1993年、Jリーグがスタートしてサッカーが大人気になる中、
FIFAの国際大会が日本で開催された。
U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)である。
開催国の日本にはその後日本代表を背負っていく若手選手が顔を揃えた。
グループリーグは大会2位のガーナに敗れたものの2位で通過。
準々決勝では優勝したナイジェリアに行く手を遮られたが堂々と大会を終えた。
そのU-17日本代表に前途を嘱望されたFWがいた。
長身ストライカーの船越優蔵はこの大会で名を轟かせた。
高校を卒業するとG大阪に入団し、すぐオランダへと留学する。
1年後、さらに大きく成長した船越が日本に戻ってきて
日本の得点力をアップさせてくれるに違いない。
そんな期待を背負って帰国した船越だったが、
その後青いユニフォームを身に纏うことはなかった……。
持ち上げられてダメになる選手はダメなんです
こうやってインタビューしてもらってるんですけど、でも僕は選手としてはまったくダメやったんで……。
まぁ、こんなの苦労じゃないと言われるかもしれませんけど、サッカーをしているときは苦しいときが多かったし、だからこそちょっとしたことが楽しかったりとかうれしかったりしたから、最終的には15年間現役生活できたのかもしれないですけど。
今から振り返ってみても、苦しいときのほうが……やっぱり多くて。でも、思い出になってるのは……楽しいときはパッと忘れちゃうけど、大変だったときは覚えてますよね。あのときは苦しかったなぁって。
アキレス腱をケガしたときが一番辛かったですね。それでも後々考えると、自分が本当に「危ない」って思ったのは1999年の湘南でクビになったときで、「自分はこの先サッカー選手としてやっていけるのかどうか」って考えてましたね。実際、客観的に見ても危機的な状況でしたね、あのときは。
U-17世界選手権のときはすごいメンバーでしたよ。宮本(恒靖)君も中田(英寿)君もいたし、(故・)松田(直樹)君もいたし。自分もその中に入れてもらって、試合ではどこにいっても、ずっとマークされてました。そのときはね。
それで高校を卒業した1996年にガンバに入って、すぐオランダに留学させてもらってたんですよ。オランダで1年間という約束の期間が終わって帰ってきたんです。オランダでは2部のチームだったんですけど、そこそこ評価されて。他のチームからの話もあったんですけど、やっぱり留学だったんで「帰ってこい」ということで。
ところが帰ったら、パトリック・エムボマがいたんです。僕はまだ若くて馬鹿で、自分の実力もわかってないし、我慢ができなかったし、先も見られなかったし。どう考えてもエムボマのほうがすごいし結果も出してるのに、監督がなかなか使ってくれないってことが不満で。
何度かチャンスはあったと思うんですよ。でも、それをつかめなかった自分がいて、しかもつかめなかったことすらも見えないっていうのがその当時で。そうなると弱い人間だったんで、楽しいほう、楽しいほうに行ってしまって、サッカーだけに集中した生活ってのができなかったですね。
それでもいろんな人が言ってくれたんですよ。「それじゃダメだぞ」って。その当時だったらコーチの西村昭宏さんや副島博志さんだったり、ベテランの選手の人たちも。でも聞く耳持てなかったのが一番ダメでしたよね。
わかんないんですよ、そのときってやっぱり。「何言ってんだよ、オレ、できるから」「大丈夫、そんなの」「違うチームだったらできんだよ」って。そんな調子に乗ったこと言ってて、思ってて。
それまでに自分が持ち上げられてたからかもしれないですけど、僕なんてそんな大したもんじゃなかったし、それでダメになったらそこまでの選手だったってコトですよ。中村俊輔にしてもヒデ(中田英寿)さんにしてもそうですけど、何を言われてもあそこまでになったんだし。それはやっぱりそういう素質があったんだし、実力があったと思うんですけど。持ち上げられてダメになる選手はダメなんです。根本的に。
