フーゴの心がどのように蝕まれていったのか。それを初めて理解したのは、戦後30年以上経ってからである。思うところがあったのだろう、フーゴは定年退職後、終戦前後の回想録をしたためたのだ。それと並行して私にも少しずつ話してくれるようになり、想像を絶するベルリン市街戦での体験が明らかになっていった。
それは1944年春にさかのぼる。フーゴは軍のほうから、認定医のもとで精密検査を受けるように、との要請を受けた。前線で負った怪我のせいで兵役免除されていたのが、果たして正当な診断であるのか、再検査が必要であるというのだ。傷病兵であっても動ける限りは前線に行くべきである、ということだろう。それほどまでに兵員不足は深刻な状況だった。フーゴは頭蓋骨の一部を失ってからというもの、断続的な頭痛と右半身の痺れに悩んでいた。そのことから、医師は改めて前線要員には不適任との診断を下し、フーゴは勤労兵として、引き続き軍需産業に携わることとなった。
フーゴは直ちにベルリンから北西200㎞ほどに位置するピノという町に送られた。町自体は小さいが、そこには1700人ほどが働く大きな軍需工場があった。ここでの彼の任務は工場監督官であり、一般市民と勤労兵からなるグループの業務分担、材料の仕入れ、保管、搬出等を任されていた。
周囲は森に囲まれ、近くには湖もある牧歌的な環境で、フーゴは工場敷地内のバラックのひとつを住居として与えられた。日曜日には同僚たちと散歩をしたり、泳ぎに行ったり、カフェでビールを飲みながらチェスをしたりして楽しんだ。水洗トイレ、セントラルヒーティング、自家発電装置、医務室、大きな食堂、美しいバラ園もあり、休憩中はその芳香を楽しみながら芝生の上で寝転ぶことも許された。
工場敷地内には線路が直結しており、連日、貨物列車が材料を運び込んだ。ここでは手榴弾の他に、パンツァーファウストと呼ばれる携帯式対戦車擲弾発射器も製造されていた。ここで製造されていたM39卵型手榴弾はプレス加工によって大量生産ができたので、出来上がると即刻トラックに積まれ、あっという間に工場から消えていった。
ここに勤務する兵士たちは、フーゴと同じように、前線を免れた傷病兵ばかりだった。直属の上司は二人。一人はナチス党員のマイヤー少佐だが、政治の話をしていても、どうもナチスを信奉しているように見受けられない。どうやら単なる出世目的か、カムフラージュで党員になったようだった。前線で手榴弾の破片で片目を失明し、黒い眼帯をしていた。
もうひとりの上司はハイネス少佐で、ナチスとは対極にいるような紳士だった。ベルリンのファルケンゼー出身で、元々はベルリン大学の物理学教授であったが、芸術と文学にも造詣が深く、彼の話を聞くのが週末の楽しみでもあった。地元では趣味でアマチュアオーケストラの指揮をしていたが、前線で右腕を失くしたのでタクトが持てない、と残念がっていた。
フーゴたちドイツ兵の恵まれた環境とは対照的に、近くには鉄条網で囲まれた特別区域が存在した。そこには500人ほどのソ連兵とポーランド兵、ソ連から強制連行してきた女たちが住んでおり、軍需産業に強制的に従事させられていたのだ。「劣等スラブ民族」は劣悪な住環境の中、最も危険な仕事を強制され、自由時間はほとんどなく、食事も薄いスープと薄いパンだけのひどいものだった。監視員は鞭やこん棒を振り回し、容赦なく捕虜を叩きのめした。
同じ捕虜でもフランス人たちは「人種的に優良」なため、別格の扱いで、ドイツ兵と大差なく自由に外出も許され、食事もドイツ兵と同じものが与えられていた。
ハイネス少佐は工場で働くロシア人とポーランド人捕虜たちにいたく同情し、待遇を改善するよう特別区域の監視兵に直談判したが、ことごとく無視された。
「ロシア野郎は文化を持たない野蛮な連中ですからね。食えるだけでも感謝するべきでしょう。」
兵士のひとりがそう言った時、ハイネス少佐は皮肉っぽい笑いを浮かべて言った。
「『馬鹿が " 沈黙は金 " だと知ったときは、まだ救いようがある。』これは誰が言ったか知っているかね?」
