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コスタクラシカ号乗船記 |
イタリアの豪華客船コスタクラシカ号は東アジアを中心に運行されている。出港地はシンガポール、香港、上海などで、時には日本にも寄港する。去る10月中旬には東京の晴海に寄港した。その際、船内見学会が催されIACE社のご紹介で参加したが、その後11月21日から28日まで、同船の香港からマニラ、コタキナバル、ブルネイを経てシンガポールまでのクルーズに参加した。以下はその乗船記である。 |
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《ハイライト》 出港早々にハイライトがあった。前日に成田を出て香港に1泊。夕方まで遊び回って、午後6時半過ぎに受付場所のオーシャンターミナルに行った。ティムサーチャイのスターフェリー乗り場に近い便利なところで、通常はここから出港するが、今回は急遽貨物ターミナルに変わったようだ。遅めに行ったのは乗船時の混雑を嫌ったためだが、早めに乗船して船内で飲食や遊びを楽しむ方が多かったようで、その時間に行ったのは私達とヨーロッパ人の夫妻だけだった。荷物を預け4人だけで大型バスに乗り30分ほどかけて乗船地に着いた。殺風景な埠頭に白いコスタクラシカ号の船体が浮かび上がっている。 受付の列は30人くらいに減っていて、あまり待たされずに乗船できた。荷物はまだ部屋に来ないので、メインダイニングで食事をしているうちに定刻の午後9時を過ぎ、出港となった。外洋までのコースか気になっていたが、窓外の様子ではどうやらオーシャンターミナルの近くを通って九竜と香港島の間のヴィクトリア湾を通り抜けるらしい。 そうなるとじっとしてはいられない。食後のコーヒーもそこそこに、船室にも戻らず最上階のデッキに急いだ。ここからがハイライトである。右手には香港島、左手には九竜のとりどりのビルやネオンが織りなす光の海が手に取るように見える。デッキは高さ数十メートルあるから、小さな船から見上げるのと違って、小高い丘の上から眺め回すようで迫力がある。それに船体自体がちょうど超高層ビルを横にしたような大きさだから、夜景と対等な気分になって来るのも不思議だ。折から香港は涼しさを通り越して肌寒かったが、部屋に戻って上着を取ってくる時間を惜しんで、プールサイドにあったバスタオルを引っ掛け、長い間遠ざかるヴィクトリア湾の光の海を眺め尽くした。 |
コスタクラシカ号(マニラ港にて) |
《航路と部屋》 このコースは南シナ海の縁を時計回りに一周する。熱帯・亜熱帯の海だからサンゴ礁が発達していて、大型船が陸地の近くを航行するのは難しいという。だから航路はほとんど外洋で、寄港地への出入りの時を除けば船からの眺めには恵まれてはいない。 入出港のひと時は心ときめくものだ。初めて見る山や丘、海岸線や島影の中から、寄港地の街並が次第に近づいて来る。また、出港は夕刻になるが、訪れたホテル遊歩道、展望台などが薄暮と港の灯に溶け込むように遠ざかって行く。一気に目的地と発着する飛行機では味わえない旅情が湧いて来る。 At Seaという一日中海上を走る日が3日あった。香港からマニラを目指した2日目はそもそも陸地に遠いから仕方がないが、フィリッピンのパラワン島に沿って走る4日目は、もしやと思って左舷から遠くを見つめたが陸地は見えなかった。ブルネイからシンガポールまでの6日目には、ナトゥナ諸島のそばを通過した。たまたま晴れていたので島影は見えたが、その風景を偲ぶには遠過ぎた。 船が揺れたのは2日目だけだった。船内で配られた新聞にも「波あり」とあったが、5万トンクラスの船でも揺れることがあるのだ。家内は朝食も昼食もとれず船室で横たわっていたので、乗船説明会も避難訓練も私一人が出席した。日本人はクラブツーリズムの大団体を中心に130人以上乗船しているそうで、コスタ社社員のアイさんとアツコさんが船内の施設や行事を親切に説明してくれるし、毎日、日本語の新聞も配られる。 夕方になると揺れが治まった。家内もそれまでの弱音が嘘のように、元気に夕食を食べられたのでほっとする。