放射能恐怖という民主政治の毒(10):放射能おばけとは何か(2)

放射能おばけの出現は必然であることについて

よく考えてみれば、こうして放射能おばけが社会を歩き回って人々の理性的な議論と合意を阻害する状況に至ることは、福島第一原発で事故が起きた時点で既に明らかであった。なぜならば、おばけの活躍する土壌は事故の規模にかかわらず必ず生じたものであり、またチェルノブイリでの経験から、その土壌の上に非科学的なデマが横行し人々に恐怖を与えることは明瞭だったのだから。

放射性物質が周囲に放出され環境が汚染されたならば、ある一定以上の汚染が見られる地帯から人間は後退しなければならなくなる。逆に、もともとの平均的放射線量と同じ程度の放射線しか検出しない地域に住むことは問題がない。論争が生じえるのは、その間の領域である。この境界領域は事故の規模の大きさにかかわらず必ず生じる。

おばけは真っ黒闇でも太陽の光の下でも無く、茫漠とした暗がりに現れる。放射能おばけも例外ではない。放射線問題では、まず確実に安全だという部分と、確実に危険だという部分のあいだに幅があり、そこに放射能おばけが発生する土壌がある。

低線量放射線の影響が、はるか昔よりはずいぶん分かっているとはいってもまだ完全に解明されたわけではない以上、灰色の領域は存在する。しかし重要な点は、この灰色の領域は、決しておばけに満ちた恐怖の世界ではない。広島・長崎以来の社会と科学の努力により随分明らかになってきたものであり、今なお明らかにされつつあるものである。この灰色の領域をたとえていえば、湖の波打ち際のようなものだと言っても良いだろう。湖と陸の境界はいつも揺らいで見えるが、それは風景全体から見れば、ごく小さく静かな揺らぎである。

だから、理不尽な恐怖さえなければ、人々のあいだの理性的な対話が成り立ちさえすれば、民主主義的手続きで低線量放射線の対応策をつくるうえで大きな困難はなかったはずだ。しかし、放射能おばけが出現し、問題を複雑化した。福島の人々と、県外の人々、被災地とその他の地域、専門家と非専門家、原発労働者とそれ以外の人々を分断した。

この放射能おばけの問題はどうしても通らなければならない道であった。だから今となっては粛々とこの問題に取り組むよりほかない。今は困難を極めるように見えるこの放射線問題も、解決さえできれば日本の民主主義を強靭なものにしうるだろう。

境界線と民主主義を生きる意志

放射線の危険性をめぐる議論の幅は、科学が唯一の回答を与えるわけではないからこそ生まれる幅である。これは本来的には苦悩の元ではない。人間の自由の領域であり、それゆえに社会の知性が問われる幅である。

放射線問題については、どこかで境界線を引かなければならない。民主社会である以上、線引きは誰かが一人で行うのではなく、社会で行わなければならない。だから人々のあいだの対話と理性的な議論に基づく妥協と合意形成が何よりも重要である。しかし、放射能おばけの吹き込む毒のために、人々のあいだでこうした理性的な合意を成し遂げる意志が挫けてしまっているように見える。

科学的知見に基づいた社会の理性的な合意事項としての境界線を引くことは、決して簡単なことではない。もともと民主主義の手続きは忍耐がいるものである。誰しもが自分が正義だと思っている中で、自己と他人を理解し、罵声ではなく議論を重ね、幅広い社会的合意を目指さなければならないのだから。

しかも、放射線問題のように科学知識を必要とする政治決定は、民主的手続きとしては上級編になる。なぜならこうした問題の解決には、 社会に生きる人々のあいだの最低限の信頼関係、民主的手続きで政策を決めるための有効なメカニズムの蓄積、といった民主社会の基盤に加えて、科学についての深い理解が必須なのだから。

さらに重要なことは、この線引きは、巨大な事故を前にしてもなお民主社会を継続する強い意志によってのみ行えるということである。問題が大きくなればなるほど、人々は自ら問題に向き合う意志を失い、強いものに依存してしまいがちだ。しかしこれは強く戒められなければならない傾向である。

そうした合理的な線引きをしてはじめて、社会に生きる人々の協力に基づいた対策がとれるのであり、これが行われなければ社会のレベルで事故は収束しない。そして社会のレベルでの収束があってはじめて、日本社会は、今後何十年と続く原発の廃炉作業と技術開発を支えられる強靭さを得ることができる。こうしてこそ廃炉の道筋に希望が見えてくるであろう。

絶望の至る先

科学が唯一の回答を与える存在ではない以上、実は境界線をどこに置くかというのは絶対的な問題ではない。むしろ社会の中での幅広い合意事項としての境界線を設定できるかの方が重要である。そして、今この民主社会のメカニズムが、放射能おばけの出現により危機に瀕している。

