なぜ話が噛み合わないのか?
「福島を応援したい」「福島の農業の今後が心配だ」「福島をどうしたらいいんですか」
こういう問いを福島の外に暮らす人から何度も投げかけられてきました。
ごく一部にではありますが、こういう問いを過剰に威勢よく投げかけてくる人もいます。
どう「過剰」なのかというと、その人は「問いがある」んじゃなくて、「主張したいことがある」ようにしか思えないことがある。
なんでそれに気づかされるかと言うと、会話が噛み合わないからです。
それらの問いに対して、私は本連載で書いてきたようなことを答える。
「農業はこういう現状です。今後はこういうことをする必要があります」「あまり知られていないけど、こういう情報がありますよ」
ただ、いくら論理的に説明しても、話が全く噛み合わず、「私の知り合いの福島の人から聞いたんだけど」とか、「ネットで知ったんだけど、実は……」みたいな針小棒大・牽強付会な無駄話、あるいはただのデマ話を続ける。
要は、「福島の子どもたちを今からでも移住させて救うべきだ」とか、「政府は福島での農業を禁止すべきだ」とか、「マスメディアは情報隠蔽をやめるべきだ」とかいう自らの主張を肯定してもらいたい、その場で主張を貫き通し承認欲求を得たいだけなわけです。
残念ながら、私はその方のカウンセラーでも飲み友達でも傾聴ボランティアでもセルフヘルプグループのメンバーでもありませんので、自己肯定・承認欲求のためのコミュニケーションについてはある程度以上の対応はいたしかねます。
研究者・支援者としては事実を示し、知識をつけてもらうための言葉と理解のためのツールをつくることしかできません。
ただ、そういう極端な方の例を抜きにして、やはりまだまだ、福島の問題を理解するためのツールが足りないと、自らの力不足を感じてきました。
それは、ただ、大量の情報を集めてやたら難解な本を作ることではなく、可能な限り明確に、文脈を共有していない人にもわかりやすく、それでいて網羅的な本(『はじめての福島学』)をつくることでした。
「善意」はややこしい
「福島を応援したい」「福島の農業の今後が心配だ」「福島をどうしたらいいんですか」
こういう問いに対して、一つ、明確に簡明に網羅的に出せる答えがあります。
それは、「迷惑をかけない」ということです。
迷惑は知らぬ間にかけているものです。迷惑をかけようと思って迷惑をかけている人もいるでしょうが、そうではなく、むしろよかれと思って、悪気なくやっていることも多い。だからこそ、こじれる。
「善意」でやっていることを「迷惑をかけているのでは」と指摘されると、「私は迷惑をかけていない」と反発することになる。
この「善意」はややこしい。「福島にどう関わるか」。復興業界では「支援」という言葉が使われますので、「福島をどう支援するか」と言い換えてもいいです。
必ず、この「善意」が絡んでくるから、そう簡単に拒否したり批判できなかったりもする。
その結果、一方では、自らの「善意」を信じて疑わないけれど、実際はただの迷惑になっている「滑った善意」を持つ人の「善意の暴走」が起こり、問題が温存される。多大な迷惑を被る人が出てくる。
他方では、本当に良識ある人が「的を射た善意」も持つのに、気を使いすぎる結果、タブー化された「言葉の空白地帯」が生まれて、そこについて皆が語るのをやめ、正しい認識をだれも持つことができなくなる。迷惑が放置される。
この「善意のジレンマ」とでも呼ぶべき、「滑った善意」と「的を射た善意」という逆方向に向かう二つの矢印がすれ違う。
結果、悪貨が良貨を駆逐するように、「滑った善意」だらけになって「迷惑」が放置され、状況が膠着する。
この状況を抜け出す際に意識すべきことは一つだけです。「迷惑をかけない」ということです。
これが「福島へのありがた迷惑12箇条」だ!