また、この日以降、二度と大きな揺れはなかった。 船室は5階のインサイド。同じ階にフロントがあって便利なところだ。部屋はあまり広くはなかったが、洋服ダンスや引出が沢山あるので、荷物を全部しまってスーツケースを始末してしまえばゆったりできる。小さな机と椅子、湯沸しポットもある。何しろ動くホテル、毎日、荷物を持って移動したり、チェックアウト・インの煩わしさなしに、TPOに合わせた服装で遊びや寄港地の観光に繰り出せる。土産を買い過ぎてもいちいち荷を造り直す必要もないから便利だ。 インサイドは閉鎖的な空間というのが弱点で、たとえば目覚めた時外の様子が分からない。しかし、テレビをつければ船の位置と進行方向などに加えて、船首と船尾からの風景が見えるチャンネルがある。ちなみにこの風景はインターネットを通じて、自宅からも見えたものだ。いずれ大きな壁掛けテレビと360度のカメラをつければインサイドの部屋の価値はずっと上がるだろう。 |
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《食事》 乗船中は、一日中どこかで食べ物にありつける。朝食は7時から10時まで、昼食は12時から14時などと決められているが、8階のメインダイニング「チボリ」でテーブルに着いたままコース料理のサービスを受けるのではなく、10階の「トラットリア」に行けば時間を外れても何かがあるからだ。「トラットリア」はセルフサービス専門だが、デッキにつながっているため、オープンエアの潮風と陽光の中で食事を楽しめる。バーベキューなどもデッキで行われるため、案外こちらの方に人気があった。 ディナーの時間は二回に分けられている。日本人の夕食は欧米人より早いので第一回目の6時15分から。テーブルも定められていて、いつも同じメンバーとご一緒になるはずだが、次々に出される皿の量の多さが敬遠されるのか、「トラットリア」へ行かれた方も多いようで、ずっとご一緒だったのはOさんのグループだけだった。内容は、前菜、スープ、パスタ、メイン、デザートのコース料理になるが、いずれも日替わりで、それぞれ3品ずつの中からチョイスできる。それに日本人等が多いことに配慮したためか、別に焼きソバや醤油で味付けをした肉、魚料理もあった。アルコール類は有料だがソフトドリンクスは無料。 夜更けの11時45分からは、ピザやケーキ、アイスクリームなどのサービスもある。大変、美味しいのだが、お腹が一杯で食べられなかったのが残念だった。 「トラットリア」のソフトドリンクはいつでも自由に飲めたが、雰囲気が楽しみたくなったら各階に様々なスタイルのバーが開かれており、カクテルやワインも飲めるが、これらは有料。支払いは全て乗船時に渡されたコスタカードで行い、下船日の朝までに届けられた請求書に問題がなければ、そのままクレジットカード払いになっている。 ディナーの際のドレスコードは、セーラ船長主催のパーティーの際がフォーマルだったほかは、特になかった。フォーマルといってもカジュアル船なので堅苦しいものではなく、見苦しくなければ良いという程度だった。ご婦人方はドレスや和服でお洒落をしたいので、フォーマルの日がもっと欲しかったようだが、困るのは男性の方。馴れた人はそれなりに楽しげな服装をしているが、フォーマルといわれるとつい正装が連想されてダークスーツのようなお堅い服装になってしまう。タンクトップやショートパンツで雰囲気を壊さないようにという趣旨ならば、エレガントとでも表現すれば、もっと男性もお洒落を楽しめるのではないだろうか。 |
船上デッキ |