「いいえ・・・。」
「トルストイだ。君の軽蔑するロシア野郎だよ。けだし名言とは思わんかね?」
兵士は意味がわからず、ポカンとしていた。少佐は、時として辛辣でもあった。
また、ハイネス少佐とナチ党員のマイヤー少佐の間に、こんな会話があった。
「君はナチ党員らしいが、どうもヒトラーの熱烈な信奉者と言うわけでもなさそうだね。早いうちに離党することを勧めるよ。」
「なぜだい?」
「戦争が終わったら、党員の経歴はマイナスでしかないからね。これだけの悪事を働いた後で降伏するんだ。公職は追放されるだろうし、一般企業への就職も難しくなるよ。それどころか、連合軍の捕虜になってそれが発覚したら危険だ。悪いことは言わない。離党した方がいい。」
マイヤー少佐は苦笑いしただけだった。離党は不可能であったし、そこまでの危険は考えていなかったからだ。しかしハイネス少佐は、この時点でドイツの降伏と、戦後の連合軍によるナチ党員狩りを予測していたのである。
6月のノルマンディー上陸作戦以降、工場も緊迫した空気になっていた。これまでロシアばかりに目を向けていたドイツ軍が、慌ててフランス北部に意識を集中し始めた。工場は不眠不休の忙しさとなり、湖のほとりを散歩したり、カフェでチェスを楽しむような時間はなくなった。
1944年7月になると、ヒトラー暗殺未遂事件が世間をにぎわせた。陸軍大佐のシュタウフェンベルク伯爵が反ヒトラーの将校たちと共謀し、ヒトラー暗殺を企てたのだ。クーデターを起こして米英と講和するというワルキューレ作戦である。シュタウフェンベルク大佐はヒトラー臨席の作戦会議に時限爆弾入りの書類かばんを持って参加し、ヒトラーの足元にそれを置いて退室、しかし爆発寸前にヒトラーが立ち位置を移動したことでヒトラーは軽傷ですみ、計画は失敗に終わった。これによって共謀者、関係者約7000人が逮捕され、そのうちシュタウフェンベルク大佐を始めとする200名が処刑された。
陸軍上層部はもともと貴族階級出身者が多く、野蛮で無学なナチス政府を嫌う者が多かった。特にシュタウフェンベルク大佐は、ナチス政府のユダヤ人政策と宗教の弾圧に強い嫌悪感を抱いていたという。
ハイネス少佐はこの作戦の立役者たちの勇気と行動力を讃え、暗殺が失敗に終わったことを残念がった。
「あれだけの同志を集めたって殺せなかったんだ。ヒトラーは悪運の強い奴だな。シュタウフェンベルク大佐のような勇気あるインテリたちがことごとく抹殺されて、生き残るのは俺たちクズばかりだ。ドイツの未来は暗いな。」
シニカルに笑うハイネス少佐の言葉を他の者に聞かれやしないか、フーゴはヒヤヒヤした。 秘密警察に密告されれば、強制収容所に送られることは間違いない。
上:ヒトラー暗殺計画の首謀者、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(36歳没)。頭脳明晰、哲学と芸術を愛する教養人だった。
秋になって、ソ連軍がドイツ国境を突破したとラジオニュースが伝えると、フーゴは私たちを何とかして東プロイセンからこちらに呼び寄せようと何度も役所に赴いたが、常に門前払いであった。
工場は昼夜を問わずフル稼働となり、ひっきりなしにトラックがやって来て手榴弾とパンツァーファウストを掻き集めていった。ハイネス少佐は、
「これはいよいよ東プロイセンは深刻な状況だな。君のご家族はもう避難禁止令なぞ無視して逃げたほうがいいぞ。配給切符なんぞ忘れたほうがいい。 」
とフーゴに忠告したが、当時私は出産目前で、とても逃げられる状況ではなかった。
年が明けて、私たちからの連絡も途絶え、大きな不安を抱えながらフーゴは工場で働き続けた。二月になって、東プロイセンからの難民たちを乗せたグストロフ号が沈没したニュースが流れ、フーゴは動転した。グストロフ号乗客名簿そのものが存在せず、犠牲者の中に家族がいたのか確認できない。船で移送されたのか、鉄道を使ったのか、それさえもわからないのだ。赤十字は難民たち何百万人というリストなど作る余裕はなく、混沌の極みを呈していた。他に安否を確認する術もなく、フーゴは断腸の思いで毎日を過ごしていた。
