「芝居のおかげで刑務所を出られた」 両親不在の家からロンドンの舞台へ
ジョン・ケリー、BBCワールドサービス
若いころは、刑務所を出たり入ったりを繰り返した。その繰り返しのなかでやがて、自分は世界有数の演劇学校に入り俳優になるのだと決めた。実現不可能に思えるこの野望を抱いて、マイケル・バロガンさんは前に進んだ(以下、敬称略)。
独房でひとり座っていたマイケル・バロガンは、自分がどれだけ失敗を重ねてきたか思い返していた。自分がいかに、チャンスを逃してきたか。そこでバロガンは決心した。これからどうやって生きていくのか、朝までに決められなかったら、その場で首を吊って死のうと。
バロガンは目を閉じて、自分が経験してきた様々な場面を振り返った。家庭を捨てた父親のこと。麻薬密売の罪で刑務所送りになった母親のこと。自分が福祉職員に保護された日のこと。そして、初めて道端で犯罪に手を染めたときのこと。自分自身が服役した日々。いくつものやり直しのチャンスが、自分のせいで駄目になったこと。
やがて、ふとひらめいた。役者だ……。役者を目指してみよう。
バロガンに会ったことがなければ、刑務所から俳優を目指すなど、あり得ない話に思えるかもしれない。しかし、夢は実現した。バロガンは昨年、世界で最も評価の高い演劇学校のひとつ、英王立演劇学校(RADA)を卒業したのだ。
そして彼は今年2月から英国の国立劇場、ロンドンのナショナル・シアターで「マクベス」に医師役で出演している。マクベス夫妻を演じるローリー・キニアやアンマリー・ダフといった著名俳優と同じ舞台に立っている。そんな自分について、「こんなこと想像もつかなかった」とバロガンはしみじみと語る。
バロガンはロンドン南部のケニントンで育った。家庭環境は普通ではなかった。「父親はいたためしがなかった。母親はしょっちゅう旅行にでかけていた。家には自分と姉や妹だけだった」。自宅は人の出入りが多く、一番幼いころの記憶の中には母親が男2人と言い争っている光景がある。出て行く男たちの1人が、銃をベルトに差したのを覚えている。
幼いバロガンにとって最悪の時期は、7~8歳のころに始まった。母親が逮捕されたのだ。
「子供の面倒を見るのは、誰よりその子の母親が一番だ。自分にとっては、世界の終わりみたいなものだった」
母親は禁錮15年の実刑判決を受けた。それでも当局はなぜか、マイケルと姉妹たちが家に置き去りにされたままだと気づかなかった。自分たち3人は慣れっこだったと、バロガンは言う。家事と、家族への福祉手当の取り扱いは、姉が担当した。
「母親が旅行でいなくなるときと一緒で、いつもと同じように過ごした」
母親の逮捕から1~2年して、バロガンは学校で具合が悪くなった。教師たちが「お母さんに電話するね」などと口々に言うのを、「いいよ、いいよ。気にしないで。大丈夫だから」と受け流そうとしたのを覚えている。
しかしそうこうしている内に、母親が刑務所にいることがついに教師たちの知るところとなった。福祉当局に通報が行き、子供たちは保護され、やがておばのもとに引き取られた。
これが非行に走るきっかけとなった。
最初に犯罪に手を染めたのは、スーパーのセインスベリーズでドーナッツを盗んだときだ。「金がなかったし。時々、おなかがすいてしょうがなかったから」。
中学に入るころには、ロンドン南部で同じように難しい家庭環境の同年代とつるむようになった。
「盗みから始まって、そのうち道でひったくりを始めた。ハンドバッグとかその手のもの。強盗だ」
そこからさらに学校で大麻を売るようになり、16歳か17歳のころにはロンドン北部のケンティッシュタウンや英南部ポーツマスの路上でヘロインやクラック・コカインを売りさばいていた。
最初の刑期は禁錮3年半だった。頒布(はんぷ)目的のヘロイン所持罪で有罪となったのだ。そのころにはもう、刑務所生活は通過儀礼のようなものだと思っていた。そんな彼にとっても実際に服役するとなると、非常に辛い経験だった。
