先日、情報法制研究所という研究室で東京大学以下各大学のデータサイエンスの方面で見本市のような発表会があったのでご一緒してきました。といっても、私自身が取り組んでいるのは研究というよりは企業さんのデータ解析の方針などのコンサルティング業務が中心なので、画期的な発表ができるような立場にはおらんわけなんですが、参加者の熱意あるプレゼンテーションを見ていると非常に臨場感があって、ワクワクするものがあります。
「データを見て判断する側」「データを作り上げる側」
で、会場を見回してみると、見事な断絶があることに気づくわけですよ。45歳の私はまさに狭間の世代で、その上の世代は「データを見て判断する側」、下の世代は「頑張ってデータから情報を作り上げる側」みたいな構造。まあ、昔で言えば「俺は判断する人、若い奴は動く人」という感じでしょうか。古き良き年功序列、偉大なるピラミッド型の奴隷労働の世界ですかね。
でも、世の中はデータを見て判断するデータ資本主義全盛で、エビデンス重視となり、何事にも数字の裏付けが必要だから日本にはデータサイエンティストが全く足りないよ、これから人工知能の時代に突入するのにそれを担う若い人が少ないからどうにかしろ、と大合唱になっています。実際、データに詳しい若い衆を何万人育てろ、みたいな無茶なオーダーがあったりするんですよね。お前ら、十年ぐらい前までは「日本にはSEが何十万人足りなくなる」みたいなことを言っていませんでしたか。
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ちょっと待てよ、と思うわけです。そのデータを集めたり、分析したり、情報にしたりする下働きは若い人、そのデータやデータから作られた情報を見て判断するのは偉い人、というのは誰が決めたんでしょう。
足りないのはデータサイエンティストではない
実際、データサイエンスの世界で言うならば、投資界隈でもICT業界でもデータは主に現場の仕事を民主化するために利活用できるという話が大前提であります。というのも、例えばいままでは企業の売上データは本社にいる営業部門やマーケティング部門が握っていて、各店舗の仕入れ担当には教えられておらず、本社からの指示で店舗が仕入れをするというのが一般的な仕組みでありました。
しかし、データサイエンスが本当に意味があるのは「各店舗のスタッフが、その店で売れそうなものを仕入れられるようにデータを利活用できるようにすること」であって、簡単に言えばいちいち本社決済などせずともエビデンスに基づいて店舗ごとに機動的な仕入れができるようにするのがいいよねという話であります。
つまり、足りないのはデータサイエンティストではなく、データを活用するために必要な仕組みや知恵であって、極論を言えばデータを扱えなくて判断も遅い老兵は死ねという、遠回しな死刑宣告であることに誰も気づいていません。
もう現場のことは現場で根拠になる数字を出して判断するから、ガラス張りの役員室で全体方針決めて一カ月後の全体報告会で発破をかければそれで終わりというようなクソ会社も、部下が前日に徹夜して作った程度の資料を見ていいの悪いの判断してうまくいったら俺の判断の手柄、悪かったらお前ら部下の責任というようなダメ役員もクズ管理職も全部死んで綺麗さっぱり意志決定しようというのがデータサイエンスの目指す民主的で本来の美しい姿だと思うんですよ。
人工知能と人力車と人力車を引く人
一方で、人工知能が人間の仕事を奪うって話もまた、危機感を持つという意味では大事なのでしょうが、仕事の質や働き方が変わる程度で、たいして大きな影響は無いでしょう。それを言い始めたら、ガソリン自動車が普及して道路が舗装されたら確かに人力車はいなくなりましたが、ガソリン自動車によって人力車がいなくなって人力車引いてる人の仕事が無くなって世の中は不便になったでしょうか。
人力車を引くことが趣味で、人力車を引かなければ死んでしまうような人にとっては技術革新がその人の趣味を奪ったのかもしれませんが、その人はそもそも他の病を患っていると思うので大勢に影響はありません。
