xckb的雑記帳

15年ほどWeb日記をつけ続けていたのですが2012年で一旦休止、1年半ほど休んで新天地でぼちぼちのんびりまた始めてみることにしました。

そろそろ「宇宙よりも遠い場所」についてちゃんと語ろう

さて、2018年冬アニメ「宇宙よりも遠い場所」が最終回を迎えて1週間と少し経った。あくまで私見ではあるが、まさに何年かに一度レベルの傑作と呼ぶのにふさわしい作品だったと思う。自分が大好きな作品を引き合いに出すのであれば、たとえば「四月は君の嘘」のように感情を激しく揺さぶられ、「SHIROBAKO」のようにオリジナル作品でありながら笑いあり涙ありでストーリーに引き込まれ、そして「魔法少女まどか☆マギカ」のように1クールという枠を極限まで利用し尽くした作品だ、と言ってもいいのではないかと考えている。これは新しいマスターピースが、南極という想像だにしなかった舞台から生まれてきたのかも知れない。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」OP

ということで、書こうと思えばいくらでも書けてしまうような気がするのだが、ここでは、とりあえず思いついた3つの視点から、この「宇宙よりも遠い場所」という作品について語ってみたい。なお、以下の内容には多くのネタバレを含むため、未見の方はまず最終回までネタバレ無しで全て見てから続きを読むことを強くお勧めする。Amazonプライムビデオdアニメストアなどで、今でも全話配信している。全部見ても合計13話、6時間ほどだ。それだけの時間を費やす価値は、多分ある。

では少しスペースを挟んで、本題に入ろう。

無駄のない古典的なストーリー構成の中の新しさ

「毎回が神回」「毎回が最終回」「軽くシネマっすね」のような評もよく聞かれたが、この作品は実に1話1話の独立性が高く、それぞれ1本の、25分間の短編映画と言っていい完成度である。基本的に何らかの問題が、起承転結をしっかりと付けた形で毎回その話数の中で解決に向かう。そして最後に挿入歌が流れるとともに見る者の感情を揺さぶる形でその問題が解決し、見事なほどに後を引かない。特別な構成であった第12話、第13話(最終回)を除けば、まさにある種の時代劇のように、一つの黄金パターンが確立していたとも言える。だが実際は、それぞれのエピソードの中で主人公たちは少しずつ成長し、人間関係が変化し、さらに次のエピソードにその変化が活かされていく。実に巧みである。

たとえば、第1話で挿入歌が流れ始めるタイミングはここだ。この物語のすべてがまさに走り始める瞬間である。

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報瀬「じゃあ、一緒に行く?」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 01

ちなみに挿入歌はどれも名曲揃いだが、その中でも何と言っても、このシーンでもかかっていた「ハルカトオク」は最高だった。もうこの曲が流れるだけで、条件反射で涙腺が緩むように訓練されてしまった視聴者も多いだろう。

ハルカトオク

ハルカトオク

同じ時期に放送されていた「ポプテピピック」が、大胆にアニメの文法の解体・再構築を行った作品として評価されているのとは対象的に、この「宇宙よりも遠い場所」は、あくまで王道かつ古典的なアニメの文法を守った上で、とても引き込まれる物語を作っている。その一方で、それぞれの「短編映画」のテーマに関しては、古典的なものだけではなく、新しい視点が目立つところがいい。

特に第11話での、日向の過去にまつわる問題の「解決」や、第12話での報瀬が母親の死を受け止めるストーリーなどは古典的な物語構成から大きく外れて、ある意味とても現代的である。

特に第11話に関しては、似た問題について既に第5話で、キマリとめぐみの友人関係における問題として扱われている。そしてそこではより古典的な形に近い「解決」がなされているということで、この2つの物語の違いについて考えることができるし、さらにその第5話におけるキマリの結論が、第10話で結果として人生初めての「親友」という概念に戸惑う結月を救うことにもなるのだ。実に巧みである。

