2018年3月16日、戦後イタリアの民主主義の構築を根底から覆した、と言われる『アルド・モーロ元首相誘拐・殺害事件』の40年目のメモリアル・デーを迎えました。長い時間をかけ、重要なポジションにいる検事、数々のジャーナリストたち、歴史家たちにより、あらゆる側面から、この大事件の詳細、背景が調べあげられ、もはやどこから手をつけたらいいのか分からないほどの、幾万の情報が積み上げられています。(この項は、『赤い旅団』誕生の背景 からの続きです。写真はジャンジャコモ・フェルトリネッリとフィデル・カストロ。movieplay.it 、feltrinellieditore.itより引用)
さて、1970年に誕生する『赤い旅団』のそれからの経緯を追う前に、その事件を境に、それまでは他の極左武装革命グループとほとんど変わらない評価だった『赤い旅団』(有名ではあっても)を、世界に名を轟かす極悪テロ集団へと変貌させた『アルド・モーロ事件』のメモリアルデーに寄せて、ここで少しだけ、事件の輪郭をまとめてみたいと思います。
『アルド・モーロ事件』のラビリント、そして終わりなき追求
現代イタリアにとっての『アルド・モーロ事件』は、まさに『ゴルゴダの丘』、と言っても過言ではないかもしれません。
というのもアルド・モーロが最後に書いた、自分の片腕であったキリスト教民主党書記長ザッカニーニに宛てた壮絶な手紙は、『マタイによる福音書』に描かれた、ゴルゴダの丘のシーンを彷彿とする内容でもあったからです。「あの男(イエス)を十字架にかけよ」と叫び、狂乱する群衆に向かって、総督ピラトは「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末するがよい」と言います。すると群衆全体が「その血の責任は、われわれとわれわれ子孫の上にかかってもよい」とエキセントリックに口々に叫ぶというのが福音書の物語です。
アルド・モーロの手紙は、「わたしの血はおまえたち、政党(キリスト教民主党)、そして国の上に降り注ぐだろう」と、悲劇的な予言、呪詛ともいえる言葉で締めくくられていました。敬虔なカトリックの信者であったモーロは、「あの男を十字架にかけよ」と口々に叫ぶ同僚たちの裏切りを聞き、ゴルゴダの丘のすさまじい、そして不条理な殉教ー『パッショーネ』を、おそらく示唆したのだと思います。
この『アルド・モーロ事件』に関して、すべての資料を網羅し理解するには、控えめに言っても数年かかるのではないか、と思われる膨大な情報が残されています。40年の間、オフィシャルな犯行当事者である『赤い旅団』のメンバーたち、犠牲者となった方々の遺族の告発を含め、『モーロ事件』に関する詳細を語る書籍が、とどまることなく出版され、何本も映画が撮影され、ドキュメンタリーが作られ、主要メディアだけでなく、ネット上にも(フェイクも含めて)記事が溢れている。あらゆる背後関係の分析、証拠、考察が、まるでバロック装飾のように隙間なく、細密に積み重ねられながら、しかも日々、増殖し続けているという様相です。
当時のイタリア全国民が強烈なショックを受け、深い傷を負いながらも、決して真相が明らかにはならなかった40年前のこの悲劇を、忘れることなく、執拗に追求する司法官、政治家、ジャーナリストたちの姿勢は、現代イタリアに根づく、いわばパルチザンの『レジスタンス』精神の現れとも言えるかもしれない。あるいは、「どんなに時間が経とうとも、イタリアはこの事件を絶対に忘れることはないのだ」という表明を、目には見えない彼方の次元へ向けて発信しているのかもしれません。
1. 外国諸国の関与ーグラディオ。2.『赤い旅団』による国家機構への戦争宣言、クーデターとしての政治テロ。3. 国内軍部諜報と秘密結社ロッジャP2、及びマフィアの関与。緊張作戦。 4. 国内政治権力闘争。