「最初の夜、扉が閉められて、自分がいるのはこの部屋だけだと気づいて、刑期を終えるまでここにいるんだと気づく時、そこでやっと、これは現実なんだと実感する」
しかし刑務所は、「犯罪大学」のような場所だった。釈放されて間もなく、また舞い戻った。
2度目の釈放後、バロガンは犯罪から手を洗うと決めた。大手銀行に応募し、採用面接で自分はなんでも売ることができる優秀なセールスマンだと自慢してみせた。もちろん、どこでそのセールス経験を積んだのかは説明しなかったが。
自信あふれる態度が評価され、採用された。支店の窓口で住宅ローンやパッケージ・アカウント(預金口座に多彩なサービスを組み合わせた金融商品)などを売る担当になった。そして自慢した通り、セールスはお手の物だった。
「金融危機以前のことで、当時は銀行に足を踏み入れれば、色々な商品を次々と勧められる時代だった」
バロガンの営業力のおかげで、支店の売り上げは社内でもトップクラスに急上昇した。
「仕事はうまくいっていた。自分のおかげで、自分のいた支店は地域で1位の成績をあげていた」
その働きぶりは社内でも注目され、別の支店への昇進話が持ち上がった。しかしある日、「ちょっと」と呼ばれた。
「呼び出されて、いついつから、いついつの間、何をしていたのか聞かれた。自分が刑務所にいた時期のことだ。ばれたんだ」
それまでバロガンは、刑務所にいたことを上司に打ち明けていなかった。これを機に、解雇された。
自分は「まともな」仕事は続けられないのかと、自信がずたずたになった。
「仕方がないから、一番得意なことをやろうと決めた。つまり、麻薬を売ること。犯罪だ」
それから間もなくして、仲間とナイトクラブにいたバロガンは、別のグループとのいざこざに巻き込まれた。
「誰かが銃を取り出した。自分も銃を持っていたから、たちまち騒ぎになって、結局は撃ち合いになってしまった。気がついたら自分は誰かを撃とうとしていた」
今のバロガンは34歳だ。当時の自分になぜそんなことができたのか、信じられないという。
「もちろん当時の自分も、自分が何をしているか分かっていたし、それが間違ったことだというのも分かっていた。でもいつも自分に対して正当化していた。自分はこういう人生を生きてきたんだから、自分はこういう過去の持ち主なんだから、だから自分たちはこうするんだって」
「でも今になってみれば、自分のしたことは馬鹿で無謀で最悪だと思う。本当に後悔している」
逮捕されたバロガンは、この事件への関与で有罪となり、禁錮9年を言い渡された。
英南東部ケント州にあるブランタイア・ハウス刑務所に舞い戻ったバロガンは、生活を立て直すと決心した。自分は調理師になるのだと、そこで決めた。
「毎週テレビにかじりついて、『ゴードン・ラムジーの台所の悪夢』を夢中になって見ていたので」
その希望を知った親切な看守が、別の刑務所内にあるレストランで修行したらどうかと助言してくれた。南部サリー州にあるハイダウン刑務所内では、慈善団体クリンク・チャリティがレストラン「ザ・クリンク」を運営している。そこの見習いについて、教えてくれたのだ(同団体は現在、イングランドやウェールズの刑務所でほかに3店舗のレストランを運営している。クリンクには牢屋や手錠の意味もある)。
バロガンはここで、飲食サービス業の全国職業資格(NVQ)を習得し、刑期の終盤には刑務所の外で日中働く許可を得た。仕事先として斡旋されたのは、それまで聞いたこともない場所だった。RADAというロンドンの演劇学校だ。その学食が職場だった。
バロガンは大喜びした。技術を磨きながら収入を得るチャンスだった。しかも、「正直なことを言えば、そこら中に美人がいるだろうなと思ったし」。
「刑務所にしばらくいたわけで、わかるでしょ?」