ヤバいな、ホントヤバいな。サッカー辞めんといかんかな
そんな鳴かず飛ばずのときにベルマーレから話が来て。1999年でそのときベルマーレはJ1だったけど、フジタ工業の撤退が決まってて。監督は上田栄治さんで、最初試合に使ってもらってたんですけど、やっぱり2年間蓄積してしまったものってあって、どんどんメッキが剥がれて。
それでも最初は点が取れてたからよかったんですけど、そっからがダメで。そうなると、また弱い自分が出てきて、酒とかそういう遊びのほうにばっかり。Jリーガーって練習時間は短いから、拘束時間ってそんなに長くないじゃないですか。あとは自分次第で。だからその練習時間以外をどう使うかが大事なはずなのに、そういうのもまったくわかってなかったですね。
だから、練習以外の時間を全部サッカーに費やすってことができなかったんです。それでチームはJ2に落ちて、自分はクビになって。
そのときに、「オレは本当にヤバイ」と思ったんですよね。そのままじゃサッカー辞めないといけない状況やったし、今までは周りから何を言われても「何とかなるやろ」みたいなところがあったんですけど、いざ自分がそういう状況に置かれて真剣に考えたときに、後悔しかなかったですね。
やっぱり人が変わるってのは何かこう、劇的なことがないとダメなんでしょうね。僕の場合は痛みがあって、自分が変わらないともう後がないという状況でした。その危機感を感じないと変われなかったですね。
それで反省はしたんですけど、でもやっぱりサッカーをやる場所がないんですよ。もうダメだ、どうしようかってときに、(加藤)久さんがベルマーレの監督になって「お前どうするんだ?」って声をかけてくださった。
「いや、まだないです」と返事をしたら、久さんは「オレがクラブに言ってやるからもう一年やってみろ」って言ってくださって。それでやっとベルマーレで最初練習生としてやらせてもらえることになりました。
それが2000年だから22歳の終わり、23歳になる年でしたね。辛いと言うより、「どうしようかな」って。「ヤバいなオレ、ホントヤバいな。サッカー辞めんといかんかな」という思いしかなかったですね。
久さんからは「お前はもう一回、一から鍛え直さないといけない」と宣言されました。それで筋トレは肉体改造のために僕だけ全部違うメニューで。しんどかったけど、トレーナーとかコーチがつきっきりでやってくれたんです。サボれないしサボろうとも思わないし。
その一年があったから、その後の自分があったんですよ。自分の人生には何回かこういう転機があるんです。その都度救ってくれる人がいたんですけど、それがラッキーだったのか、たまたまだったのかわからないです。ただ、僕の実力ではないことだけはわかっていて。
ちゃんとした生活をすれば、まだオレできるんだ…
結局、その年に久さんはお辞めになりました。自分もまた契約満了で切られたんですけど、それでも次、J2のトリニータに行くことができました。トリニータもいいところだったんですよ。監督の小林伸二さんは同郷の先輩で、いろいろ教えてもらって。
ただ、チームは最初、石崎信弘監督だったんですけど途中で交代になるくらい、あまりいい状況じゃなかったですね。自分は伸二さんになってよく使ってもらえるようになって、ちょっとこう、復調の兆しというのはおかしいですけど、一年間久さんに鍛えられて感覚が戻ってきてたんです。
そのとき「ちゃんとした生活でちゃんとしたトレーニングすれば、まだオレできるんだ」って、ちょっとした自信でしたけどね、それが大分で芽生えたんですよ。トレーニングの成果が出るまでに半年ぐらいかかりましたけど、その半年に伸二さんが面倒みてくれたのがよかったと思うんです。
その年のJ2は同じチームと4回当たるというレギュレーションで、自分はアルビレックス戦でたまたま活躍してたんです。15節では2点取って、そのうちの1点は89分に決勝点を取って3-2で勝って、35節では延長で1-2と負けたんですけど、先制点を決めて。