どちらにせよ、データサイエンスでもビッグデータでもIoTでも人工知能でも、いずれの技術が勃興しようとよりお金になる働き方にシフトしていくだけで、より働ける人は人工知能を活かして生産的にやれるようになり、ついていけない人は老いも若きも仕事を失ったり給料が減ったりする、ただそれだけのことです。
「仕事は自分で作るもの」
以前、企業が採用を減らしたので「部下なし管理職」ができ、自分でお茶くみもコピーもしなければならない中高年が揶揄される時代がありました。でも、これさえも企業が働かない中高年に給料を払って組織に置いておくことのできたまだ幸せな時代の話でした。
いまや、企業勤めが続けられなくなったおじさんがたを見るのは飲食店や運送業、介護の現場などであって、もちろんこれらの仕事が上だ下だというわけではないのですが、トレンドやテクノロジーのトレンドについていけなくなった老兵の行きつく先を見て「本当に彼はこれで良かったんだろうか?」と思うことが大なのです。
生きていくためにやりたくない仕事を強いられるというのは、仕事の環境の変化に自身がキャッチアップできず、人脈作りも怠って、誰からもお呼びがかからなくなった結果、本来は「こんなことは俺の仕事ではない」と思いながらコンビニの店員をしたり、トラックを運転していたりすることではないかと感じるのです。そして、そういう中高年の姿を見て笑っている勤め人も、いずれ我が身になることだって漠然とした不安を胸に抱きながら日々を暮らしているんじゃないかと。
中高年の方のリストラ話を耳にする機会が多いのですが、やはり「仕事は自分で作るもの」であり「利益を稼げる仕事をしてはじめてプロ」という風に思う機会は多いのです。どこそこ企業の執行役員だ部長だと言われればその企業看板に頭を下げることはあっても、その組織から辞めたあとに「おお、自由になられましたか。またご一緒しましょう」とならないのはどこに理由があるのか良く考えてほしいと思うわけであります。
データサイエンスも私にとっては興味対象でありキャッチアップするべき分野なのでウォッチし続けているわけですけど、現場の手法が洗練されるほどに、それについていける中高年の率がグッと低くなるのが特徴です。また、世の中でもてはやされている人なのに理論が実践との落差を持ちすぎていて、起用されても成果が出ないまま業界から消えていくことも多い、非常に移り変わりの激しい世界です。
老兵だけの問題ではない
しかしながら、そういう現場感を持っている人こそが、歳を取られても通用する概念や技術を持っていて、そういう一握りの人たちを目指して若い人たちが集まって、細く高いタワーができているのだなあ、そこから漏れたおっさんがたというのは消えていくのだなあと思います。つまり、社会や業界から必要とされる年寄りや中高年の絶対数がグッと減っていく環境が、現在なのだろう、と。
また、新しい技術に敏感で興味津々な人たちというのは、仕事での試行錯誤だけでなく社外でも名前を知られている人も多くあり、50代を過ぎてもお声がかかり新たなキャリアに結びついている人たちもおられます。この差ってのはどこにあるんだろう、ビジネスの最前線で生き残る老兵と、いつの間にかいなくなっている老兵との間の差ってなんだろうと毎度のことながら思い悩んでしまう日々であります。
※ なお、蛇足ながら5年前から大学への企業寄付講座などでデータサイエンスのオリエンテーションなどもやっていますが、個人芸が主体であった開始当初から、BIツールやクラウド技術などの進展でツール類が発展して、さらに現在では機械的認知とかそういう方面も技術が進んで、当初最先端だと思っていたものが3年ほどで陳腐化してしまっている時代です。
中高年が勉強不足なのではなく、技術の革新による受益が大きすぎて、一般人が理解して仕事に活かそうにも「そう簡単ではない」時代に差し掛かっています。技術的には、解説書や入門書が書店に並んでベストセラーになるころには、すでにそういう手法は時代遅れになってしまっている、ということすらあり得るのです。真の意味で、勉強する力が求められ、必要とされている時代になっているのであって、老兵でなくともそもそも勉学に向いていない、ついていけない人が最先端技術の概要を理解することが困難な状況になっている、と理解してほしいなあと思っています。
(山本 一郎)