※注意。本稿は某文芸誌による、
・高橋源一郎『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』(集英社)・いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』(集英社)・奥泉光『雪の階』(中央公論社)を同時に書評せよ、という依頼に応えて執筆されたものだが、校了直前に文中にある「こどもだまし&おためごかし」という言葉を変更または削除しなければ掲載しないと言い渡された。私の主観では「こどもだまし」なのは事実なので、頷くことができず、結果、不掲載の憂き目にあってしまった。依然として依頼主に特に恨みをもっているわけではないが、せっかく書いたのだから多くの人に読んでもらいたく、ここに公開する。
国家(政府)と社会(民間)を峻別して後者の自由を最大化しようとする思想をリバタリアニズムという。絶対の自由を謳うアナーキズム商品がいささか無邪気に並ぶ昨今、もう少し大人びた仕方で国家の中の自由を構想する小説が連続して三作出たことを先ずは寿ぎたい。絵空事の自由度を最大限引き延ばそうとする文学的リバタリアニズムがここにある。
高橋源一郎『ぼくたち』は、小学校の自由課題で勝手に「くに」を造ろうとした子供達の、無邪気だがそのぶん鋭い観察眼が光る社会批評小説である。とはいえ、少年の心を忘れてしまったせいか、私はこの本のよい読者ではなかった。仮構された子供目線からの疑問のアレコレも、こどもだまし&おためごかしのようにしか思えず、「ぼく」(ランちゃん)が喋るたびに「うるせー、バーカ!」と言いたくなる衝動に何度も襲われた。黙って木村草太の本でも読んどけよって感じである(最近、髪のびたよね)。
が、本書の秀逸は、偏見のなき純粋なまなこから見える真の世界などはないのは勿論のこと、皇室を連想させる「不思議の国」描写や南方熊楠の挿話の取り入れ方でもなく、妊婦に電車の席を譲らない中年男性に対して常用しているアイスピックを片手に「公衆道徳を守りましょう」と脅迫してくる、ヤンデレ母さんの造形にある。帰りの遅い共働きの一家で育ち、冷蔵庫のメモ書きを介して両親と言葉を交わしていた彼女は、冷蔵庫を見るだけで所有者の人となりが分かるという冷蔵庫別人間診断とでも呼ぶべき特技を身につけ、「ぼく」の父の家に最初に訪れた際も第一に冷蔵庫を観察するという失礼極まりない狂気に満ちみちている。おかげで「ぼく」家では細かな家族内ルールの条文を冷蔵庫に貼り付けて、それを「憲法」と呼ばせるというディストピアすれすれの習慣がまかり通っている――これがどれくらいグロテスクなのかは西尾維新『少女不十分』を是非読んで欲しい――。
はっきりいって私もアイスピックをもった変な女性に公衆道徳について説教されたい。ヤンデレられたい。彼女のバイオレントな魅力に比べれば、学校教師の物分かりよさげな御高説や皇室っぽい方々との面会など退屈極まる。「くに」(最早端的に日本国家でもよい)のことなんかよりも一人の女性の方がよっぽど大事。そういう当たり前のことを思い出させてくれる。
変な女性といえば、奥泉光『雪の階』の笹宮惟佐子も相当変わっている。昭和一〇年、天皇機関説を激しく攻撃する右翼伯爵の娘でありながら、そんな父すらも気後れを覚える、理知と美貌を兼ね備えた惟佐子は、探偵小説と数学を愛好の趣味とし、人付き合いにまったく興味を示さない。が、中盤から身分や立場の差を無視するかのように手当たり次第に見知った男たちと性的な関係を結んでいく。その背後には、親友の心中疑惑事件の真相究明という目的とともに、彼女が受け継いだ母方の白雉家の血が関係している。というのも、霊能力に恵まれた白雉の血は男女の別なく相手を求めるのだ。さらに、叔父の白雉博允によれば、その血は天皇家よりも古い純粋日本人の血統を約束するものでさえある。かくして、人種不平等論者・ゴビノーも仰天の純血主義は、汚れた血統である天皇を打倒するという不敬極まりない右翼思想をもった兄・笹宮惟秀の姿となって惟佐子の前に立ちはだかる。
これを単なる誇大(古代)妄想と切って捨てられないのは、同じく天皇制打倒を目標としていた戦前の左翼革命運動が思想=言葉で牽引されていたのとは対照的に、血の証拠が幻視体験や霊的感応など含め身体的反応として現れているようにみえるからだ。白雉家を斥けねばならない理由は存在しない。にも拘らず、彼女はある友人の結婚式に立ち会うまではこの不浄な俗世にとどまるべきだと決意する。情がうつった? 分からない。が、結末でやっと達成されるそのカップルが、ともに沢庵を噛みしめ、乳酸菌の講釈を経て、鮨と麦酒で事件の総括を行ったことを振り返るとき、一瞬腐っているようにもみえる菌侵食の発酵的モチーフが、醇化=純化の思想を分解して結ばれる交雑的生を謳っていることは明らかだ。
カップルの片割れは、百年単位でものを考えたいという(自己発酵的?)理由で小さな出版社に転職した。いとうせいこう『小説禁止令』ならば意地悪くも、出版なぞにそんな未来があるとでも思っているのか、と皮肉るかもしれない。近未来、戦争に負けた日本では新政府からプラトン的芸術追放論を思わせる小説禁止令が発布される。戦前既に投獄されていた物書きの「わたし」は、小説の欺瞞を暴くという目的のもと、ぎりぎり許された随筆形式で、カタカナ使用禁止や伏字が入るNG語(例えば「日」や「本」)といった規制に服しつつ、毎月発行の小冊子「やすらか」での連載「小説禁止令に賛同す」を担当する。無論、独自の小説論で小説批判に精を出すその饒舌は、例えば二葉亭四迷『平凡』がそうだったように、それ自体が小説然としてくる。真の念願が随筆の体裁を借りた小説の密輸であったかのように。副田賢二『〈獄中〉の文学史』ならば、「小説的〈獄中〉言説」と括るだろうものの最新形だ。
興味深いのは法令の原因。今日のSNSに見られるポスト・トゥルース的言説状況が、却って事後修正を許さない紙の書物への渇望を民衆に再点火したとの由。正しさへの過剰期待が、正しさを装える胡散臭い散文芸術への過剰反応として現れる。が、ファクトでPTを殺せると思ったら大間違い。随筆でだってこれほど豊かな出鱈目が描けてしまうのだから。PTに抗うには、規制とは反対に様々な虚構を浴びて免疫をつけるところから始めなければならない。そのためにこそ小説は、程度の差はあれ、いずれも自由至上主義を採る。自由すぎて、ときに顰蹙を買ったり検閲されたり処罰されたりするけれど――しかもそれら対応が完全に正しい場合もままあるけれど――、それでもそうだ。
ネオリベのことは嫌いでも、リバタリアンのことは嫌いにならないで下さい。
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