四月になると、ソ連軍はとうとうオーデル川まで到達し、ベルリンへの突破口を開こうとしていた。この「オーデル・ナイセの戦い」のシュヴェートという前線に手榴弾をトラックで届けるのが、フーゴの新しい任務だった。
川の向うからソ連軍が大砲を撃ち続けており、あちこちで黒煙が上がっていた。街道のポプラ並木には脱走を試みたドイツ兵たちの首吊り遺体が何体もぶら下がっており、胸には「腰抜けの豚野郎」、「祖国の裏切り者」と書かれた札を下げていた。それは身の毛もよだつ光景だった。
四月中旬、今度はベルリン郊外で20人ほどの勤労兵たちと共に手榴弾を製造することになった。いよいよソ連軍によるベルリン包囲を想定に入れ始め、武器の輸送経路が遮断されることを懸念しての移動だろう。つまり、激戦地に放り込まれるのだ。
二人の上司とも別れることになり、ハイネス少佐は別れ際に、
「ベルリンのファルケンゼーに両親が住んでいる。そこに私の私服が置いてあるから、ベルリンが降伏する前にそこに行って着替えるといい。服のサイズは大して違わないだろう。」
と言って、自分の実家の住所の書かれたメモをフーゴに渡した。トラックに荷積みをしている最中で慌ただしく、それ以上詳しい話はできなかったが、ハイネス少佐は何とかしてフーゴの命を救おうとしていたことが、後でわかる。
ベルリンの軍需工場といっても、そこはかつてのキャンディ工場だった。ピノの工場から火薬や部品、測量機などをトラックで運び込み、かつては水飴や砂糖やコンデンスミルクが入っていたタンクの中で火薬を調合した。空腹になると工場内に残っていたキャンディを胃袋に詰め込み、黙々と手榴弾を作り続けたが、生産量は微々たるものだった。
当時、ベルリンには270万人ほどの市民が残っていた。これは戦前の60%ほどの人口であり、残りの40%は空襲による死者、疎開した子供たち、家を焼け出されて市外へ移住した人々であった。ベルリンに残った市民の3分の2は女性で、残りの男性のほとんどは16歳以下の子供と老人だった。ベルリンは連合軍最後の砦である。後に地獄絵図と化すであろうことは予想できたはずなのに、この首都に多くの市民が居残り続けたのは、ナチス政府が士気高揚を促し、子供以外の移住を禁止していたからだ。
毎晩、空襲警報が鳴り、フーゴたち勤労兵も近くの防空壕に逃げ込んだ。老人、女、子供たちと一緒に、防空壕で空襲がおさまるのを待ち続けた。暗く重苦しい空気の中、すぐ近くで爆弾がさく裂するたびに、悲鳴が上がり、泣き叫ぶ者、主の祈りを唱える者たちの喧騒でいたたまれなかった。一度は防空壕入口の分厚い鉄扉が風圧でフーゴたちのすぐそばまで飛んできて、九死に一生を得た。近くの防空壕では爆弾が直撃し、瓦礫の中から引き出された黒焦げの死体が道端に寝かされていた。老人たち、小さな子供たち、赤ん坊を抱きしめた女たち・・・。
上:ベルリン上空を飛ぶ連合軍の爆撃機。
空襲によりベルリンの交通網は遮断され、地下鉄とSバーン(地上鉄道)の一部が動くのみで、あとは軍用トラックか徒歩だった。
工場の兵士たちが何人か脱走し、市外へ逃げて行った。シュヴェートで脱走兵の首吊り死体を見たフーゴには、脱走は選択肢になく、工場に残ってそこでの最後を覚悟した。つまり首吊り死体の見せしめは功を奏したということだ。
四月下旬になると、空襲はピタリと止んだ。ソ連軍がベルリン郊外まで来ているに違いない。シェーンハウザー通りのビール工場に直ちに移るように、と軍部から司令が来た。今度は麦芽やホップが入っていたタンクを使って手榴弾を作れというのだ。再び部品と機械をトラックに詰め込み、移動した。