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キマリ「絶交無効」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 05

めぐみは(自業自得ではあるのだが)素直に自分を責め、キマリの旅立ち前に謝ることのできる最後のチャンスに、許されることなど全く考えずに一人で謝罪に来た。一方日向の元友人たちは、公開されたネット中継という場所で、断ることの難しい状況に日向を追い込むことで、(おそらく彼女らには何の自覚もなかっただろうが)日向をさらに傷つけようとしていた。キマリはめぐみを許し、そして日向も少なくとも表面上は元友人たちを許すつもりだった。しかし報瀬はかつて日向が傷つき、そして今再び傷つこうとしているような事態を自分が許せないから、日向から頼まれてもいないのに全てをぶち壊し、「自分の友達を傷つけた」日向の元友人たちを一方的に断罪した。

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報瀬「それが人を傷つけた代償だよ、私の友達を傷つけた代償だよ!」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 11

ここで元友人の姿が全く映されず、視聴者の想像に任せられるところはさらに素晴らしい。

あらためて見直してみると、同じ第11話の前半で、麻雀を全く知らないキマリが報瀬の後ろについて、無邪気な会話で手牌をバラしはじめたことで報瀬を激怒させた後の、この会話が面白い。

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キマリ「『出てけーっ!』って」
結月「ひどいですねー」
キマリ「でしょ? ちょっと訊いただけなのに」
日向「元々報瀬は心が狭いからなー」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 11

麻雀というゲームの文法を前提とすれば、全く正当な報瀬の怒りが、本人の心が狭いことに勝手にされている。しかも日向によってだ。様々な断絶があれば人の間で意識の差は生じるし、それによって誰かにとって当然のことが、他の誰かにとっては許せないことになったりする。

あの日向の元友人たちにも何らかの理由はあって、仕方がない事情があったのかもしれない。日向はそれを無理やり理解しようとしている。でも報瀬はそれによって親友が傷ついたことと、これからさらに傷つくであろうことが許せない。たとえ日向が許そうとしても自分は許さない。そして日向に気を使うためではなく、自分の価値観のために日向ができなかった行動を起こす。そんな親友ができた日向、そりゃもう最高に嬉しいだろうよ。

そして一方のキマリとめぐみに関しては、最後の最後、まさに大オチにこれだ。散々笑って泣いたこの「宇宙よりも遠い場所」のストーリーが、この大爆笑と「よかったね」との想いで締められるこの充実感。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 13

恋愛成分ほぼゼロで、これだけ熱い友情の物語ってなかなか最近のアニメで見ていないと思うんだよな。

台詞によらない表現、象徴物の変容

アニメとしての表現という点では、時に台詞による説明を大胆にカットして絵で見せる場面が印象的である。しかし、それによって難解になってしまうのではなく、むしろそれらの表現が非常に効果的であり、言葉で表現されるよりも遥かにわかりやすく、なおかつ心に響く表現となっていたりするところが本当に素晴らしい。

そのような隠喩的表現が託される対象物は、時に「しゃくまんえん」の札束だったり、電子的なコミュニケーションツールだったり、食事だったり麻雀だったり野球だったり、果てはみんなで吐いてるゲロだったりするわけだが、特に何度も登場する対象物は、ストーリーの進行に応じて様々な意味が付与されていて興味深い。

たとえば「しゃくまんえん」の役割は、第1話においてはキマリと報瀬を結びつける舞台装置であり、全ての物語が始まるキーポイントであるが、第2話の新宿ルノワールでの会話シーンにおいては、報瀬の持つ覚悟や万能感と、一高校生が社会にぶつかる時に感じる無力感の双方の象徴となっている。そして第6話での「しゃくまんえん」は、報瀬が仲間に対して持ち始めた親友意識が、ほんのりアスペルガー風味の報瀬の様々なこだわりを別の方向に向け直して、最高にカッコいいイケメン女子に変身するためのキーアイテムとなっている(まあ、オチが酷いんだが)。

