創価学園 特別文化講座
創立者 大詩人ダンテを語る 3
使命の山を登りゆけ 負けじ魂 ここにあり!
平和の人材光る学園城を
ダンテ 正義が強ければ世界は善くなる
一、万葉の里・交野(かたの)の天地に広がる、わが関西創価学園は、「蛍」が飛び交(か)うロマンの城です。
私の提案に応えて、関西学園の友が情熱を傾けて育ててきた蛍(ほたる)が、最初に夜空に舞ったのは、29年前(1979年)の5月のことでした。
この蛍をはじめ、東西の学園では、桜、蓮、鯉、白鳥など、さまざまな自然の命が大切に保護されています。
関係者の皆様の尽力に心から感謝申し上げます。
奇跡の連帯・蛍会
一、私は、関西学園の女子同窓生の集いを「蛍会」と命名しました。
現在、「蛍会」の友は約6,000人。
美しき「誓い」と「励まし」で結ばれた「奇跡(きせき)の連帯」となりました。
私は本当にうれしい。
蛍会
一人ももれなく
幸光れ
実はダンテの『神曲』にも、夕暮れ時、農夫が蛍を見つめる光景が詩情豊かに描(えが)かれています。
きっとダンテも少年時代、フィレンツェの森に舞う蛍を見つめ、詩心(しごころ)を膨(ふく)らませたのでしょう。
蛍は、平和と共生(きょうせい)の象徴(しょうちょう)でもあります。
一、「世界は、そのうちに正義が最も有力であるときに、最も善(よ)く傾向づけられてある」(中山昌樹訳『ダンテ全集第8巻』日本図書センター)
ダンテの獅子吼(ししく)です。
この世界を、平和の方向へ、幸福の方向へ、繁栄(はんえい)の方向へ、調和の方向へと前進させていくためには、正義が厳然(げんぜん)たる力を持たねばならない。
これがダンテの一つの結論であった。
では、正義が力を持つためには、どうすればよいのか。
それは、一人でも多く、力ある正義の人を育てることです。
その使命を厳として担(にな)い立つ「教育の大城」こそ、わが創価学園なのです。
幸福と
平和の土台の
学園城
ミケランジェロもダンテに共感
一、ダンテが心から愛した故郷フィレンツェは、ルネサンスの文化が花開いた「芸術の都(みやこ)」として世界的に有名です。
光栄なことに、このフィレンツェ市から私は、意義深き「フィオリーノ金貨」と、最高栄誉の「平和の印章(いんしょう)」をお受けしています。
ともに授章式は、フィレンツェ市の由緒(ゆいしょ)あるヴェッキオ宮殿(市庁舎)で行われました(1992年6月、2007年3月)。
同宮殿内の「五百人広間」には、ルネサンスの大芸術家ミケランジェロが創作した凛々(りり)しき青年の彫像(ちょうぞう)「勝利」が設置されています。
ミケランジェロも、200年前の先哲ダンテの文学に啓発(けいはつ)された一人です。
熱血の彼は、横暴(おうぼう)な権力悪(けんりょくあく)を許さぬダンテの強き魂(たましい)に共感を抱(いだ)き、よく論じていたという。
ミケランジェロの傑作(けっさく)である「最後の審判(しんぱん)」の壁画は、ダンテの『神曲』から影響を受けています。
ダンテの文学は、ルネサンスの文化を発展させゆく大いなる原動力(げんどうりょく)ともなりました。
哲人政治家ダンテの信念
「政治はだれのために? すべては人民のために !!」
2つ目の苦難
一、ダンテが生きた当時のフィレンツェは、ヨーロッパで最も人口の多い都市の一つでした。
「フィオリーノ金貨」が鋳造(ちゅうぞう)され、経済の中心としても、堂々(どうどう)たる興隆(こうりゅう)を誇(ほこ)っていた。
そのフィレンツェの哲人政治家としてダンテが登場したのは、30歳の年です。
そして、その5年後には、最高指導者の一人に選出されています。
ダンテの胸には「正しき政治」「正義の社会」の理想が明確に思い描(えが)かれていました。
「市民は執政官(しっせいかん)(政治家)達(たち)のためにでなしに、また人民の王のためでなくて、逆に、執政官達は市民のために、王は人民のために存在する」。(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)と。
為政者(いせいしゃ)のために人民がいるのではない。
人民のために為政者がいるのだ。
この「何のため」という一切の原点を見定(みさだ)めていたのが、ダンテです。
だから強かった。