しかしビール工場での手榴弾製造は遅々として進まない。勤労兵たちの労働意欲が最悪だったからだ。ドイツ軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった上に、常に空腹で、夜通し轟く大砲の音に、皆、睡眠不足だった。ソ連軍がここまで来たら、フーゴたち兵士は殺されるか、捕虜になるかだ。兵士たちは脱走できぬよう、市民服(軍服ではない服装)を持つことを禁止されていたので、持っているのは軍服と軍靴だけだった。いかに市民服を入手するか?フーゴはふとハイネス少佐のくれた住所のメモを思い出し、ハイネス少佐の思いやりに改めて感謝した。
再び新しい司令が届いた。今度はニュルンベルガー・プラッツ地下鉄駅から地下鉄の地下路線を辿ってフェールベッリーナー・プラッツ駅に行き、地上に出たらブランデンブルグ通りのチョコレート工場「ハマン」に徒歩で行けという。そこで何をしろというのだろう。司令に逆らうわけにはいかない。機械と材料をトラックに詰め込むと、フーゴたちはシェーンハウザー通りを歩きだした。すでにあちこちのアパートの窓から火の手が上がっており、白旗も見える。ソ連軍との市街戦はすでに始まっており、フーゴたちは身をかがめて走り、アパートの入口から入口へと身を隠しながら前進した。時折ドイツ軍の狙撃兵たちに狙撃に加わるようにと引き留められたが、フーゴたちがヘルメットも武器も持たない丸腰であるの見て解放した。機関銃の音が響き、そこらじゅうからパンパンと銃声も聞こえるが、ソ連軍の狙撃手がどこに隠れているのか皆目見当がつかない。血を流して地面に倒れているドイツ兵の死体がゴロゴロそこらじゅうに転がっている。死にきれずに、のたうち回って「痛い、痛い」と血を流して苦しんでいる兵士、口から泡を出し、痙攣を起こして目を大きく見開いている兵士もいたが、絶命させてあげたくても銃がない。ただひたすら走り、隠れ、走り、隠れる。
上:下:1945年4月下旬。ベルリン市街戦。
上:1945年4月20日、空襲で爆破された総統官邸を見学するヒトラーと側近。これがヒトラーを写した最後の写真である。贅を尽くした権力の象徴が瓦礫と化し、ヒトラーは何を思うのか。
3時間ほどかけてニュルンベルガー・プラッツ地下鉄駅に到着すると、駅構内は停電しており真っ暗だった。最初の任務は送電を復活させることだ。同僚のエンジニアが隣の家屋からケーブルを繋げて電流を通し、再び電灯がつき、換気装置も回り始めた。するとどこに隠れていたのだろう、一般市民100人以上が一斉に地下鉄駅になだれ込んだ。ソ連軍の戦車がこちらに向かっていると青くなっている。
しばらくして地響きと共にキャタピラの音が頭上から聞こえてくる。防空壕で聞く空襲の轟音も恐ろしいが、戦車が真上を通り過ぎる地響きは耐え難いものだ。その晩は身動きできず、停車している地下鉄の座席に身を横たえて、久し振りに眠ることが出来た。
ベルリン市内に侵攻するソ連軍戦車。
翌朝、懐中電灯を頼りに、フーゴたち10名の兵士は地下鉄路線を延々と歩き続けた。正面から敵兵が来ないとも限らない。しかもこちらは武器を持っていないのだ。その不気味な闇から怪物が現れる悪夢に、フーゴは戦後何十年たってもうなされた。途中の分かれ道でどちらに行くべきか悩んだが、勘を頼りにとにかく歩き続け、ようやく非常口から漏れてくる日の光を見て、無事にフェールベッリーナー・プラッツ駅に到着したことを悟った。恐る恐る地上に出ると、そこにはまだソ連兵は到達していない様子で、フーゴたちはチョコレート工場「ハマン」に向かった。
工場にはすでに士官たちが到着しており、命からがらやって来たフーゴたちに新しい任務を与えた。ここの大釜を使って、直ちに手榴弾製造を再開しろと言うのだ。これまでチョコレートの中にヌガーやマジパンやクリームを充填していた要領で、手榴弾に火薬を充填しろと言うのか。
「狂ってる。」
同僚の一人、トマスがそう言って自虐的に笑い出した。キャンディ工場、ビール工場、そしてこのチョコレート工場。子供の砂場遊びのように手榴弾を製造し、どうやってソ連軍と闘おうというのだろう。皆、怒りと絶望で自暴自棄になっていた。まだ攻防戦を続けるのか。何のために?あののたうち回って死んでいったドイツ兵たちは、命と引き換えに何を守ったというのだろう?