『アルド・モーロ事件』を現代から俯瞰するなら、大きく分けて、以上の4つのアスペクトが見えてきます。そして、膨大な資料から、これらのアスペクトが見え隠れするにも関わらず、「確かに、どうしても解けない謎が数多く存在し、国内外シークレットサービスの痕跡、秘密結社ロッジャP2のメンバーの名前がいたるところに現れて、謎は深まるばかりだが、極左テロリスト『赤い旅団』が犯した政治犯罪であるには間違いない」というのが、主要メディアのオフィシャルな見解です。
それはもちろん、当事者である『赤い旅団』のコマンドたちが「わたしたちがやりました」と自白し続け、その証拠も多く残っているからですが、現在は刑期を終え、自由の身となっているその犯行グループの何人かは、今回も主要メディアのメモリアル特集のインタビューに答えていました。そして、彼らの話す『政治テロとしてのアルド・モーロ誘拐・殺害』の物語は、40年前からほぼ同じ内容で、新しい情報が語られることは、何ひとつありませんでした。
彼らの背後にイタリア国家中枢、諸外国を含めるあらゆる共謀の可能性が、証言とともに存在するにも関わらず、当事者がすでに亡くなっていたり、嫌疑をかけられた『赤い旅団』以外の人物が起訴され裁判となっても、最終的には『無罪』となっていたりと、真相に近づこうと進められる捜査は、ある瞬間からブラックホールに吸い込まれて、確証がまったく取れなくなってしまいます。そしてそのブラックホールこそが、イタリアの『鉛の時代』のあらゆる事件に共通するリアリティでもある。『アルド・モーロ事件』に関しては、「確かに『赤い旅団』も関わっている可能性があるね」などと、皮肉めいた痛烈な評価をするジャーナリストもいるほどです。
また、次のような尋常でない告白もあります。当時、緊急設置されたヴィミナーレー内務省の危機管理委員会に加わって、『モーロ事件』に関するストラテジーを指揮した米国CIAのシークレット・サーヴィス、スティーブ・ピシェーニックが「わたしがやりました」と、その理由とモーロ元首相殺害に至るまでの状況を、延々と述べるというインタビューが出版されている。77年まで米国の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーの片腕だったというこの人物の告白は、しかし腑に落ちない部分もあり、結果、イタリア社会においては、それほど重要で決定的な証言だとは見なされてはいないようです。
もちろん、78年の武装グループ『赤い旅団』側から見るならば、当時のイタリア政治の要であり、次期大統領と目されていたアルド・モーロという重要人物を『政治誘拐』することで、55日もの間、共和国全体を恐怖に陥れ、機能不全に陥れた事実は、彼らが狂信したマルクス・レーニン主義思想に基づいて遂行した『武装政治の実現』であり、『クーデター』であり、背後にあらゆる複雑な謀略があろうとなかろうと、『政治』行為であったことは疑いようがありません。国家機構を麻痺させることで、彼らの『極左武装革命戦士』としての矜持は、瞬間的には満たされたであろうと考えます。
マルコ・べロッキオ監督の映画、『Buongiorno Notteー夜よ、こんにちわ』は、アルド・モーロが監禁されていたモンタルチーニ通り8番地1Fの名義人、イレギュラーの『赤い旅団』メンバーであった(というのも、彼女は毎日事務所に通う職業を持ち、身元を隠してフルに極秘活動をしていたメンバーたちとは違うため)、アンナ・ラウラ・ブラゲッティ(のち、『アルド・モーロ事件』の中核メンバーのひとりであり、『スーパークラン』としてシミオーニとも強いつながりを示唆されるプロスペロー・ガリナーリと結婚)が書いた告白書『Il prigionieroー囚人』が原作の、『事件』を描いた数々の映画の中でも異色の視点を持つ、珠玉の作品です。