初めてRADAに着いた時は緊張していて、最初はなかなかうまくいかなかった。野菜を刻むスピードが遅すぎると指摘され、調理場ではなくバーで飲み物を出す仕事に回された。
「それでちょっと、ムッとしてしまった。『バーの仕事をしにきたんじゃない、料理ができるようになりたいからここにきたんだ』って。調理師になりたくて、いつか自分のレストランを開くんだって色々なアイディアもやる気もあったから」
そうこうしているうちにある日、RADAの学生たちによる演劇を見てみたいかとマネージャーに声をかけられた。小学校の校外学習でミュージカルの「スターライト・エキスプレス」を見たほかは、劇場に入ったこともなかったバロガンは、ぜひ見たいと手を挙げた。
校内の劇場に案内された。演目は「尺には尺を」だった。
「当時の自分にとってシェイクスピアと言えば、古くさい衣装の連中がやたら走り回ってるっていう、そんな印象しかなかった」
しかし、この時の学生俳優たちは現代の服装で舞台に立っていた。設定は現代のアメリカに置き換えられていた。
「みんなニューヨークのアクセントでしゃべって、設定がニューヨークで、みんな今風にごく普通にふるまっていた」
ほかにRADAで見た学生たちの舞台では、壊滅したロンドンを描く、フィリップ・リドリーの「Mercury Fur」が強烈な印象を残した。賛否両論のこの戯曲の上演に、バロガンは夢中になった。
「芝居を見て自分の日常を忘れる、いわゆるそういう体験だった。自分はただその場にいて、周りで起きていることの中にいて、一部始終を見ていて、夢中になった」
仕事を終えて夜に刑務所に戻ると、見た内容について周りにまくしたて、ほめまくった。友人で刑務所仲間のマービンにあらすじを説明し、場面を自分で演じてみせて、いろいろな登場人物の真似をした。
マービンは、バロガンのその様子にいたく感心していた。実に鮮やかに、芝居を再現していたので。
「お前も俳優になれると思うよ。話し方が、すごいドラマチックだから」とマービンは言った。「入り込んで、なりきってるよ」。
バロガンは疑心暗鬼だった。俳優になるなど、自分には無理だろう。
なので、考えないようにした。それにそもそも、バロガンはまたしても、やり直すチャンスを自分から台無しにするところだったので。
刑務所に携帯電話を持ち込むのは、厳しく禁じられていた。しかし、「ちょっと欲張りになっていて、何人かの友達と話したかったんだ」とバロガンは認める。
RADAから刑務所に戻る際、携帯電話をロッカーに隠そうとした。看守に見とがめられ、ただちに一切の特権が取り上げられた。
日中の外出はなし。RADAもなし。居室外に出る権利もなし。代わりに、ケント州エルムリーの閉鎖型刑務所に移送された。
「自分の中に何かがあるんだと思う。自己破壊の衝動みたいな。これまで何度もあった。いつも、自分の生活を台無しにするんだ」
閉鎖型の刑務所に戻されたカルチャーショックに対応するため、バロガンは合成カンナビノイドの「スパイス」を吸うようになった。
「あれには、かなり頭をやられる。時々、錯乱したりしていた」
自分の人生を立て直す方法を朝までに思いつかなかったら、ここで自殺しようと決めたのは、この最悪の時期のことだ。目を閉じて、自分のそれまでを振り返っているうちに、周りの人たちに言われたことが次々と結びついた。
舞台俳優に向いているのではないかと言ってくれたのは、元刑務所仲間のマービンだけではなかった。RADAでは何人か、俳優志望の学生たちと親しくなった。台詞の練習相手を頼まれたこともある。それだけ上手ければ、プロの役者になれると言われたこともある。
かつて学校の教師たちには、自分は生まれついての芸人だと言われていた。
服役していたことがバレるまでは、銀行の上司たちは自分のエネルギーやカリスマ性を褒めていた。