一、ダンテは、古代ギリシャの大哲学者アリストテレスの英知を学びました。
その言葉を通して厳然(げんぜん)と主張しています。
「邪悪な政治の下(もと)にあっては善人は悪(あ)しき市民である」(同)と。
悪い権力、悪い政治のもとでは、善人こそが悪人にされてしまうというのです。
この狂った悲劇が、残念ながら、人間社会では際限(さいげん)なく繰(く)り返されてきました。
そして、まったく同じ事態が、ダンテにも襲(おそ)いかかったのです。
ダンテが最愛の人々との死別に続いて直面した、2つ目の苦難が、ここにありました。
その過程を簡潔(かんけつ)に見ておきましょう。
正しいからこそ迫害される
卑劣な陰謀が悪の手口
事実無根の罪
一、絶大な権力を持った、時のローマ教皇(きょうこう)ボニファティウス8世らは、美しき都市フィレンツェを自(みずか)らの勢力下(せいりょおくか)に収めようと狙(ねら)っていました。
この宗教権力者の一党は、自分に従うフィレンツェの勢力と結託(けったく)し、謀略(さくりゃく)をもって、フィレンツェを乗っ取ろうとしたのです。
そして、彼らの攻撃の標的(ひょうてき)にされた一人が、ダンテであった。
ダンテは、「わが故郷(こきょう)のために!」「愛する祖国の自治と独立のために!」と断固(だんこ)たる闘志を燃え上がらせて、故郷を支配しようとする勢力の動きに、頑強(がんきょう)に反対し、抵抗したからです。
そこで、ダンテが公務でフィレンツェを離れている間に、権力を掌握(しょうあく)した政敵(せいてき)たちは「欠席裁判(けっせきさいばん)」を行った。
そして事実無根(じじつむこん)の罪をでっち上げた。
彼らは、「ダンテは公金(こうきん)を横領(おうりょう)した」「教皇庁(きょうこうちょう)に対する陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てた」などという罪状(ざいうじょう)を並べ立てたといわれている。
しかし、すべてが濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)であった。
ダンテを陥(おとしい)れようとする「冤罪(えんざい)」であった。
「陰謀を企てた」のは、ダンテを無き者にしようとする敵のほうだったのです。
これが正義の人を陥(おとしい)れる手口(てぐち)です。
仏典では、陰謀の悪人に対して、「確かな証人(しょうにん)」を出せ! もし証拠がないというならば、自分が犯(おか)した罪(つみ)をなすりつけようとしているのだ。糾明(きゅうめい)すれば分かることだ」と呵責(かしゃく)されています。
一、ダンテは「国外追放(ついほう)」された。
戻(もど)れば「火あぶり」にされるという。
だれよりも、フィレンツェを愛し、フィレンツェのために戦い続けてきたダンテは、いわれなき罪人の汚名(おめい)を着(き)せられて、フィツンツェを追い出されました。
そして56歳の死まで、二度と故郷の土を踏(ふ)むことなく、受難(じゅなん)の生涯を送ったのです。
正義とは?
一、ダンテは、苦難の嵐(あらし)の中で、人間の根本問題を真正面(ましょうめん)から見つめました。
「なぜ、この世界では悪人(あくにん)がもてはやされ、わがもの顔(がお)で、のさばっているのか?」
「一体、人の世に『正義』はあるのか?」
「人道(じんどう)――人として歩む道は、どこにあるのか?」
自分自身が迫害に遭(あ)ったからこそ、その思索(しさく)は計(はか)り知れないほど深まったのです。
一、正義とは、何でしょうか。
人間にとって、正しい道、正しい生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。
これは、本当に重要な問題です。また難しい問題です。
例えば、第2次世界大戦中、日本では、戦争に反対すれば、「犯罪者」とされました。
しかし、敗戦後には、戦争に反対した人が、「正義」と賞讃(しょうさん)される時代が来た。
何が正しいのか。何が間違っているのか。真実は、どこにあるのか。
表面的な世評(せひょう)などに流されては、あまりに愚(おろ)かであり、不幸です。
物事の奥底(おうてい)を見抜いていく「英知の眼(め)」を磨(みが)いていかなければならないのです。
民衆の側に立て