ベロッキオは、どこにでもいる、言ってみればテロリストの顔がまったくそぐわない、女性主人公の『思想』と『迷い』、葛藤で揺れ動く心情に、ヒューマンに寄り添いながら『事件』を捉えています。少なくとも女主人公の『革命』は、学生の延長のようで子供っぽく、覚悟なく、国家に戦争をしかけた武装グループとはとうてい思えないものでもある。
実際、彼らのしかけた国家への『クーデター』そのものが、グラディオに利用された茶番と呼べるものかもしれず(彼らが決してそれを認めなくとも)、あの時のアルド・モーロの犠牲が『夢』であったらよかった、モーロが生きて解放されていれば、あのときイタリアは『希望』を失わずに済んだのに、とベロッキオは暗示しているようにわたしには思えます。ラストシーンの、『赤い旅団』の要求を決して受け入れなかったジュリオ・アンドレオッティ、フランチェスコ・コッシーガ、エンリコ・ベルリンゲル、ベッティーノ・クラクシー(唯一モーロ解放に大きな働きを見せた)をはじめとする当時の政府議会の面々、さらには教皇が醸すものものしい『現実』に、この映画の意図である「イタリアの悲劇」が集約されているのかもしれません。
第二次世界大戦の枢軸国であり、敗戦ののち、戦勝各国から、常に政治、経済をコントロールされ続けた戦後のイタリアは、冷戦下の40年前、イタリア共産党と連立組閣することで、そのコントロールを突き破ろうとしたアルド・モーロ元首相の死とともに、ひょっとしたら訪れていたかもしれない『新しいイタリア共和国の未来』をも失った。イタリアの戦後は『アルド・モーロ事件』を境に、キリスト教民主党が第1党として長期政権を維持した、第一イタリア共和国の終焉を迎えることになりました。
そういうわけで、3月16日のメモリアルデーを迎え、『アルド・モーロ事件』に少し触れましたが、『赤い旅団』の経緯を追うこの項では、まだまだその詳細までには到達しません。アルド・モーロ事件に関しては、机の上に積んだままの新刊を、少なくとも何冊か読んでから、詳細を追って行きたい所存です。
※レオナルド・シャーシャの原作を、エリオ・ペトリが映画化した『TODO MODO』(1976)は、イタリアのキリスト教民主党の政治、図らずも『アルド・モーロ事件』を予告したごとき内容となった映画として再評価されている。
そこで、ここではまず、『赤い旅団』が結成された70年まで再び遡り、いまや、イタリアの都市には必ずいくつかある大型書店チェーン、フェルトリネッリ出版の創立者、ジャンジャコモ・フェルトリネッリと『赤い旅団』の深い関係、『赤い旅団』のそれからの変化を追ってみようと思います。ジャンジャコモ・フェルトリネッリというイタリアでも指折りの富豪の家族を出自とするこの人物は、出版界においては時代が生んだ天才であり、と同時に情熱に満ちた『革命家』でもありました。
※なお、この項では主に、70〜72年代の、時代を反映するイタリア映画のクリップを記事の間に挟んでいこうと思います。
クラシックな共産主義者『赤い旅団』と、100リラ硬貨でデザインされた、いびつな形の五芒星
「CIAのスパイかもしれない」と件のコラード・シミオーニと決別し、CPM( Colletivo politico metropolitano) を解散してレナート・クルチョ、マラ・カゴール、アルベルト・フランチェスキーニ、さらにはシット・シーメンス(大手通信会社)、ピレッリの工場労働者たちが共闘で、『プロレタリアートによる専制』を実現する革命戦士集団として、『赤い旅団』を創立したのは1970年のことでした。
いったん『赤い旅団』の前身となったCPMから姿を消し、71年あたりに『赤い旅団』に舞い戻ってきたマリオ・モレッティ(78年の『アルド・モーロ事件』の主犯)をインタビューした『Una Storia Italiana イタリアのひとつの物語(1994)』を編集したのは、創刊時のマニフェスト紙の主幹、ロッサーナ・ロッサンダという、現在も健在のカリスマ的な女性ジャーナリストですが、彼女は『赤い旅団』、さらに当時のイタリアの極左運動について興味深い分析を残しています。