そうしたらシーズンが終わってJ2のアルビレックスからお話しをいただきました。トリニータにはいろいろ迷惑をかけましたけど、それで新潟に行くことになったんです。2002年ですね。日韓ワールドカップがあって、会場だった新潟もサッカーがすごく盛り上がってました。
で、新潟で5年間ですかね。アルビレックスでは出場時間を延ばしてたんですけど、2002年、いよいよ昇格が見えてきたって10月に、アキレス腱が切れて。しかもトリニータ戦ですよ。
結局、それまでの行いなんですよね、やっぱりね。……それはやっぱり。そうだと思いますよ。そんなうまくいかないですよ。
それでもね、翌2003年には試合に出られるようになって、その年には昇格することができました。それでJ1での2年目となった2005年5月、ヤマザキナビスコカップのホームのアルディージャ戦で、またアキレス腱が切れて。そのときは切れた瞬間にわかったんですよ。「やっちゃった」って。次の日に手術です。
よくなったらすぐゴーンと下に突き落とされて。それは神様が「お前、調子に乗ったらアカン」と言ってくれてるのかもしれないし。
新潟に在籍した5年間で3度のアキレス腱断裂
2回目にアキレス腱が切れた2005年は、27歳でした。自分が挫けなかったのは、仲間に恵まれたり、周りの人に助けられたからですね。僕だけの気持ちじゃ多分ダメだった。2回目切ったときは5月で、復帰まで大体半年ぐらいかかるって言われたんです。けどJリーグって11月30日までにクラブから翌年契約するかどうか通知があるから、そこまでに復帰しなきゃと思ってました。
クラブが復帰できるかどうか不安に思ってるというのはわかりましたしね。だからプレーできるのを必ず見せなきゃいけない。それで、やっと復帰というときに、もう一回切ったんですよ。再断裂ってヤツで。最初はバシーンとキレた後に縫って、今度はもう復帰だというときに最後のところでパチッと、全部じゃないけど切れて。
そこからまた3カ月とか4カ月かかるんですよね。そのときは本当に落ち込みましたよ。これはもうアカンわ……って思いましたね。本当に落ち込んで練習にも行かなかったし。でもなんとか2006年に復帰できてプレーしたけど、それで契約は終わりでした。
それでもJ2のヴェルディに行くことができたんですよ。2007年は51節の最後のホームゲームで2ゴール、決勝点を取って2-1で愛媛に勝って、3位のパープルサンガに勝点3差で最終戦に臨めることになったんです。それで最終節は引き分けて、J1に行くことになりました。
ただね、ヴェルディとはそこで一度契約が終わったんです。ところがそのあと哲さん(柱谷哲二監督)が呼んでくれて復帰できました。それで2008年J1でやったんですけど、チームはまたJ2に落ちちゃって。
日韓W杯にはU-17の仲間がたくさんいたけど…
2002年日韓ワールドカップの日本代表メンバーにはU-17の仲間がたくさんいましたから、悔しかったというのもありましたけど……でも、何というのかな……あの……自分も見えてきてたし。もちろんプレーヤーとしては少しでも上手くなりたいという気持ちはあったけど、自分にできることは限られてて。
それに「毎日をサッカーに向かい合って過ごさないと、いつまでもサッカーで飯は食えない」という気持ちがあったんですよ、ずっと。その危機感がベルマーレのときに芽生えてました。「このままじゃダメだ」って。常に「もっとやらないとダメだ」っていうのがあって。
代表への焦りはなかったですよ。オレたちの「代表」だから応援する気持ち一杯です。まぁ普通のサポーターやファンの方とは違う目線では見てたとは思います。それでも、それはサッカー選手としては当たり前やと思うし、オレもあそこに立ちたいとはもちろん思いますよ、サッカー選手だから。
だけどあのときの仲間がやってるのが悔しくてと言うのはなくて。純粋に応援してました。もしかしたらそういうところがダメなのかもしれないですね。プロとして。
新潟でお世話になってた定食屋さんの生姜焼きは本当にうまかった
飯の話をしましょうか。僕は194センチなんですけど、別に小さいころ、何を食べてたってことはないんです。普通のご飯でしたね。牛乳もそんなに飲んでたわけじゃないし、魚はあんまり食べてませんでした。量は食べてましたけどね。