《催しなど》 8、9階にまたがる「コロッセオ劇場」で、毎夜各種のショーがあった。ディナーの時間に合わせて、8時45分と10時30分の二回の公演。クルーズディレクターでもある堂々たる貫禄の美女モニアさんが、英、仏、伊、独など数ヶ国語を駆使して立て板に水の司会をする。フレーズは少ないが日本語と中国語の挨拶も混じえてくれる。 演目は毎日異なり、器楽と歌唱のバラエティーショー、パントマイムと奇術、グループダンス、フラメンコとタップダンス、上海雑技など様々だったが、面白かったのはインスタントファッションショー。タイトルからは内容が想像できなかったが、舞台に飾られた一枚の布が美女にまとわれて次々に華麗なドレスに化けて行く。その見事さにわれを忘れて拍手した。 昼間はデッキで輪投げなどのゲームがある。偶然通りかかったら、柔らかいボールによるバスケットのシュートコンテストが行われていた。二人で参加したら、どういう偶然か家内がウイナーになり、コスタのロゴ入りポーチをゲットできた。マージャン室には常に何組かの常連がいた。Oさん達と賭けなしの健康マージャンを楽しんだが、さすが公海の上、傍らでは中国の客が人民元を山積みにして熱中していた。カードゲームのお誘いもあり、決められた時間にゲーム室に行くと、三々五々集まった同好の士と一緒にコントラクトブリッジが楽しめた。メンバーは北欧からオーストラリアまで国際色豊かだったから、作戦には大きな違いがあったが、ゲームのやり方は万国共通。メンバーを入れ替えて楽しむことができた。その他、様々なゲームやスポーツ、ビンゴ、セミナー、クラフトの教室などが催されており、国際色豊かに和気あいあいと楽しんでいる。こういう催しは寄港中にも催されているが、上陸せずに船内で遊んでいる人も多いのだろうか。夜はいくつかのホールで音楽の演奏があり、フロアは狭がダンスもできる。何十年ぶりかのステップがうまく踏めず、お相手していただいた方にご迷惑をおかけした。 総じて日本人の乗客はイベントに良く参加している。全乗客の中の割合は1割程度と思われるが、劇場やダンスホール、ゲーム室では日本人の姿がかなり目立った。これに対してデッキやプールサイドで日光浴をしているのは圧倒的に欧米の方々である。プールは二つあったが、あまり大きくはなかったので、泳ぐというより漬かるだけだ。その他、あまり利用しなかったが、カジノやビューティー・スパ、サウナ、ジムもある。免税品店は航行中だけ開店していた。薬局や病院もあったが、幸いお世話にならなかった。 |
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《寄港地1 マニラ》 最初の寄港地マニラの岸壁では民族衣装を身につけた踊り子達が、十数人ずつ二組に分かれて歓迎の踊りを披露してくれた。強烈な太鼓のリズムに乗って激しい身振りの踊りが展開される中、船はゆっくりと着岸する。 オプショナルツアーも用意されていたが、気の向くままに市内見物をすることにした。港はマニラ発祥の地イントラムロスに近く、マニラホテルも間近だった。イントラムロスを囲む城壁の外堀はゴルフコースになっている。街のど真ん中でゴルフをするのはどんな気分なんだろう。 サンチャゴ要塞、リサール記念館やマニラ大聖堂、リサール公園などの名所めぐり、暑さを凌ぐため都心にあるハイアットホテルで休憩した。その後、マニラ随一のショッピングタウンのマカティーへ向かう。タクシーがバカ安い。初乗り料金は30ペソ(60円)で、2,5ペソ刻みにしか上がらない。都心からマカティーまでの距離は銀座、新宿間くらいだろうか、渋滞で30~40分かかったのに120ペソにしかならない。しかも車はピカピカな新車、これで商売になるかと心配だった。なお、買物の際は円やドルがそのまま使える。レートはどこでも100円=1ドル=50ペソ。簡単でいいが、円高など一切関係ない大らかさである。 マカティーは、まるで砂漠の中のオアシスのように、ゴミゴミした街の中に、突然出現した贅沢で洗練された空間だ。遊歩道と植物園を思わせる植栽に囲まれて、高級ブランドの店などが立ち並び、行き交う人もお洒落で垢抜けしている。あまりの落差に呆然とし、こういうところと無縁な普通のマニラ市民に同情したほどだ。 残念ながら月曜日で、ほとんどの博物館、美術館は休館なので、唯一開館しているココナッツパレスへ行った。マルコス元大統領が造った迎賓館で、マニラ湾を臨む部屋々々は伝統的な木造建築。庭には椰子の木に囲まれたプールもある。ガイドの案内で、大統領やイメルダ夫人、賓客の部屋、会議室などを回ったが、その間他の客もなく極めて静かだ。帰ろうとしたらスコールに遭った。タクシーを呼ぼうと思ったが、出港まではまだ間がある。できれば名高いマニラ湾の夕陽も見たい。 雨は小一時間で止んだので、マニラが誇るロハス大通りの海辺の遊歩道を歩く。車道との間には椰子の並木が続き、ところどころにジャスミンの花も咲いている。市民の憩いの場、デートスポットにはぴったりなのだろうが、いかんせんゴミが散らばり、湖のように静かなマニラ湾の水もきれいとはいえないのが残念だ。天気はそれほど回復せず、夕陽を見ることはできなかった。 |