『赤い旅団』が、たとえばドイツ赤軍RAF、南米の革命グループやパレスティナ解放機構PLOと明らかに違うのは、それが60年代前半から続く、工場労働者たちの大きな抗議運動の波のうねりと同時に生まれた極左グループであるということ。『赤い旅団』は、ドイツやその他の国では見られなかった『労働者』というエレメントを持つグループだ、とロッサンダは言います。そういえば、確かにイタリアでは、いまでもOperaio(オペライオ)ー工場労働者は社会の『聖域』であり、工場で事故が起こるようなことがあれば、大問題に発展する。また、2018年、今年の選挙の『5つ星運動』の大躍進は、彼らを初期から支えてきたネットユーザーや若きインテリだけではなく、Operaio(オペライオ)ー現代では、工場だけでなく、あらゆる職種の人々ですがー労働者層の票を多く獲得したことが、大勝へ結びつきました。
現在も主要紙の左派の一角をなす新聞、マニフェスト紙(Il Manifesto)は、そもそもイタリア共産党の煮え切らない姿勢を激しく批判した、ヴァレンティーノ・パルラート、ロッサーナ・ロッサンダらが共産党を脱退したのち、1969年に創立した極左グループが刊行する新聞を起源としています。思想的には『赤い旅団』ともほとんど距離のない極左に位置し、したがってロッサンダは『赤い旅団』をイタリアの左翼政治のひとつの歴史だと捉え、工場労働者の抗議運動の、いわば『希望』のなかで生まれた、イタリア共産党の協調ストラテジーとは一線を画すムーブメントであった、という評価をしている。
またロッサンダは、68年あたりに形成された学生ープロレタリアートという共闘に由来を持つ『赤い旅団』を「クラシック」な「労働者」を核とした「共産主義者」たち、つまり真性の共産主義とも定義しています。当時のイタリアのマルクスーレーニン主義者たちは、工場を闘いの場として偏愛し、外部で起きるアヴァンギャルドなコンセプトには反対、政党や労働組合の一部として機能するよりは、自由気ままで自発的な闘いを自ら管理、自己完結するアウトノミーな活動を選んでいたのです。
さらに、アルベルト・フランチェスキーニもまた、『赤い旅団』は、何もない『無』から国際諜報たちが作り上げた集団などではなく、イタリアの長い左翼政治の歴史に根を持つ、ひとつの果実であるとも断言している。時代の背後で国内外のシークレット・サービスが暗躍し、結果、『赤い旅団』が謀略に巻き込まれたことより何より、「最大の問題はイタリアの左翼政治の軟弱さと、イタリア共産党が犯した過ちだ。CIAだけに罪をなすりつけるのは簡単なことだ。KGBにべったりだったイタリア共産党もまた、好き放題に『赤い旅団』を利用した。問題はイタリアの左翼政治そのものだった」、と糾弾しています。
実際、イタリア共産党は『赤い旅団』のメンバーすら知らなかった『赤い旅団』そのものの特殊な動きを、実は全て把握していた、とも言われている。いずれにしても『赤い旅団』と思想的に共鳴するロッサンダは、イタリアの極左運動に関して、グラディオは過大評価されすぎている、労働者の権力への闘い、レジスタンスは起こるべくして起こったのだ、と考えているようです。
※ エットレ・スコラ監督、マルチェッロ・マストロヤンニも労働集会に出かける1971年 『Dramma della gelosia (ジャラシーの悲劇)』
レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニ、マラ・カゴールたちが『赤い旅団』を正式に創立したのは、イタリアが、それから10年以上に渡って続く『鉛の時代』に突入した年で、各地では大規模抗議集会が開かれ、数々の衝突が起こり、次々に爆弾が炸裂していた時代です。レッジョ・カラブリアでは、軍部が出動するほどの労働者たちの大規模な抗議活動で死亡者も出る騒乱となり、イタリア中から多くの労働者たちが、続々と加勢に集まった。