要するにそういうことかと、すべてが理解できた。自分が救われるには、俳優になるのが一番なのだ。
「そう思い至った瞬間、重しが取り払われたみたいな気分だった。自分の中で直感的に、それが正解だと分かった」
その翌日、精神状態の確認のため、心理学者が刑務所にやってきた。
「もう大丈夫」とバロガンは答えた。
俳優になろうと思うんだと伝えた。すると、この心理学者が実はたまたまパートタイムの演劇教師だと分かった。
この女性がそれから毎週、新しい戯曲を持ってきてくれた。ノエル・カワードやシェイクスピアの作品を次々と。初めて「リア王」を読んだ時は、よく理解できなかった。それでも、分かるようになってみせるという意志は固かった。
戯曲の意味が次第に読み取れるようになるにつれて、自分の決心は正しかったと自信が湧いた。本当にできるんだと。ならば、どうせやるなら、RADAほど最高の場所はない。
RADAの学生たちとはまだ連絡を取り合っていた。相談してみると、いかに難関か教えられた。毎年の応募者数5000人に対して、合格するのはわずか28人だ。
刑務所から釈放されても、RADAに入るという決意は薄れていなかった。しかし、ありえないこととは言え、仮に本当に合格したとして、2万8000ポンドの学費はどうすればいい? 学生ローンというものがあるなど、聞いたこともなかった。
「なので、自分が一番得意なことをやろうと思った。つまり、麻薬の密売だ。ほんの少しだけやって、金をためようと」
そこでバロガンはまたしても、麻薬を売り始めた。ただし今回は、この違法な稼業のかたわらで、ホームレス支援団体によるシェイクスピア講座も受講しながら。
それでもまたしても警察につかまり、またしても刑務所に舞い戻った。今度こそ、きれいさっぱり犯罪からは足を洗わなくては駄目だと、バロガンは思い知った。おかげで目が覚めたという。
その半年後にまた釈放され、ただちに数々の演劇学校に願書を送り始めた。
RADAの入学選考オーディションには、シェイクスピアの「ヘンリー5世」から有名な演説を選んだ。英仏百年戦争中の1415年、アジンコート(アジャンクール)の決戦を前にして英国王ヘンリー5世が兵士を鼓舞する、いわゆる「聖クリスピンの日の演説」だ。
「(ヘンリー5世が)若いころは、なかなかの悪党だった。それが国王にならなきゃならなくて、がんばるわけだ。この演説はものすごく思い入れたっぷりの、感動的なもので。読みながら、『これならできる』と思ったのを覚えてる」
「わずかなる我ら、わずかにして幸福な我らは、みな兄弟だ
今日この日に我と共に血を流す者は
我が兄弟なのだから
いかなる卑しき者もこの日によって
尊い身分に変わらないなどあり得ぬ」
選考試験からしばらくして、電話が鳴った。非通知の番号だ。RADAからだった。
動悸が激しくなった。
「演技の学士課程に合格です」。電話の向こうからそう聞こえた。
母親の台所の床に横たわり、バロガンは泣いた。
そして今年の2月末から始まった「マクベス」で、バロガンはナショナル・シアターの観客の前に初めて立った。オリヴィエ劇場の舞台で、ダフやキニアといった名優が自分の隣にいる。その様子を見て、しみじみと刑務所でのあの夜のことを振り返った。あの時、まるで霊感のように自分に降りてきた何かを。
「自分がどういう状況に置かれているか。その影響はもちろん大きい。自分に何が降りかかるか、その影響も大きい。でも、自分のことは自分で責任をとらなきゃならない時が、生きていればいつかやってくる」
「想像力は強力なものだ。魔法はその中にあるんだと、僕は確信している。何か思いついたことがあるなら、何かやりたいという強い思いがあるなら、ともかくやってみるべきだ。やってみれば、自分にどれだけのことができるか、自分でびっくりするから」
(筆者ジョン・ケリーのツイッター・アカウントは@mrjonkelly)