フーゴたちは工場に保存してあるチョコレートとその原料のカカオ、コンデンスミルク、果汁、マジパン、ヌガーなどで飢えをしのぎ、ビールで喉を潤した。どの工場に行ってもビール、ワインがたっぷり貯蔵されていたのは、兵士たちの恐怖心を払拭するためだ。空きっ腹をアルコールで満タンにすると、地下室の床に毛布を敷いて横になった。
二日後には停電と断水で工場は機能しなくなった。通りに出ると、廃墟の中を食料を探して歩いた。地下室で瓦礫をかき分け、ピクルスとジャムの瓶を見つけると工場に走って戻り、同僚たちと分け合った。ガラス瓶にこびりついたジャムまで大切に舐め尽くした。
数人の12歳くらいのヒトラーユーゲント (ヒトラー青少年団) が通りを歩いているのを見つけ、 フーゴは声をかけた。
「どこに行くんだ?危ないから出歩くんじゃない。」
「僕たちはバリケードを作りに行くように言われているんです。奴らをここには入れません。」
「無茶を言うな。ベルリンが降伏するのも時間の問題だ。撃たれる前に西に逃げなさい。」
少年たちはフーゴを睨みつけると、堂々と胸を張って声を荒らげた。
「僕らはヒトラーユーゲントですよ。腰抜けじゃありません!臆病者は死をもって償えと総統がおっしゃっています。」
そう言うと、ポケットから政府発行のチラシを取り出し、フーゴに見せた。それは感嘆符だらけの、実にバカげた内容だった。
「総統よりベルリン市民に告ぐ!忘れるべからず!攻防戦に協力しない者は裏切り者だ!その者は見つけ次第、直ちに銃殺刑か絞首刑に処す!ー アドルフ・ヒトラー 」
フーゴはそのチラシをクシャクシャに丸めて地面に叩きつけた。唖然としている少年たちを前に、フーゴは言葉を続けた。
「いいかい、よく聞きなさい。もうすでにミッテ地区にはソ連軍の戦車が入ってるんだ。バリケードなんてなんの役にも立たないよ。ドイツは間もなく降伏する。こんなことで死んだら、君たちのお母さんはどんなに悲しむだろう?こんなチラシを信じてはいけない。君たちは軍人ではないから、逃げたって罰せられることはない。誰も君たちを射殺しないし、絞首刑なぞありえない。このままその制服でここにいては本当に危ないんだぞ。すぐに逃げなさい。」
少年たちは顔を見合わせると、お互いの胸の内を確認しあったかのように深く頷き、決意を表明した。
「僕らはヒトラーユーゲントとして、祖国のために最後まで闘います。」
当時の子供たちは、小学校からナチスのイデオロギーを叩き込まれて来たのだ。少年たちの未来の夢は兵士であり、国のために死ぬことが栄誉なのだと刷り込まれていれば、いくらフーゴが言い含めようとしたところで、聞く耳を持つはずがない。すでに大人たちはドイツの勝利なぞ誰一人信じていなかったが、この子供たちはそれを確信していたのである。
少年たちはナチス党歌『旗を高く掲げよ!(Die Fahne hoch!)』を威勢良く歌いながら、東へと消えて行った。同じように、ベルリン市内で何千人と言う少年たちがバリケードを築き、狙撃兵となり、死んでいった。
上:ヒトラーユーゲントの少年たちを激励するヒトラー。
上:「僕たちは銃弾が尽きるまで戦い続ける。」を合言葉に、最後までベルリン攻防戦に残ったヒトラーユーゲントの少年たち。写真はソ連軍の捕虜となった直後と思われる。この少年たちは運よく生き延びた。
下:パンツァーファウスト(携帯式対戦車擲弾発射器)を手に、ソ連軍の戦車を待つ少年。
上:パンツァーファウストを自転車で運搬する少年たち。
4月27日、とうとうソ連軍はこの地区にも到達し、戦車が次々と砲弾を発射しながらブランデンブルグ通りを通って行った。その間、フーゴたち勤労兵は一般市民たちと一緒に、コンクリート製の大型地下防空壕に避難していた。そこは一般市民用であると同時に、野戦病院でもあった。しかし病院とは名ばかりで、薬品は底を突き、断水で最悪の衛生状態である。送電も断絶していたので換気扇も機能しておらず、ひどい悪臭と湿気で気が遠くなりそうだった。血まみれの負傷兵たちは床に放置されたまま、唸り、泣き叫び、苦しんでいる。そのような阿鼻叫喚の中にあっても、看護婦たちは汗だくになって走り回り、兵士を慰め、かいがいしく世話をしていた。
再び静寂が訪れると、フーゴは通りに出て街の損傷を確認する。道端には何十体ものドイツ兵の死体が転がっていた。身体から内臓や骨が飛び出している遺体、四肢が無くなっている遺体。それらはもう無機質な物体であり、何の感傷ももたらさない。
この頃には、ソ連兵の襲撃を恐れて、多くの家やアパートの軒先や窓に白旗が掲げられていた。しかし、ナチス親衛隊はそれらの「裏切り者」を一掃する任務を担っており、見つけ次第、容赦なく射殺していた。親衛隊を恐れて白旗を上げない家にはソ連兵が突入し、女は強姦され、男たちは射殺された。