では、具体的には何が迷惑か。
多くの迷惑は「ありがた迷惑」です。何かを攻撃したり、傷つけるつもりなど毛頭ない。むしろ弱者への配慮、自由や公正さの確保をしたいという「善意」があるがゆえに起こる迷惑です。
典型的な「ありがた迷惑」から、事例を交えて、見ていきましょう。
1)勝手に「福島は危険だ」ということにする
福島の農家の方から聞く事例です。
「知人が、『福島の野菜は危険だと聞きました。ぜひ食べてください』などと、他県の野菜を送ってきて嫌な思いをした」
本連載でも見てきたとおり、一次産業従事者の方は多大な努力をして3・11後の状況に対応してきました。実際にその状況もデータで示されてきました。
むしろ、放射線以外も含めてこれだけ安全性に配慮して農家をやっているところは他にないと、わざわざ福島の有機農法やっている農家から作物を買う人もいる。
もちろん「危険」なところもあるが、そうではないところもある。その実態を知らずに勝手に「危険だと慮ることこそ正義」とでも言うべき態度をとる人は、まだまだいます。迷惑です。
2)勝手に「福島の人は怯え苦しんでる」ことにする
幼稚園の先生から聞いた事例です。
「『外で遊べないかわいそうな子どもたちに元気になってほしいと思います』と、毎年絵本や積み木を送ってくる人がいる」
県内の幼稚園・保育園でよくある話なんですが、2011年4月から普通に再開して、園庭の草木を切って、砂の入れ替えもして、親御さんとも丁寧にコミュニケーションをとって、外遊びができるようにして、既に何年も経っている。
そこに対して、これまでの多大な労力を知ろうともせず、何よりも勝手に「怯え苦しんでいる」ということにして、その認識を押し付けてくる。
やっている側は、悪気はないのはわかります。ただ、「福島の子どもたちのことを思い続けている自分」みたいなのがあるのかもしれません。
たしかに、怯え苦しんでいる人もいるだろうし、そうではない人もいる。にもかかわらず、全部まとめて怯え苦しんでいるとする。
3・11直後にしたり顔して、「福島は若い人なんかみんないないんですよ。残っているのは仕事をやめられない人とか親の介護がある人だけで、逃げられる人はみんな逃げているんです」とか、偉そうに言う人がいました。
本連載の人口のところで見たとおり、怯え苦しんで「みんな逃げている」なんてことはありません。ステレオタイプな誤解を押し付けられるのは迷惑です。
3)勝手にチェルノブイリやら広島、長崎、水俣や沖縄やらに重ね合わせて、「同じ未来が待っている」的な適当な予言してドヤ顔
4)怪しいソースから聞きかじった浅知恵で、「チェルノブイリではこうだった」「こういう食べ物はだめだ」と忠告・説教してくる
これは、社会心理学でいう理論、「利用可能ヒューリスティック」として説明できます。利用可能ヒューリスティックとは、「ある事例を思い浮かべやすい時に、別な対象にも同じことが起こりやすいと自動的に判断するバイアス」のことです。
例えば、大きな飛行機事故があった後だと、人々に「人が自動車事故で死亡する確率と飛行機事故で死亡する確率と、どっちが高い」という質問を投げかけると、「飛行機事故」と答える人が増えます。
ですが、冷静に考えれば、自動車事故は毎日どの街でも起こり、一定確率で死者が出ている。一方、自動車よりは利用者が限られるにせよ、人が亡くなるような飛行機事故は日常的に起こるものではないことに気づくはずです。
「何か特徴あることが目の前にあった時に思考停止して、ある側面を過大評価してしまう思考の癖」が利用可能ヒューリスティックです。
もちろん、ある事象とある事象を比較して、共通するところと違うところとを明確にして、教訓を導き出すことはとても重要です。それは分析の基本、学問的な営みそのものです。
しかし、それは思考を豊かにするためにやるべきことであって、思考停止のためのものではありません。
ここで、もう一つ重要な視点があって、安易に福島と何かを重ね合わせることが相手にとっても無礼なことになり得るということです。
例えば、チェルノブイリでは、ソ連崩壊と経済危機、医療の不足などが相まって被害が深まった。それと、経済が比較的安定し、医療水準も高い日本とを勝手に重ね合わせて「彼らはかわいそうだ。そして私たち日本も」などと憐憫の情を向ける。
沖縄の地元に根ざした議論をする方々にとっては、彼らの歴史は「ヤマト(本土)に銃剣とブルドーザーで蹂躙された」ものであり、それを全くレベルの違う原発の歴史に重ねて「一緒だよな」などと安易に言う。
先方にもそういうのに「そうだよ、仲間だよ」と言ってくれるいい人もいるでしょうが、何も言わずに白い目で見る人が大勢いるのはたしかです。そういう話に福島の問題を巻き込むと、余計面倒になります。迷惑です。
5)多少福島行ったことあるとか知り合いがいるとか程度の聞きかじりで、「福島はこうなんです」と演説始める
これは、福島県外での福島をテーマにした講演会とか映画のトークショーとかでよくあります。2011年当初に比べて最近は減ってきましたが、福島の人間が大勢いる前で、「福島の子どもたちは外に出て遊ぶこともできず町はひっそりしている」とかドヤ顔で言う。
聞かされている側は、「朝、家の前を通学する小学生の集団がうるさくてキレそうになったんですけど」みたいなこと思っているわけですけど、黙っています。迷惑な人と絡みたくないからです。
6)勝手に福島を犠牲者として憐憫の情を向けて、悦に入る
7)「福島に住み続けざるを得ない」とか「なぜ福島に住み続けるのか」とか言っちゃう
これも、演説始める人にありがちなんですが、「都会の電気のために犠牲になった福島」とか、「我々の世代がしっかりしてこなかったから子どもたちが犠牲に」とか、「福島に住まざるを得ない犠牲者」とか。じゃあ、その反省の上で何をやったのか、と聞いてみると、何もやっていない。
そういう解釈の仕方はあるのかもしれないけど、この「憐憫の情を向ける」っていうのはとても無礼なことです。
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