中学の時はとにかく食べてましたね。オフクロは嘆いてましたからね。でも、栄養バランス? あんまり考えなかったですね。
高校は国見高校の寮で、そのときはどんぶり飯が朝2杯、夜は3杯というのがマストでした。まぁただ、それでもやっぱり食べられないヤツはいるんです。ところが丼飯って言っても、ごはんを盛るのは人やから、盛り方にはちょっと配慮とかありましたけど。でもそれくらいの量は確保しないとあの運動量は無理だし、成長しなかったかもわかんないですね。
プロになってからは良質なタンパク質を食べなきゃいけないと思うようになりました。だから魚の白身を食べたり、野菜を食べたり。そこは意識してました。
でも僕が好きなのは肉でした。肉類はホントに食ってました。肉だったら何でもオッケーです。焼肉だったり、ステーキだったり、何でも食えますよ。今になってようやく魚のおいしさもわかりましたけど、小さいときは肉ばっかりですよ。肉、肉。肉。
新潟でお世話になってた定食屋さんの生姜焼きは本当にうまかったし、今でも付き合いがあって家族で行くんですよ。アルビレックスの中では有名で「くいしん坊」って店です。あの生姜焼きは今まで食べたどんな店とも違ってますよ。
大分に行ったら、「肉料理 嘉牛 本店」っていう焼肉屋の肉がおいしくて。そこはコーチだった手倉森誠さんが連れて行ってくれたとこです。生肉の寿司みたいなのがあって、それがまた本当においしくかったですね。
ヴェルディの時だったら定食屋さんがあるんですけど。そこは豚肉の炒めのジンジャーポークがおいしくて、僕と知り合いが行くようになってヴェルディのこと応援してくれてました。ね、肉ばっかりでしょ?
量は食べますけどさすがに2人前は頼まなかったですよ。ご飯を大盛りにしてもらってもう一品付け加えてって感じで食べてました。おいしかったなぁ。もっと店では言いたいことがあるんですよ。とにかく……おいしかったんですよ(笑)。
今の自分があるのは周りの人に助けられたから
自分が今ここにいるのも、仲間とか、周りの人に助けられたからで。その一言に尽きます。僕は何も偉そうなこと言えないし。僕には何もないです。
ただ今、僕は指導者やってて、僕ができるのはそんな経験の話かなって思ってます。若い選手に「オレが言ってるのはお前に今伝わらないかもしれない。いつか『ああいうこと言ってたな』と思い出してくれていい。けれどオレは、オレみたいな経験をしてほしくないから今やれって言うぞ」って。それは、もしかしたら他の人にはないところかなと思ってますけど。
そうそう、今の若い選手は食べる量が全然ダメです。少ない。成長しないんじゃないですかね。食べることと寝ることぐらいしかないでしょ、体を大きくできることって。トレーニングは僕たちがしっかりやるから大丈夫ですけど、食べることと寝ることはある程度本人に任せますからね。もちろん栄養指導はしますし提言はしますけど、食べる量は圧倒的に少ないです。
自分はコーチとしてちゃんとしてるかどうかわからないです。でもS級コーチライセンスも取りたいと思うので、違った形で勝負もしていきたいと思います。そうなったときも周りの人たちに感謝ですよ。そんなこと考えてなさそうに見えるくらい、見た目は悪いって言われ慣れてるんですけどね(笑)。
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船越優蔵 プロフィール
国見高校時代の1993年にU-17世界選手権に出場。ベスト8進出した同チームの中心選手として活躍し、自身も1得点を挙げた。1996年にG大阪へ入団。その後は新潟や大分などチームを渡り歩き2010年に現役引退。
2011年からは指導者へ転身し現在はJFA福島で男子U18チャレンジ監督を務める。
1977年生まれ、兵庫県出身
取材・文:森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。