今年1月の記事開始以後、石井孝明氏(@ishiitakaaki)が今回の連載記事についてツイッター上で意見を述べてくれた。彼は「適切な分析ですが、結論は違う。放射能をめぐる合意は作れません。3年経過した私の意見です。線引きを国が戦争と同じように断行するべきなのです」という。

石井氏が言う通り、私の意見は石井氏とは違うが、彼の短いツイートを読む限りは、石井氏はこれまでに民主主義的で理性的な合意形成をする努力をしたのだろうと思うし、そしてこの3年のあいだに民主主義の枠組みでの問題解決の可能性に絶望したのだろうと想像する。つまり石井氏と私のあいだでは立場も意見も違うが、民主政治という観点からみたとき、 問題の深刻さについての見立ては両者のあいだでそう変わらないように思う。

私は石井氏の言葉を非難する叫び声を上げる気にはなれない。彼はごく論理的な結論を述べている。民主社会への絶望が行き着く先は、「線引きを国が戦争と同じように断行する」よりほかないのだから。

言うまでもなく、人々のあいだの理性的合意を放棄した先にあるこの社会は、一部の政治家と官僚に意思決定を丸投げした社会、つまり全体主義の世の中である。

反原発を唱えてきた人たちの相当多くの人々が、少なくとも言葉の上では全体主義を忌み嫌っていた。しかし皮肉なことに、非科学的なデマへの線引きもできず、それどころか科学および近代社会への反感に耽溺しているうちに、全体主義を最も非難していた人々が真っ先に全体主義を呼び寄せている。

おばけの毒

今の状態では、日本社会で低線量放射線の影響と対策をめぐる理性的な合意ができる環境がない。これは放射能おばけが毒を吹き込んでいることの悪影響があまりに大きいからだろう。しかし、放射能おばけを人間の領域から追放し、社会からおばけの毒を抜くことさえできれば、この社会的危機を乗り越えられるはずだ。

恐怖に囚われた人々は目と耳をふさいでしまい、デマをデマと認識する機会を失い続ける。社会に燻るデマは人々の生活と人生を混乱させ、他者への憎しみを醸成し、憎しみは理性的な議論を阻害する。かたや絶望した人々は、日本社会の公共空間に何か貢献しようという意志を失い、社会の理不尽・不公正から目をつむる。こうして自らの生活を考えることだけで手一杯な人々が増えていく。

問題は確かに大きい。これだけ社会に巻き散らかされてしまった放射能おばけの毒を抜くのは相応の作業をしなければならないだろう。今ここであげられるのは、(1)おばけの実体である、理不尽で非科学的な恐怖を与える言説(デマ)を排除すること (2)(お上の権威ではなく)公共の権威を再構築すること(第3部で詳説)、(3)科学の精神を本当に理解することと科学に対する信頼を復活させること(1)が必要である。そしてこれらを可能にするためには、人々がもう一度民主主義を生きる意志を取り戻すことがどうしても必要である。

すべての人が

重要なのは、日本社会に生きる人々が、もう一度民主主義を生きる意志を取り戻すことであろう。それなのに今の日本社会は様々な意味で挫けてしまっている。

ここでは民主主義の最も重要な基盤は、すべての人が政治にものを言えるチャンスがあることであることを改めて確認したい(2)。これは国政ならば選挙が最大に重要であるが、より根本的にいえば、社会の重要問題の解決にあたって自分の意見を直接あるいは間接に物申す可能性がすべての人々に開かれていることである。

それは誰かが一人(あるいはごく少数のお友達同士で)でごり押しできるという意味ではない。政策決定に至る過程ですべてのひとが直接あるいは間接に意見を伝えられる環境の中で合意形成を図り、それにより自由な社会の力を最大限に活用するというものである。

科学的問題における民主主義的解決は、科学論文の数字を弄ぶことではない。どこで問題に線引きをするかは、科学を超えて、人間の自由である。それがゆえに民主主義的な問題解決のためには、デマを排除することが重要であり、科学的知見を最大限に生かしつつ、幅広い人々の理性的な合意を目指さなければならない(この具体的方法については、第3部以降で詳説する)。

ここまでの議論で、放射能おばけが民主社会に実害があることが明らかになった。引き続き、人々の理性的な議論を妨げて民主社会に毒を吹き込んでいるこの存在の正体に迫る。

文献・注釈

1.放射能恐怖という民主政治の毒:第2部

2. かつて日本は英国から民主主義を学んだにもかかわらず、重要で最も基本的な点が理解されきっていない(たとえば簡単な文献)。教科書的に、資産の量や家柄と関係なしに議員を選出できるようになったこと(自由選挙)が、貴族制の終焉で民主制の始まりになったということはよく知られているが、その深い意味はここにある。

さらに言うと、すべての人々が選挙や地域の議論の場を通じて合意形成の場に参加できうることがとてつもなく重要で、ここが民主主義から全体主義への転落の本質的な防止線である。だからこそ選挙が重要なのであり、他人任せ・お役所任せにして思考停止することは民主主義の力の衰退を意味する。