バンダルスリブガワン、オールドモスク |
《寄港地2 コタキナバル》 この港でも踊りに出迎えられた。おまけに下船に際して、きれいなお嬢さん達が首にレイを掛けてくれる。 この街は植民地時代から行政の中心地として発達したそうで、歴史的遺産には乏しい。本来なら高原まで行ってキナバル山を見たかったのだが、天気予報が良くなかったので諦めた。港はちょうど街外れ。徒歩でも15分程度で中心部まで行けるようだが、この街の見どころは反対側の街外れにあるサバ州立博物館だ。港を出ると早速、タクシーの運転手に取り囲まれる。メーター制でなく交渉制なのでややこしい。博物館までというと、まず30ドルと吹っかけ、20ドル、15ドルと値を下げ、結局0ドルで妥協した。 博物館は本館と美術館、科学技術館、イスラム博物館、民家園などの複合体で、建物自体も伝統的な建築を模している。初めに先史時代の遺跡を含むレプリカの鍾乳洞を通り抜けるようになっていて、これは面白いと期待したものの、その後は考古学、歴史、動植物、民族、各地の結婚式の衣裳などと分かれている。一休みしていると女性職員がお一ついかがとトレーを差し出してくれた。海ぶどうだというと、そう海ぶどう、海ぶどうと日本語を知っている。美術館は改装中で休みだった。 タクシーの運転手がしつこく迎えに来るというので根負けして頼んだら、シグナルヒルの展望台へ行こうと誘う。20ドルだというが、街へ戻る途中でちょっと丘の上に行くだけなので15ドルだぞといったが、返事がないまま、気がつくと坂道を登っていた。街を見下ろす展望台の眺めは昔ならいい風景だったのだろうが、街には中高層ビルが林立しているので、その切れ目から海が見える程度だ。期待していたコスタの船体もビルの陰だった。 丘を降りると、今度は市内見物を持ちかけてくる。しかし、この街には短時間に行ける見所はない。州立モスクだのタンジュンアルだのと誘うが、モスクは博物館の近くから見えたし、ホテルとゴルフ場を見ても仕方ない。船が出るまでどうするのかというから、少し休んで街をジャラン、ジャランだと答えた あるショッピングセンターの前で降りると、彼は当然のように20ドルを請求する。15ドルといったじゃないかと押し問答の末、間をとって17ドルだと小銭を渡したら諦めたらしい。 コタキナバルには大小様々なショッピングセンターがある。その上、個人商店も多く、商店街が賑やかなのも近頃、珍しい風景だ。海辺に沿ってフィリピンマーケットとかセントラルマーケットというバラックの市場もあったが、値段が安いわけでもないので、冷えたココナツの中のジュースを飲み、果肉をすくって食べる程度に止めた。いわゆる土産物のほか、インドネシア製と思われるバティックの布や衣料品も売っていたが、マーケットより街の個人商店の方が品揃いも多く値段も安かった。 通りかかったホテルのロビーで休憩したら、偶然にもまたハイアットだった。出港には間があったが、蒸し暑さに汗をかいたので、徒歩で船に戻ることにした。タクシーを呼べばすぐなのだが、交渉がくたびれる。そういえば、欧米人達も船を目指して三々五々歩いている。マニラでもそうだったが、船の乗船口の傍に露天が出ている。空港の売店と同様、余ったペソやリンギットを使い切らせる作戦のようだ。 《寄港地3 バンダルスリブガワン》 ブルネイの首都バンダルスリブガワンはコタキナバルからさして遠くない。何で一晩かかるのかと思ったが、サンゴ礁に妨げられて真っ直ぐには走れず、かなり沖合まで出なければならないのだそうだ。また、ここの港は街から遠い貨物の専用港だから、バスのような公共交通手段はないという。