陸上自衛隊が派遣されたイラクは「停戦の合意」がなければ派遣できないPKOとは異なり、米軍と武装勢力が戦闘を続ける「戦地」だった。
巻き込まれることがないよう政府は派遣先を「非戦闘地域」とし、隊員600人をイラク南部のサマワ市に送り込んだ。
「非戦闘地域」だったにもかかわらず、2004年1月から06年7月まで2年半の派遣期間中に、13回22発のロケット弾が陸上自衛隊のサマワ宿営地に向けて発射された。
うち3発は宿営地内に落下、1発はコンテナを突き破っている。不発弾で炸裂はしなかったものの、常に隊員は命の危険にさらされていたことになる。
宿営地の隊舎・宿舎はテントからコンテナに替わり、コンテナの屋根と壁には土嚢が積まれて要塞化した。防御が固まると、隊員は不用な外出を避けて宿営地に籠もった。
2005年6月23日には、前後を軽装甲機動車で警護された高機動車2台の自衛隊車列がサマワ市を走行中に、道路右側の遠隔操作爆弾が破裂した。高機動車1両のフロントガラスにひびが入り、ドアが破損した。
爆発直後に、軽装甲機動車の警備隊員らが車載の5.56ミリ機関銃を操作して弾倉から実弾を銃内に送り込み、発射態勢を整えた。移動中だった隊員約20人は武器を所持しており、そのうち何人が実弾を装てんしたのか判明していないが、犯人が銃などで襲撃していれば、撃ち合いになった可能性がある。
防衛省は、ロケット弾攻撃を受けた回数も、実弾装てんの事実も、ともに発表していない。上記の事実は、当時私が取材し、東京新聞・中日新聞に掲載された。
またイラクに派遣された陸上自衛隊5600人のうち、15年6月までに自殺した隊員は21人にのぼる。派遣に際し、精神面で問題がないことを確認し、活動期間もPKOの半分の3カ月と短かったにもかかわらず、彼らは在職中に自らの命を絶った。
医師であり、隊員だった2佐の医官はイラク人に医療指導をする一方、隊員の健康を管理する立場だった。帰国後、不眠を訴えるようになり、自殺。警備隊長だった3佐は帰国後、日米共同訓練の際に「米兵に殺される」と叫んで錯乱、後に自殺した。3佐の地元部隊では、「部下が米兵から誤射されそうになった」、「米軍と撃ち合った」など、さまざまな噂が飛び交った。
防衛省は自殺者の階級、任務、原因などの一切を「プライバシーの保護」を理由に公表していない。
今回見つかった日報は延べ408日分、1万4000ページに及ぶ。内容はまだ発表されていないが、この中に、このような自衛隊攻撃の全貌や隊員の自殺につながる事案が記載されている可能性がある。
撤収に際して会見した当時の小泉純一郎首相は「このイラクに対して行った様々な措置、正しかったと思っています」(2006年6月20日)と述べ、イラク派遣を成功と位置づけている。
「成功の誉れ」を根底から揺さぶる事実が日報に書かれているとすれば、公表をためらったとしても不思議ではない。