの食う人びと』は、「食」を媒介に、チェルノブイリ村、ソマリアの難民キャンプ、アフリカのエイズ部落等を、美しくも哀しい文体で淡々と描いた名ルポルタージュです。(のち講談社ノンフィクション賞・JTB紀行文学賞を受賞)

 この書にあって、「ミンダナオ島の食の悲劇」と題する章は、「食」は「食」でも、「人肉食」というおぞましいテーマを扱っており、いささか異彩を放ちます。なおここに出てくる「老人」は、先の毎日新聞記事にも顔を出す、アレハンドロ・サレ氏です。


辺見庸『もの食う人びと』

 私は三度も転んだ。老人は一度しか転ばなかった。抗日ゲリラ戦当時の山歩きと退役後の農作業で足腰が鍛えられている。

 夫人はタフなこの老人を時々おどけて「タイソン」と呼ぶのだという。マイク・タイソンのタイソンだ。私がこけるたびに、"タイソン"は、はっはっはっと笑う。

 泥だらけの私をしりめに、老人が野の草を引き抜きはじめた。

 アザミみたいな花をつけた草。ドゥヤンドゥヤンというのだそうだ。

連中(残留日本兵)はこの草とあの肉をいっしょに煮とったよ

 言いながらドゥヤンドゥヤンの花をむしっている。泥道に、血のように鮮やかな朱色の点が散らばった。

 茎を私はかじってみた。

 最初にヨモギに似た淡い香り。次に強烈な青臭さで、つばきがどっと湧いてきた。

 におい消しに使ったのかなと私は思った。(P46)

 途中に掘っ立て小屋があった。

ここからも農民が連れていかれた

 老人がつぶやく。

 ふもとのインタバス村まで私を乗せ、そのまま同行してきたトラック運転手が「行く先は皆連中の鍋のなかだったよ」と冗談でなく言った。



辺見庸『もの食う人びと』

 ふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が六、七人、私を取り囲み、キタンラド山になぜ登ったか問うてきた。

 私はわけを話した。残留日本兵の「食」に少し触れた。

 その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。

 村人たちは口々に言ったのだ。

「母も妹も食われました」

「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」

「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」


 「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち十個も並んだ。

 村民たちは泣き叫んではいない。声を荒らげてもいない。押し殺した静かな声だった。なのにメモ帳が「食われた」という激しい言葉で黒く埋まっていくのが不思議だった。老人は、戸惑う私を無言でじっと見つめていた。(P52-P53)



辺見庸『もの食う人びと』

 四九年の戦争犯罪裁判(マニラ)の証言者でもある農民のカルメリノ・マハヤオが、村人の声をまとめた。四六年から四七年はじめにかけて、この村とその周辺だけで三十八人が残留日本兵に殺され、その多くが食べられた。頭部など残骸や食事現場の目撃証言で事実は明白になっている。しかし日本側は一度として調査団を派遣してきたこともない。

 マハヤオは最後に言った。

「でも、忘れないでくださいよ。きちんと伝えてください」

 じつは、事件の概要は九二年秋、共同通信マニラ支局により報じられている。しかし、四七年以降の残留日本兵への尋問当時から、現代史ではきわめてまれな兵士による「組織的食人行為」として、連合軍司法関係者を仰天させたこの事件の全貌は、日本ではほとんど明らかにされていない。

 なぜだろう、と私は思う。

 事実を秘匿する力がどこかで動いたのだろうか。そうだとしたら、この事件がとても説明がつかないはど深く「食のタブー」を犯していることへの、名状しがたい嫌悪が下地になっていたのではないか。

 戦争を背景にした一つの過誤として、もう忘れたほうがいい。そんな意識もどこかで働いたためかもしれない。だが、私のすぐ目の前には、肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる。「食った」歴史さえ知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との、気の遠くなるような距離。私はただ沈黙するしかなかった。(P53-P54)

 




 この事件について詳細な取材を行い、一冊の本にまとめたのが、永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』です。多くの事件につき、被害者側証言、当時の戦犯裁判の記録、「実行犯」である日本兵へのインタビューなどをもとに、その実態を多面的に浮き彫りにしてみせます。

 被害者側証言としては、冒頭の新聞記事でも取り上げられていますが、娘の目の前で父親の肉を食べた、というショッキングな事例を紹介しておきましょう。

永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』

■ホビータ=ヘロカン、クリセンシア=アリンボグ姉妹の場合■

 そういう貧しいけれど平穏な日々が一変してしまったのが、一九四五年一〇月一〇日だった。

 その日の正午ごろ、自宅で茄でたカモテとバナナの昼食を取っていると、突然三人の日本兵が現われた。父親のアウグスティンさんは家の外にあった鳩小屋で鳩の世話をしていた。父は「気をつけろ。私たちが恐れている奴らがきたぞ」と家の中にいた姉妹に言った。

 もう二人の日本兵が遅れてやってきて、父の左右の腕をつかんだ。父親に何か聞いたようだったが、父親が答える間もなく、いきなりボロで父親の首を切り落とした。日本兵は、家の中にいたホビータさんとクリセンシアさんの両手をアバカのロープで縛り、家の竹の床にくくりつけた。

 日本兵は彼女達の見ている前で父親を解体していった。一人はボロで、あとの二人は短剣を使った。最初に太ももの付け根から足と胴体を切り離し、膝、足首と関節ごとに切断した。次いで腕を肩から切り離し、肘、手首と切断していった。そして各部分から肉をそいでいき、四枚のバナナの葉の上に置いた。さらに骨を三~四センチの長さに砕いていった。(P52-P53)