野戦病院の入口には、白いシーツに看護婦が口紅で描いた赤十字の旗が張り付けてあったが、農民上がりのソ連兵たちに戦時国際法、ジュネーブ条約の知識があるはずもなく、看護婦たちは強姦され、男たちは射殺された。
水道管が破裂して水が噴き上げている場所には、何十人という市民がバケツや鍋を持って水汲みに走って来た。水道は使えず、誰もが飲み水を確保する必要があったのだ。人だかりに向かって、ソ連かポーランドの狙撃兵が射撃する。パンパンと銃声が聞こえると、何人かがパタパタとその場に倒れ、それ以外の人々はバケツをその場に打ち捨てて、蜘蛛の子を散らすように走り去る。胸を撃たれた老人が、口から血を流してうめていているところに、その妻だろう、ひとりの老女が駆け寄って抱き起そうとするところを撃たれた。頭に命中し、脳が吹き飛んであたりに散らばった。老夫婦は重なり合って動かなくなった。
フーゴはロシアの前線も体験したが、市街戦での恐怖はそれを上回る。前線では塹壕に身を隠し、敵軍がどこにいるのか、弾丸や手榴弾がどこから飛んで来るのかを把握できた。しかし市街戦では、いったいどの廃墟から、どのアパートの窓から、狙撃兵が狙い撃ちしてくるのか、全く見当がつかないのだ。
5月1日、再び戦車が次々とやってきて、そこら中に砲弾を打ちまくる音が轟き始めた。いつものようにフーゴたちが防空壕に逃げ込もうとしたその時、赤ん坊を抱いた若い女がヒステリックに叫んだ。
「ここには入らないで!ロシア人がここに踏み込んで、あなたたち兵士を見つけたら、私たちも殺されるかもしれないわ。市民服に着替えるか、そうでなかったら他へ行ってちょうだい!」
そうは言われても、他に逃げ場もなければ、軍服以外の衣類は何も持ち合わせていない。やむを得ず、避難場所を工場の地下室に移した。すべてを優先された兵士の時代はとうに終わったのだ。
ソ連軍の戦車は最後の砦である国会議事堂を目指し、西へと向かったらしい。砲弾の音が遠くなり、フーゴたちは再び地上に出た。死屍累々とはまさしくこのことか、死体をまたぎながら、黒煙の上がる通りをさまよい、水と食べ物を探して歩いた。なんだかわからない草を食べてみたが、1分と経たないうちに吐きだした。
ブランデンブルガー通りでは、老人の集団に遭遇した。国民突撃隊だ。とうとう老人まで前線に送り込むほど、兵員不足は深刻になっていたのだ。自分の父親くらいの年齢の男たちが、パンツァーファウストや猟銃を担いで重い足取りで歩いていく。軍事訓練など全く受けていないはずだ。パンツァーファウストももう尽きる頃だ。その他の武器も弾薬も、ヘルメットさえも不足しているのだ。これは紛れもない死の行進だ。
上:国民突撃隊、別名自殺部隊。ヒトラーのベルリン死守命令により、多くの老人たちが犠牲になった。
たとえ送電が断たれていようが、断水していようが、フーゴたち勤労兵は、引き続きチョコレート工場で待機していなくてはならなかった。
再び司令が届いた。今度は、兵士は全員、ウーランド通りの学校に集合しろと言う。今度はいったいどんな茶番が待っているのだろう。
同僚たちとウーランド通りを歩いていると、遠くから街灯に吊るされている死体が見えた。近付いて真下から見上げると、それはヒトラーユーゲントの制服を着た16,7歳の若者だった。胸には「裏切り者」と書かれた段ボールが掛けられている。
戦況悪化に伴い、ナチス親衛隊はますますアグレッシブになっていった。建物という建物の地下室を隈なく探し、隠れている兵士、ヒトラーユーゲントの少年たち、国民突撃隊のメンバーを見つけ出そうと躍起になっていた。もう闘っても意味がない、殺されたくない、と地下に潜伏していた者たちはことごとく引っ張り出され、洗濯ロープで街灯や街路樹に首を吊るされた。1945年1月から4月の間、べルリンだけで277人の兵士が、その他の地域を合わせると2万人の「裏切り者」たちが処刑されたが、こうして突発的に吊るされた者たちは、その数には含まれていない。中にはドイツ降伏の当日に殺害された者もいた。敵軍にではない。同じドイツ人に殺害されたのだ。
学校の講堂に入っていくと、そこにはすでに500人ほどの勤労兵が集まっていた。舞台の上に大尉と思われるでっぷり太った男が物々しく登場すると、ガラガラ声で叫び始めた。
「これから全員、ベルリンから脱出する。」
フーゴは耳を疑った。これまでは逃亡者を裏切り者と射殺したり首を吊ったりしていたのが、今度はいきなりエスケープ隊を編成するのか。講堂を出れば、ヒトラーユーゲントの首吊り死体が揺れているではないか。少年と老人たちをバリケードにして、我々はソ連軍から逃げようと言うのか。
「このままここにいて、おめおめと捕虜になるわけにはいかない!一度ベルリンから撤退し、武器を補給し、最後まで戦おう!」
言っていることの意味が全く理解できなかった。まだ戦争が続くと本気で思っているのか。武器の補給だって?一体どこでそれが出来ると言うのか?それともエスケープの大義名分が欲しいのか?