また、ジョイア・タウロでは、列車が (犯人は極右テログループとされる)爆破され、6人が死亡、70人が重軽傷を追う大事故となっています。さらにはレッジョ・カラブリアの騒乱の際の軍部の挑発行為の証拠書類を輸送していたアナーキスト6人が、原因不明の事故で亡くなるなど、毎日のように大事件が起こり社会の緊張が高まるなか、青年たちが「決起するのは今しかない」と、興奮状態に陥ったことは容易に想像できます。
青年たちはグループを結成すると、ファシスト政権への激しいレジスタンスでイタリア共和国建国に貢献した、尊敬する『ガリバルディ旅団』からその名を借り、自分たちの武装革命グループに『赤い旅団』と命名。「革命家は、あれこれ無駄なことを考えてはいけない。必要な物をリュックサックひとつにまとめ動くのがパーフェクトな革命家」というチェ・ゲバラの信条をそのまま模倣して、生活必需品をリュックひとつにまとめて素早く行動する、という生活をはじめています。
その後、『赤い旅団』の存在をシンボライズすることになった、いびつな形の五芒星は、ヴェトコンやティパモラス(ウルグアイ)の『レジスタンス』のシンボルをメタフォライズ。100リラ硬貨を使って、クルチョとフランチェスキーニがデザインしています。何度やり直してもいびつになってしまうので、正確な五芒星をデザインすることを途中で諦めて「これでいいだろう」と、不規則な形のままシンボルマークにすることに決めたのだそうですが、青年ふたりが気楽な気持ちでデザインしたその五芒星が、のちに人々を恐怖と絶望の淵に陥れることになるわけです。
また、本格的なClandestino(クランデスティーノ:正体、居場所を隠して秘密裏に行動)として活動するため、犯罪組織から偽の身分証明書を調達、シット・シーメンス、ミラノのピレッリや、トリノのランチアやフィアットの工場に多くの仲間を持つというシステムを作り上げました。この頃の『赤い旅団』には100人近いメンバーがいて、さらに、そのメンバーそれぞれが10人から15人のグループを持っていたため、1000人から1500人ほどの『旅団』共鳴者がいたと言われます。資金集めは、パルチザン以来の伝統に従って「強盗」で稼ぎ、アクションに必要な爆薬、ペンキ、シンナー、ニトロなどは、全て街の薬局で揃えていたのだそうです。
そんな風に、どことなく素人っぽくはじまった『赤い旅団』ですが、はじめて起こした行動は、ピレッリの工場で8つのダイナマイトを爆発させ、8台のトラックを一度に放火するというものでした。そしてこの、当時としては仲間内の度肝を抜く派手なアクションに、他の極左グループやメディアが一気に注目し、武装グループ『赤い旅団』初のプロパガンダとしては大成功しています。
「その頃、自分たちよりも、カリスマ的なリーダーを持つ、もっと暴力的な極左グループがいたが、彼らはコミュニケーションが下手だった。僕らの名前が一気に有名になったのは、マーケティングがうまかったからだ」と、フランチェスキーニは語っている。実際、その放火事件の成功をきっかけに『赤い旅団』は一躍革命シーンへと躍り出ています。
その後の長い間、アクションとともに発表されるいびつな五芒星をロゴにした声明文のビラ、さらに、この時期クランデスティーノ(身元を隠して行動)の武装革命グループは『赤い旅団』だけでもあり、そのミステリアスな存在感もインパクトとなりました。
※1970年、アルベルト・モラヴィア原作の『孤独な青年』をベルナルド・ベルトルッチ監督が撮った The Conformist (暗殺の森)。いつの間にかファシストへと順応してゆく青年を描いた初期の傑作。
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