 胴体は中央から引き裂き、肺、心臓、肝臓などを取り出してバナナの葉の上に置いた。腸は食べないつもりなのか、引き出して投げ捨てた。頭には手をつけなかった。ボロを持った長いあご髭をはやした兵士が中心で、後の二人は手伝っていた。姉妹はただ泣きながら見ていた。解体が終わるまで一時間くらいかかった。

 その後、一人の兵士が家に入り、鍋を持ち出してきた。その鍋に骨と肉と水を入れた。別の兵士が、姉妹の一家が昼食のカモテを茄でるために使った火の残り火を小枝に点火して来て枯れ草に火をつけ、鍋を火にかけた。猿を煮た時のような臭いがした。

 三〇分くらい煮ると、日本兵達は五人全員が焚火の横に輪になってバナナを片手に肉を食べ始めた。鍋の横に二枚のバナナの葉を敷き、肉を出しては各人手でつまみながら食べた。日本兵は極端に痩せてはいなかったし、飢えてガツガツ食べるという風でもなく、普通に談笑しながら食べていた。

 途中、長いあご髭のがっしりした体格の兵士が姉妹に父親の肉を食えと強いた。父親を殺したその兵士は手で二人の口をこじあけて肉を突っ込んだ。二人は肉を口に入れたが、吐き出した。それを見ていた他の兵士は笑った。

一時間くらいで食べ終わると今度は一人の兵士が姉のホビータさんの肩を押え、もう一人が足を開いて押え込み、先程父親の肉を食えと強いた兵士が強姦した。彼女が抵抗した時、右足の膝の上を短剣で突かれた。その後二人の日本兵がかわるがわるホビータさんを強姦した。ホビータさんの後、クリセンシアさんも強姦されそうになったが、激しく抵抗したために免れた。(P53-P54)

(略)

 この「サイアム事件」は四九年のマニラ軍事法廷で審理されている(起訴項目第4~6項)。姉妹も証人として出廷。裁判官から求められて被告席に座っていた元日本兵の中から彼女らの父親を殺して食べ、ホビータさんを強姦した兵士達を指し示した。二人が共通に主犯格として指したのは、歩兵第七四連隊の別所龍太郎伍長だった。(P55-P56)

 歩兵第七四連隊の別所龍太郎伍長は、一九四九年にマニラの軍事法廷で起訴された二四件の事件の大半に名前が出てくる。(P56)


 この本には、これに類する「被害者側証言証言」が大量に納められています。

 これら一連の「人肉食」事件は、マニラの戦犯裁判でも取り上げられました。多数の兵士が、「人肉食」を認める供述を行っていたようです。

永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』

 四九年のマニラの戦犯裁判に証拠として提出された供述調書のうち、私は二五人の兵士の供述証書を入手したが、そのうち一六人もが明白に人肉食の事実を認めている(ただし、一六人中三人は日本兵の人肉を食べた事実だけの供述)。

 さらに二人が、自分は関与していないが、他の兵士が人肉を食べるのを見たと供述し、一人は他の兵士から人肉を食べたと聞いたことがあると供述している。

 残る六人だけが人肉食に言及していない(ただし、人肉食を明白に否定もしていない)。(P163)



 永尾氏は、戦後帰国したこれらの兵士たちを捜し出し、尋ね歩こうとします。しかし事の性格からでしょうか、大半のメンバーからは会うことを拒否されました。

 氏は、「サイアム事件」などで名前が挙がった別所伍長を、アポなしで訪問します。


永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』

 テーブルをはさんで向き合い、私が質問を始めると、別所元伍長は腕を組んで目をつぶった。

 ― 人肉に手をつけた理由として、食べるものが無かったということの他に、人肉には塩分が含まれていたからということもありますか

 別所伍長はしばらく黙って考えていた後、目を開き答えた。

 「そういうことも、あったかもしらんな。とにかく塩分が不足しとったから

 さらに質問しようとすると、

 「全部知ってるんでしょう。もう勘弁してください」と言ったきり、黙りこくってしまった。(P86-P87)


 暗黙の肯定、と考えていいでしょう。

 氏はさらに、2名の元兵士から、「人肉食事件」を認める証言を引き出しています。


永尾俊彦『棄てられた日本兵の人肉食事件』

 この事件(「ゆう」注 二組の老夫婦を殺害してその肉を食べた「ティモアン事件」)について穂刈元軍曹と小早川元軍医から直接証言を得ることができた。

 私の取材に対して穂刈元軍曹は「男二人を殺したのは私だ」と証言した。ボロではなく軍刀で、それぞれに三回ずつ切りつけて殺した。それから首をはね、「豚の解体の要領」でさばいていった。

 「その時、どういう心理状態だったか自分でもわからない」と言う。

 そして解体した人肉をハンゴーで炊いた。しかし、いざ食べる段になり、肉を顔に近づけたとたんにガーッと嘔吐した。とても精神的に受け付けなかった。そして川原はたおれたままその晩は小屋に戻らなかったという。

 これに対して、小早川元軍医は、はっきりと人肉を食べたことを認めた。(P118)

 「その時は良心的なものは抑えられていたね。今で言う『心神喪失』というやつだな。戦争だからなにやっても仕方ないとは思わなかったが、仲間と一緒にやったことだし、大層なことをやったとは思ってなかったね。胃の中に入っちゃって、吐き出すわけにもいかないし・・・」(P119)

 


 被害者側証言に加え、戦犯裁判での供述、さらにその供述書を追認する証言。ここまで揃うと、一連の「住民襲撃・人肉事件」の存在を否定することはできないでしょう。


(2015.11.15)
  
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