一、かつて私は、東京校2期生の卒業のはなむけとして、次のように語りました。
“ 皆さんには、正義の人になってもらいたい。具体的に言えば、悩(なや)める人、苦しんでいる人、不幸な人の味方(みかた)となってほしいのです ”
“ 将来、どのような地位につこうとも、庶民(しょみん)の側(がわ)に立ち、人間生命の尊厳(そんげん)を守りゆく人であっていただきたい ” と。
ダンテもまた、「権力(けんりょく)の側(がわ)」ではなく、「民衆(みんしゅう)の側」につきました。
「人が苦しもうが、どうでもいい」「事を荒立(あらだ)てたくない」と思って静かにしていれば、弾圧(だんあつ)などされなかったでしょう。
しかし、ダンテは、「人民のため」との信念を曲げなかった。わが正義に生きた。
正義であるがゆえに、迫害(はくがい)される――。
これが歴史です。これが現実です。
ゆえに、重ねて申し上げたい。「正しい眼(め)」を磨(みが)き、「強い心」をつくっていかなければならないのです。
一、私は、創価大学で、「迫害と人生」と題して講演を行ったことがあります。〈1981年(昭和56年)10月31日〉
そこで私は、さまざまな中傷(ちゅうしょう)、迫害と戦った人物――菅原道真(すがわらの・みちざね)、屈原(くつ・げん)、ユゴーら東西の詩人、思想家ルソー、画家セザンヌらの生涯に言及(げんきゅう)しました。
とくに、悪い政治権力と悪い宗教権力は、結託(けったく)して、正義の人を弾圧(だんあつ)する。
創価教育の創始者である、牧口常三郎先生と戸田城聖先生を苦しめた迫害の構図も同じでした。
お二人の不二(ふに)の弟子であるがゆえに、私も同じ難を受けてきました。しかし私は、「戸田大学」に学んだ師子(しし)です。
ゆえに何があっても絶対に負けない。
また私には、愛する青年たちがいます。学園生がいます。ゆえに何があろうとも必ず勝たねばならないのです。
「学園生はどうするのですか?」
一、私は、創価の友に贈った詩の中で次のように綴(つづ)りました。
ある日 ある時
ふと
私は妻に漏(も)らした
「嫉妬(しっと)うず巻く 日本を去ろう 世界が待(ま)っているから」
その時 妻は 微笑(ほほえ)んで言った
「あなたには 学園生がいます
学園生は どうするのですか?
きっと 寂(さび)しがりますよ」
そうだ!
そうだ 学園がある!
未来の生命たる 学園生がいる!
君たちのためなら 私は
いかなる迫害も いかなる中傷(ちゅうしょう)も いかなる試練(しれん)も まったく眼中(がんちゅう)にない
このように詩に詠(よ)んだ私の思いは、今も何ら変わることはありません。
越えられない試練はない!
一、30年前の夏、学園生の皆が、創大生とともに、「負けじ魂(だましい)ここにあり」というテーマを掲(かか)げて、私を迎えてくれたことがありました。
〈1978年(昭和53年)7月14日の第11回栄光祭〉「『負けじ魂ここにあり』――何と素晴(すば)らしいテーマか」
私は感動しました。
その後、「負けじ魂」の精神を歌い上げる愛唱歌をつくろうと、学園生は話し合いを重ねたようです。
その年の秋、皆でつくった歌詞を、私のもとに届けてくれました。
ちょうど私は、錦秋(きんしゅう)の関西創価学園にいました。
ここで歌詞を推敲し、1番から3番までが完成したのです。
桜の舞いゆく 春の陽(ひ)に
友とかけゆく この天地
世紀を語る 笑顔には
負けじ魂(だましい) かがやけり
燃ゆる陽(ひ)ざしに 汗光り
進め 我が君 この道を
胸うつ響き 紅顔(こうがん)に
負けじ魂 ここにあり
烈風(れっぷう)りりしく 身にうけて
未来の鼓動(こどう) この生命(いのち)
喜び踊(おど)れ 丈夫(ますらお)は
負けじ魂 我が胸に
大いなる期待を込めて、4番の歌詞は、私がつくって贈りました。
母よ 我が師よ 忘れまじ
苦難とロマンを この我は
いつか登らん 王者の山を
負けじ魂 いつまでも
皆さんは、前途に何が起ころうとも、決して焦(あせ)る必要もなければ、恐れる必要もない。
「負けじ魂の人」には、乗り越えられない試練(しれん)など絶対にないのです。
いつか登らん、王者の山を!――そう歯を食しばって、今は、耐(た)えに耐えて頑張(がんば)るのです。