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報瀬「気にするなって言われて気にしないバカにはなりたくない! 先に行けって言われて先に行く薄情にはなりたくない! 4人で行くって言ったのに、あっさり諦める根性なしにはなりたくない! 4人で行くの、この4人で! それが最優先だから!」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 06

第12話での「しゃくまんえん」は、この物語における「言葉による説明が全くない表現」の代表格と言えるだろう。ここでの「しゃくまんえん」は、報瀬が「母のいる」南極を目指してひたすら努力してきた過去の日々の象徴として描かれる。そして最後の第13話では、かつて自分が望んだ以上のもの、つまり最高の親友と母の「魂」を既に手にしていたことを自覚した報瀬が、おそらくかつての母のようなユーモアで、ボロボロになった「しゃくまんえん」の封筒に「おたから」と茶化すように書き加えた上で、母のいた場所、「宇宙よりも遠い場所」である南極に置いてくるのだ。

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報瀬「…レジ…配達…レジ…」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 12

なんという巧みな小道具の使い方なんだろう。

そして何と言っても、第12話での淡々と未読のメールが母の形見のPCに取り込まれるシーン。無言でただひたすらPCのメーラにメールが取り込まれるだけの、ある意味これ以上散文的な風景はないと言ってもよいシーンに、これほどの重い物語を持たせて、感情を鷲掴みにするような演出があっただろうか。その流れる文字列の向こうに去ってしまった母を感じて嗚咽する報瀬と、閉じたドアを挟んで、それでも廊下で共に号泣してくれる3人の親友たち。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 12

まごうことなき神回中の神回である第12話の最後を飾るこの演出。これを超えるようなTVアニメのエピソードは、まあ当分現れることはないのではないかと思う。

少し話はそれるが、リアルタイムの電子コミュニケーションツールとしてのLINE的なものと、非同期コミュニケーションツールとしてのメールの使い分けが面白い。後者の最大の例は上で触れた報瀬の「Dearお母さん」のメールだろうけれども、その他にも日向に送られた元友人たちからのメール(多分読んでない)や、この信恵さんのゆーくんメールなどがあったりする。第11話ラストで、信恵さんが届いてほしいとずっと思っていたメールがやっと届いたと思えば…。

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信恵「来た! ゆーくん! ゆーくん! ゆーくーーーーーん!」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 11

第13話ではもう届くはずはないと理解していたはずのメールが突然届き、物語の最後にまさにオーロラのような素晴らしい彩りを残す。実に素敵な演出である。

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報瀬「知ってる」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 13

反復するモチーフ

アニメとしての表現としては、反復されるモチーフも実に巧みだ。そもそも第1話で自室のベッドに寝転がるキマリから始まって、第13話のラストで同じベッドに寝転がるキマリで終わるという、ストーリー全体もそういう構造だったりして、もう沢山ありすぎて紹介するのも大変なのだが、いくつかお気に入りのやつをピックアップしてみたい。

まずは、最終回を見た上で2周以上した人なら確実に気がつくだろうこの第3話の「ね」と第10話の「ね」。多分第3話の「ね」がなんとも眩しく羨ましかった結月。

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キマリ「ただ同じところに向かおうとしているだけ。今のところは。…ね?」
報瀬「ね」
日向「ねー」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 03

それが第10話の最後では、自ら自然に「ね」を使えるようになっていることで、結月の中に「友人」という概念がしっかりと根づいたことが確認できるところが実に良い。

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キマリ「わかった、友達って多分、ひらがな一文字だ」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 10

そう言えば第10話では、「既読」の振る舞いなど、LINE使っていれば常識だろうと思う部分も、とても解説には思えないような台詞の中で、なにげにさらっと解説を入れている。これはLINEがほとんど使われていない国外での視聴者や、あるいは何年か後にこの作品を見る人にも、シーンの意味やニュアンスをより正確に伝えようとする意図が感じられて、実に良いと思う。