またブルネイにはタクシーは43台しかなく、港までは来ないそうなので、マングローブサファリというオプショナルツアーに参加した。 観光バスで街の中心まで行き、スピードボートに乗り換えて、ブルネイ川沿いのマングローブの林の中を進み、野生の猿や爬虫類、鳥などを眺めた後、前国王が建てたオールドモスクに立ち寄り、最後は水上集落を訪れるというプランだ。 川沿いに船で動物の生態を訪ねるツアーはコスタリカなどでも参加したことがあるので、それなりに期待したが、ここでは動物相は豊かとはいえず、ところどころで接岸した茂みの中などで、遠くに小型の猿、近くで目を凝らせば蛇やトカゲ、ワニなどが見える程度だった。川からは、熱帯雨林越しに王宮の大きな屋根と金色のドームが見える。二千近い部屋をもつ壮大な宮殿だが、公開はラマダン明けの3日間だけだという。オールドモスクも金色のドームと御影石の純白の壁をもち、周囲の堀には石造りの御座船が浮かぶ壮大なものだが、トルコやエジプトのものと違って歴史の重みがない。 現地語でカンポン・アイルという水上集落は、干潟などの浅瀬に支柱を立て、その上に作られた住宅群で、昔はどこにでもあったらしく、コタキナバルの街中にもその名が残っている。ツアーでは、その一軒を見学しお茶とお菓子をいただいた。駐車場に車を止め、水の上に作られた木道を通って、その家を訪ねると、一家17人という大家族が歓迎してくれた。内部は近代的な装飾で飾られ、冷房完備。電化製品に溢れており、ブルネイの豊かさが垣間見られた。 沿道から見る風景もさすがにお金持ちの国らしく、政府の役所、オフィスビル、マンションなど、皆、瀟洒で立派だ。道路もさして広くはないが良く整備され、けばけばしい広告もなく、東南アジア離れした風景になっている。しかし、ブルネイ川や水上集落周辺の水路はゴミで一杯だった。ところかまわずゴミを捨てる風習は豊かさでは解決できないらしい。何でも罰金で強制しようとするシンガポール政府の政策がこの時ばかりは理解できたような気がした。港には露店ではなく、事務所の中に売店があり、Tシャツや絵葉書などブルネイの土産を売っていた。価格は全てドルまたはユーロ建て、滞在も短かったが、とうとうブルネイドルにはお目にかからなかった。 《下船》 楽しいクルーズはあっという間に終わり、シンガポールで下船となる。ただし客の大部分はそのまま香港まで戻るらしい。昼食でご一緒したフランスの老夫妻はホーチミンを訪ねるのを楽しみにしているという。かつてサイゴンと呼ばれていた頃、住んでいたことがあるという。戦前の話かと聞くとウイと答えた。だから、前夜、船長が催してくれたお別れパーティーに参加したのは日本人客を中心に200人前後に過ぎなかった。 最後の夜というので心残りのないように遊び、船室に戻って荷造りをすると夜もふけてしまった。早起きをしてシンガポール海峡の風景を見ようというプランは脆くも崩れ、デッキに出た時には船の右手にセントーサ島のロープウエイやマーライオンの頭が見えた。慌てて下船する必要もないので、ゆっくりと最後の朝食をいただいている間に、船はハーバーフロントにも近い埠頭に接岸した。反対側にはコスタ社の僚船、コスタアレグラ号が横付けされている。クラシカ号より一回り小さい。帰国後、IACE社の南さんから、この船での2週間の旅を勧められた。シンガポールを出て、セレベスのウジュンパンダン(マカッサル)、コモド、バリなどを巡る旅は魅力的だが、最後にマラッカ海峡を北上し、プーケットで2連泊するようなプランが平凡だ。モルッカ諸島のアンボンに足を伸ばしたり、スマトラのパレンバンに寄港してくれれば、喜んで参加するのだが、多分、受け入れ体制がないのだろう。平和が続き、地域も発展し、早くそんな日が来ないかと思う。 船旅の終わりもあっけない。入国の手続きも順調で、前夜、廊下に出しておいたスーツケースは下船とほぼ同時に所定の置き場に配達されていた。タクシーを拾って都心のホテルに着いたらまだ朝の9時だった。 |
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(2009年12月 いなば きよたけ様) | |