それぞれ50人ほどの隊列を組んで移動せよ、との命令が下された。フーゴの所属する隊列の隊長は十字勲章を胸につけた少尉で、何が嬉しいのか、この最後の任務を誇りを持って遂行しようと張り切っていた。しかし兵士たちは負傷兵が多く、そうでなくてもこの数週間、まともな食物を口にしていない上に疲労困憊した者ばかりだ。行進しようにも、当然足取りは揃わない。隊長以外はやっていることの馬鹿馬鹿しさに自嘲的だったが、ただ黙々と西に向かい、夜通し歩き続けてシュパンダウまでやって来た。あたりには暗闇が広がり、かろうじて家々の影だけが浮かび上がる。
沼の上にかかっている橋を渡っていた時、機関銃の音が轟き、前を歩いていた兵士たちがバタバタと倒れた。隊長は退散を命令し、全員引き返すと、橋のたもとに隠れて夜が明けるのを待つことにした。暗闇の中、一晩中息を凝らしてお互いを牽制している。
やがて夜が白々と明け始めた頃、機関銃の設置場所を橋のたもとの陰から探し始めた。向うに建つ区役所の塔から、こちらに銃口が向けられているのが双眼鏡で確認された。もはや橋を渡ることはできない。塔から見えぬよう、橋の真下の沼の中を歩いて渡ることになった。腰まで水に浸かると、荷物を頭の上に掲げて歩いて行く。音を立てぬよう、ゆっくりと沼を進んでいくと、カチッと鋭い音がして全員ビクッと静止した。皆一斉にその音のした方向を見ると、「ああ、ああ、ああ・・・」と真っ青になって震えている若い兵士がいる。対人地雷を踏んだのだ。全員、その兵士からバチャバチャと泥を飛ばしながら慌てて離れた。フーゴはその兵士のすぐ前を歩いていたので、がむしゃらに沼を前進した。兵士が地雷から足を離す前に逃げ切らなければ、全員吹っ飛んでしまうだろう。背後から「ああ、ああ、ああ・・・」と泣き声が聞こえてくる。隊長が叫んだ。
「離すなよ!待て!待て!」
軍事訓練通りだ。全員が岸辺に辿り着き、塔からの狙撃の死角に入ると、再び隊長は青ざめて固まっている兵士に向かって叫んだ。
「よし!」
兵士は観念したのか、もう泣いてはおらず、そのかわりに悲しげにじっとこちらを凝視していた。フーゴは見るに耐えられず、顔をそむけた途端、轟音と共に泥が辺り一面に飛び散った。隊長は再び号令をかけた。
「進め!」
部隊は何もなかったかのように、行軍を続けた。もう誰も口をきかず、涙も流さない。なにが「よし!」なのだろう。「よし、我々は無事だから、とっとと死んでくれ。」ということか。あの若い兵士は、足を離す瞬間、誰を思っただろう。母親だろうか?恋人だろうか?主の祈りを唱えたのだろうか?それとも我々を憎んだだろうか?