人生の最後に勝つ人が本当の勝利者です。
私は、学園生とともに、あらゆる難を勝ち越くえて、一点の悔(く)いもない完勝の証(あか)しを、全世界に示し切ってきました。そのことは、皆さん方のお父さん、お母さんが、よくご存じの通りです。
一、苦難と戦うダンテには、先達(さんだつ)というべき存在がいました。
古代ローマの政治指導者であった哲学者ポエティウスです。
彼は、正義のために断固(だんこ)として戦った。ゆえに俗悪(ぞくあく)な政治家たちから妬(ねた)まれ、憎(にく)まれた。そして、不当にも投獄(とうごく)され、処刑(しょけい)された。
この哲人が獄中(ごくちゅう)で書き残した『哲学の慰(なぐさ)め』を、ダンテは、若き日から愛読していました。
そこには、毅然(きぜん)たる正義の魂(たましい)の叫(さけ)びが刻(きざ)まれ、留(とど)められていました。
「悪人どもがどんなにあばれても、賢者(けんじゃ)の額(ひたい)を飾(かざ)る月桂冠(げっけいかん)は、落ちることもしおれることもないでしょう」(渡辺義雄訳「哲学の慰め」、『世界古典文学全集26』所収、筑摩書房)
知性の勝利の象徴である「月桂冠」は、いかなる悪口罵詈(あっくめり)にも、汚(けが)されることはない。
否(いな)、非難されればされるほど、いやまして光り輝くのです。
フィレンツェを追放されたダンテ
わが故郷は世界! 善の勝利へ! 「神曲」執筆に挑む
悪に反撃する強さを持て!
一、祖国を追われたダンテは、多くのものを失いました。社会的地位。名声。財産。故郷……。
しかし、すべてを奪(うば)われたのではなかった。
どんな権力も、彼から奪えないものがあった。
追放されたダンテは、「一番大切なもの」を握(にぎ)りしめていた。
それは、「正義は我にもあり!」という燃えるような「信」です。
そして、「正義がないというのなら、私が正義を明らかにするのだ!」という執念(しゅうねん)であったのではないだろうか。
そのダンテが、全身全霊(ぜんしんぜんれい)を捧(ささ)げて取り組んだ作品が『神曲』だったのです。
『神曲』をはじめ、ダンテの名著の多くは、20年間の亡命(ぼうめい)の時期に書かれたものです。そこには、力強い考察と言葉が、ほとばしっています。
ダンテは「善(よ)き事に対して悪(あ)しき証言を為(な)すものは、誉(ほま)れでなくて汚辱(おじょく)を受くべきであろう」(中山訳『ダンテ全集第6巻』同。現代表記に改めた)と綴っています。
彼は『神曲』の執筆によって、だれが見ても分かるように「正義の基準」を明確に打ち立て、悪い行いを次々と罰していきました。
そして、自らを不当に陥(おとしい)れた卑怯者(ひきょうもの)たちに、自身の真価(しんか)を見せつけていったのです。
正義なればこそ、悪に反撃(はんげき)する強さを持たねばならない。
ダンテの有名な詩には、こうあります。
「沈黙することは / その敵にわが身を結びつけるほどの卑(いや)しい / 下劣(げれつ)さである」(中山訳『ダンテ全集第4巻』同)
このダンテの炎(ほのお)のペンは、乱世(らんせ)の中で人々が迷うことがないように、歩むべき正しい道を照(て)らしていきました。
「善人が下賎(げせん)な侮蔑(ぶべつ)に置かれ、悪人が崇(あが)められ、高められた」「わたしは、悪(あ)しき路(みち)を辿(たど)りゆく人々にむかい、正しき径(みち)に向けられ得るよう、叫(さけ)ぼうと企(くわだ)てた」(中山訳・『ダンテ全集第6巻』同。現代表記に改めた)と。
傲慢と戦い抜け
一、亡命の間、ダンテのもとには、故郷フィレンツェから、「金銭を払(はら)う」などの屈辱的(くつじょくてき)な条件に従えば、帰国を許すとの提案がなされました。
しかしダンテは断固(だんこ)、2度にわたって拒絶(きょぜつ)したという。
「汚名(おめい)を被(こうむ)らされながら、汚名を被らしたものらに対して、おのが(=自分の)金銭を払(はら)うこと」は、「正義の宣伝者の思いもよらぬところ」(中山訳『ダンテ全集第8巻』同)であると。
正義の人ダンテには、自(みずか)らを迫害した者たちの誘惑(ゆうわく)に負け、屈服(くっぷく)するような卑(いや)しい弱さは、微塵(みじん)もなかった。
ダンテは語った。
「太陽や屋の光を仰(あお)ぐことは私にはどこにいてもできるではないか。