同じ状況とかいうだけではなく、全く同じアングルのシーンが繰り返される演出もいくつかある。その代表格が、以前館林の聖地巡礼をした時にも取り上げた、この第2話で報瀬とキマリが東屋で話すシーンだろう。

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キマリ「ごめーん!」
報瀬「時間は厳守。南極行くならなおさらよ」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 02

実は第7話の過去の回想シーンで、全く同じ場所の全く同じアングルで、貴子が吟を南極に誘っているのだ。このシーンを見比べると、南極に誘うのは「貴子 → 吟」「報瀬 → キマリ」なんだけれども、キャラクターの雰囲気的には「貴子 ≒ キマリ」「吟 ≒ 報瀬」っぽく見えるんだよね。

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貴子「ねえ吟、南極行きたいと思わない?」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 07

それを踏まえた上で、たとえばこういうシーンを見てみると、吟はキマリの中に過去の貴子の姿の一面を見ているようにも思えるし、もしかすると報瀬も(意識しているかどうかわからないけれども)、キマリの中に自分の母のイメージの片鱗を見ているのかもしれない…、気がする。

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キマリ「いいですよね面倒くさいの」
吟「南極向きの性格ね」
出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 04


個人的にかなりグッとくる、反復されるモチーフはこれだ。第5話で南極に旅立つ報瀬を送るおばあちゃんが仏壇に手を合わせる姿。娘が生きて帰ってこれなかった地に、それを心では納得できていない孫が旅立つというのは、一体どんな気持ちなのだろう。どんなことを帰ってこなかった娘に祈っているのだろうか。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 05

そして最終回のEDで、南極から帰ってきた報瀬は、やっと母の死を受け止め、おばあちゃんと一緒に自然に仏壇に手を合わせる。そしておそらくおばあちゃんも、やっと娘が孫に連れられて帰ってきた、ということを感じられたのだと思う。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 13

この最終回のEDに関しては、その他にもたくさんの反復するモチーフが登場している。たとえば第2話と最終回EDで同じように茂林寺に参拝する日向は、どのように違った心境で参拝したんだろうとか、第1話で「ここではないどこかに旅立とう」と所在なさげに駅のホームに佇んでいたキマリは、最終回のEDで家に帰るべく成田空港駅のホームでしっかりと立って列車を待っていたりとか、第5話の新千歳空港で、母と別れて南極に旅立った結月は、最終回のEDでどれだけのあふれる想いで、同じ場所で母と再会したのだろうとか、この最終回EDでの4人それぞれの「反復するモチーフ」は全て、とても深い感情の動きを想像させられるものとなっているところが、とても素晴らしいと思う。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 02, 01, 05

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 13 ED

もう、この作品を語ろうとするといくら書いても止まらなくなってしまうのだけれども、とりあえず本稿はこのくらいで筆を止めておこうかと思う。

他にも、主人公4人のキャストの素晴らしい演技。南極の風景をとても美しく再現してくれた美術。数多くの笑いや涙とともにあった素晴らしい劇伴。日常に近い館林の街から、行ったことのない南極の世界までを自然に感じさせてくれた音響(特に第12話で、雪上車で内陸に向かうときのブリザードや氷の音などは本当に素晴らしかったと思う)。非日常の世界がだんだん日常と化してくることを端的に表現してくれた、昭和基地生活の徹底的な取材。…などなど、そういう様々な要素が見事に組み合わさあってできた傑作と言えるだろう。

より多くの人に届き、2018年を代表する傑作として「宇宙よりも遠い場所」は長く語り継がれてほしいものだと思う。

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出典:「宇宙よりも遠い場所」STAGE 13

この素晴らしい作品を作り出してくれたスタッフに感謝。

さあ「旅」に出よう。