5月3日、ファルケンゼーからシュターケンに向かって前進している時だ。軍用飛行場を横切ろうとした瞬間、どこからか手榴弾が飛んできて間近で爆発し、同僚の腕を吹き飛ばし、その場に倒れた。フーゴの頭にもいくつもの破片が突き刺さったが、そのまま一目散に走り抜けた。木陰で破片を同僚に抜いてもらい、包帯で応急処置を施したが、包帯はすぐに血で真っ赤に染まり、歩いていると顔を伝ってポタポタと地面に落ちた。
倒れた同僚はその場で死んだに違いない。あのチョコレート工場で「狂っている。」と笑ったトマスである。フーゴと同じように、三人の幼い子供の父親だと言っていた。やはり一番下の子供には、まだ会っておらず、初めての女の子の誕生をとても喜んでいた。
しばらく街道を歩いていくと、ポーランドの国旗と白旗を立てた一軒の農家を見つけた。ポーランド兵が中にいるようだ。隊長が連隊を待たせて中に入っていくと、10分ほどして青ざめた顔で外に出てきた。
「ヒトラー総統は自殺したそうだ。ベルリンはほぼ完全に包囲されたが、ラテノフはまだ攻防戦が続いているそうだ。この部隊はここで解散する。ここからは各々で決めてくれ。健闘を祈る。」
いきなり解散と言われても、一体どこに行けばよいのか。フーゴは工場から行動を共にしていた5人の同僚たちと一緒に、とにかく西へ移動することにした。
ベルリン郊外はのどかなセイヨウアブラナの畑が続く。農家を見つけるたびに、かくまってもらえないか、せめて食料を分けてもらえないかと頼むのだが、どこに行っても、
「冗談じゃない!ソ連軍に見つかったら私たちが殺される!とっとと出てってくれ!」
と追い出された。兵隊が「祖国のために闘う英雄たち」と称えられ、すべてにおいて最優先されたのは、つい一ヶ月前のことだ。今ではすべての国民に忌み嫌われる厄介者だ。
フーゴたちは崩れ落ちそうな厩舎に忍び込むと、藁の上に身を横たえて身体を休めた。空腹、極度の疲労、睡眠不足、傷の痛みで眠ることができない。横になったまま同僚たちと今後のことを話し合い、策を練った。とにかく包囲境界線から外に出られる可能性のある、攻防戦真っ最中のラテノフへ向かうことにしよう。そこに行けば二つに一つだ。撃たれて死ぬか、逃げおおせるか。このままベルリンに留まれば、これも二つに一つ、撃たれて死ぬか、捕虜になって餓死するかだ。それならばラテノフに急ごう。ここから30㎞ほどだから、今から一晩中歩けば、明け方には到着するだろう。フーゴたちは厩舎を出て、暗闇の中をひたすら歩いて行った。
辺りが明るくなり始めた頃、大砲の轟が聞こえ始めた。ラテノフが近いに違いない。危険極まりないこの区域を突破する以外、西に逃げる方法はないのだ。
明るい間は身を隠していることにして、森の奥深くに入っていった。小川の水で喉を潤し、木陰でクマニラ(ネギ科のニラに似た植物)の群生を見つけ、大喜びでムシャムシャとそれを食べた。途中の畑で盗んできたジャガイモをリュックサックから取り出すと、小枝を集めてきてそれを焼くことにした。枝にジャガイモを刺し、たき火でそれを焼こうとするのだが、小枝が湿ってるせいか、いくら火を起こそうとしても炎は上がらず、白い煙だけが立ち昇る。もう長いこと食べ物を口にしていないフーゴたちは、まともな思考も出来ずにいたのだろう、それが、のろしを上げることになることをすっかり忘れていたのだ。
当然、ソ連軍はそれを見逃さなかった。ソ連軍の狙撃兵たちは煙の上がっている森にたどり着くと、ジャガイモに気を取られているフーゴたちに向かって、いきなり機関銃を撃ち始めた。フーゴの耳元を銃弾がかすめ、キーンと鋭い耳鳴りがして、慌ててうつ伏せた。一緒にジャガイモを焼いていた同僚が首を撃たれ、血を噴水のように噴き上げている。フーゴは頭に巻いていた包帯を取ると、持っていたジャガイモの刺さった枝に巻き付け、宙に差し出した。白旗のはずが、どす黒い血の旗になっている。ソ連兵は攻撃をやめると、フーゴたちは静かに立ち上がり、両手を上げた。
生き残ったのは3人。もう一人は頭を撃たれ、燃えない焚き木の中に血まみれの頭を突っ込んで死んでいた。死体には慣れっこになっていたフーゴには特に大きな感慨はなく、両手を上げたままゆっくりと銃を構えるソ連兵たちの方向に歩き始めた。
こうしてフーゴはソ連軍の捕虜となった。