全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第11弾は、香川伸行さんの登場です。浪商(大阪、現大体大浪商)時代の1979年(昭54)、夏の甲子園で3試合連続本塁打の離れ業。「ドカベン」の愛称でも親しまれました。52歳で亡くなった香川さんの高校時代を12回の連載でお届けします。
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香川が黄泉(よみ)の国に旅立ったのは3年前のことだ。2014年(平26)9月26日。心筋梗塞。52歳だった。「ドカベン」と称された浪商のスラッガーは、79年夏の甲子園で史上初の3試合連続本塁打の離れ業を演じた。徳島生まれで、ナニワで育って、博多に移り住んだ。
最後にたどり着いた安住の地は、福岡市内から車で南東に1時間半ほど走ったひっそりとした町だった。「訓明(くんみょう)院球道伸行居士」-。その戒名とともに香川は遺影の向こうでほほ笑んでいる。香川の闘病生活を支え続けたのは、夫人の弘美だった。
香川弘美 あの日は突然、娘の優瑛から「パパが変なことになっとる」と電話をもらって出先から急いで家に帰ったんです。夫は自室のベッドの下にうつぶせになって、目を見開いたままぐったりと倒れていました。私は「帰ってきて!」と泣き叫びながら必死で心臓マッサージをしたんです。最期をみとれなかった自分に腹を立てたのか、「なんで今よ、なんで1人でいくんよ!」と、とり乱していたと思います。
香川にとって3人目の夫人になった弘美は同い年で、2人は高校時代に出会っていた。浪商3年の香川が夏の大会後に高校日本代表でハワイ遠征に参加した際、筑紫女学園(福岡)のソフトボール部に所属していた弘美も日米親善試合のため同地を訪れていた。
弘美にとって香川は「テレビにでている人気の高校球児」というぐらいの存在でしかなかった。ちょうどマウイ島内の同じホテルで鉢合わせしたとき、弘美とチームメートが宴会場で食事をしていた香川を見つけて記念撮影をせがんだ。そこからの2人はそれぞれの道を歩んでいく。
香川は甲子園のヒーローで、華々しい実績とともに南海ホークス(現ソフトバンク)入り。その後2度の結婚を経験する。一方の弘美は、東京女子体育大を経て地元福岡で中学教師に就いた。その間に何度か連絡を取り合ったが、後々になって2人が一緒になるとは想像できるはずもなかった。
現役引退から11年がたった00年、2人は運命の糸にたぐり寄せられたように再会して婚姻届を出す。香川は少年野球を指導しながら事業に乗り出したが、01年以降は急性腎不全、心不全、脳梗塞などを患って入退院を繰り返す日々。その間、週3度の人工透析を受けながら病魔と闘い続けた。
波乱の人生を連れ添った弘美は、1度だけ野球に打ち込んだ高校時代について聞かされたことがある。
弘美 明日からどうやって食べていくの? という時期もありました。私はどちらかというと枠のなかに育ってきたので、すべてに自由奔放だった香川の生き方は驚きでした。でも野球が本当に好きな人で…。いつか高校野球のことを聞いたんです。彼は「おれって、怖いもんなかったもん。高校んときはなんにも怖いもんなかったんよ」と言うんですよ。
公称は体重92キロ。しかし実はゆうに100キロを超える巨漢だった。水島新司の野球漫画「ドカベン」の主人公、山田太郎に似ていることからそのニックネームがついた。浪商の正捕手として3度の甲子園出場。超高校級スラッガーだった早実・王貞治も、怪童と称された高松一・中西太も実現できなかった3戦連発。ドカベン香川は甲子園の星として輝いた。(敬称略=つづく)
【寺尾博和】
(2017年7月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)
◆香川伸行(かがわ・のぶゆき)1961年(昭36)12月19日、徳島県生まれ。浪商(現大体大浪商)3年時の79年センバツで準優勝。同年夏の甲子園では3試合連続本塁打。太めの体形の捕手だったことから、野球漫画にちなみ「ドカベン」の愛称で人気を集めた。79年ドラフト2位で南海入団。1年目の80年7月8日近鉄戦(日生)でプロ初打席初本塁打。4年目の83年には、規定打席不足ながら打率3割1分3厘でベストナイン。89年限りで引退。通算714試合、打率2割5分5厘、460安打、78本塁打、270打点。14年(平26)9月26日、心筋梗塞のため52歳で亡くなった。現役時代の公称は170センチ、96キロ。右投げ右打ち。