名誉を奪(うば)われた、屈辱的な恰好(かっこう)で、故国の前に、フィレンツェ市民の前に姿を現わさずとも、天下いたるところで甘美(かんび)な真理について冥想(めいそう)することは私にはできるではないか」(平川祐弘訳『神曲』河出書房新社の訳注から)
彼はもはや、故郷に戻る、戻らないといった次元を超越(ちょうえつ)していました。
この大宇宙のいずこにあろうとも、正義を貫(つらぬ)く自分自身に変わりはない。
「故郷」を追放されたダンテは、「世界」をわが故郷としました。
不当に迫害されたダンテは、大きく境涯(きょうがい)を広げ、自由自在の世界市民として飛翔(ひしょう)していったのです。
ダンテが青春時代から深く学んでいた、大詩人ウェルギリウスの詩が思い出されます。
「傲慢(ごうまん)な者とは最後まで戦い抜くことだ」(岡道男・高橋宏幸訳『アエネーイス』京都大学学術出版会)
苦しくも
勝利の春は
君待たむ
一流の人格の指導者はへこたれない 妬まない
正邪を明らかに
一、私が友情を結んできた多くの世界の一流の方々も、過酷(かこう)な迫害(はくぎ)に遭(あ)いながら、強い正義の信念で打ち勝ってこられました。
“ 人類の頭脳 ” といわれるローマクラブの創立者、イタリアのペッチェイ博士は、凶悪(きょうあく)なファシズムに囚(とら)われ、拷問(ごうもん)されても、断じて同志を裏切(うらぎ)らなかった。
南アフリカのマンデラ前大統領は、悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)と戦い、実に27年半――1万日におよぶ獄中闘争に勝利された。
アメリカの人権の母パークスさんは、不当な逮捕(たいほ)にも屈(くっ)せず、人種差別の撤廃(てっぱい)のために戦い続けた。
ロシアの児童劇場の母サーツさんは、独裁者の粛清(しゅくせい)によって最愛の夫を殺され、自らもシベリアの収容所に囚(とら)われた。その極寒(ごっかん)の牢獄(ろうごく)の中で、子どもたちのための劇場の建設を決意されました。
さらに、軍事政権と戦い、外国への亡命生活の中でも正義のペンの闘争を貫(つらぬ)いた、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁。
多くの民衆の命を奪った軍事政権と戦い、残酷(ざんこく)な仕打(しう)ちに耐(た)え抜いた、アルゼンチンの人権の闘士エスキベル博士。
中国の文豪・巴金(ぱ・きん)先生は、文化大革命の渦中(かちゅう)、「牛小屋」と呼ばれる監獄(かんごく)に入れられ、責(せ)め抜かれた。しかし、その獄中で、ダンテの『神曲』を筆写しながら、歯を食いしばって、一切を耐え忍(しの)ばれたのです。
巴金先生の胸奥(きょうおう)には、ダンテのごとく、いつの日か正邪(せいじゃ)を必ず明らかにしてみせるとの闘魂(とうこん)が燃え上がっていた。そのことを、私は血涙(けつるい)を流す思いで、うかがったことがあります。
一、皆、「自分との闘い」に勝った人です。たとえ悪口(あっこう)され、圧迫されても、何度でも立ち上がって、一生涯、挑戦し続けた人です。
一流の人格の指導者は、決して「へこたれない」。また、「人を妬(ねた)まない」。
前へ進む人、成長し続ける人には、他人を妬んでいる暇(ひま)などありません。人を嫉妬(しっと)するのは、自分が前に進んでいない証拠(しょうこ)です。成長していない証拠なのです。
ダンテは、苦難をバネにして、「汝自身(なんじ じしん)」を大きく育てていきました。「わが道」を前へ前へ進んでいきました。
きっとダンテは、「あの嫉妬深い悪人どものおかげで、わが使命の執筆ができるのだ!」と、敵を悠然(ゆうぜん)と見おろしながら、「大きな心」で前進していったに違いありません。
一、大難に遭(あ)い、大難に勝つ正義の人生は、不滅の歴史を刻(きざ)み、人類から永遠の喝采(かっさい)を受ける。
一方、正義の人を迫害した悪人どもは、永久に消えない汚名(おめい)を残すのである。
わが学園生には、正義の「勝利の旗」を未来永遠に打ち立てゆく、「栄光の使命」があると申し上げたい。
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