忘れてはいけないのは、この巻頭言のような物言いは、決して『世界』のみに見られるものではないということです。このような認識が、左右を問わず広く定着していたことが問題なのです。
1990年代終わり〜2000年代の〈劣化言説の時代〉においては、若者を語ることで社会を語るというスタイルが定着していきました。通俗的な若者論は、我が国の現代思想の少なくない部分を占めるようになったのです。
このような傾向が始まったのは、1980年代頃とみられます。この時期に、現代の若者論を決定づける3つの動きがありました。
第一に、浅田彰などに代表される「ニューアカ」(ニュー・アカデミズム)が、若い世代の研究者による新しい知性としてもてはやされたことです。
特に浅田は、『逃走論』(ちくま文庫、1986年)に収録された論考で、読者層である若い男性に対して「闘争」ならぬ「逃走」を呼びかけ、上の世代に対して自らの世代こそが新しい想像力を持っていると鼓舞しました。
第二に、諏訪哲二や河上亮一などの論客を輩出した「プロ教師の会」です。先の『世界』に見られるような、現代の子供たちが消費社会を生きるようになり、大人たちとはまったく違う想像力を持つようになってしまったという議論は、この団体がそのような認識を喧伝してきたところが大きいでしょう。
ただこの議論はあくまで現場からの「実感」に基づくもので、学術的に検討されたものとは言えません。
第三に、中森明夫による「おたく族」論です。この議論ではアニメなどを好む青年を「おたく族」として批判的に論じたものです。これが元となり、後に岡田斗司夫によるオタク論などといったものに発展していきました。現代の若者論のスタイルは、概ねこの1980年代に成立したものと見ていいでしょう。
そして1990年代になって、「若者をダシにして社会を語る」スタイルが一気に加速しました。その先陣を切ったのが宮台真司です。
宮台はテレクラや援助交際などの、若い女性をめぐる社会問題を皮切りとし、その後オウム真理教によるテロ事件や1997年の神戸市児童連続殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)、1998年の黒磯の教師殺傷事件などで、若い世代の「変化」をダシにして自らの主張をメディア上で展開していきました。
それと同時に、社会不安が醸成される中で、その不安の矛先が若い世代に向けられ、若者を「恐怖」の対象として語ることで自らの主張の正当性をアピールする流れが定着していきました。「新しい歴史教科書をつくる会」などはまさしくそのような動きに乗った政治運動と言えるでしょう。
そして2000年代になると、様々な分野の人間が若者論に「新規参入」してきます。
例えば、脳科学者の澤口俊之は、著書『平然と車内で化粧する脳』(南伸坊との共著、扶桑社、2000年)で、電車内で化粧をする若い女性の脳が劣化していると指摘して注目を浴びました。
また動物行動学者の正高信男は、若い世代のコミュニケーションを「サル」に喩えた『ケータイを持ったサル』(中公新書、2003年)がベストセラーになりました。それ以外にも、臨床心理士、社会保険労務士、医師、書家などが、若者論に次々と参入していきました。
そして、宮台をはじめ、香山リカ、東浩紀、内田樹、宇野常寛などといった世代論、若者論、教育論出身の論客は、いまや「総合論客」としてあらゆる分野で発言するようになっています。
若者論者を言論界のスターダムに押し上げ、そして様々な分野の人間を若者論に参入させた「若者を語りたがる欲望」は、我が国の論壇、思想界隈を大きく変えました。
しかしその背景にあるのは、「若者」イメージを消費し、検証されないまま流布させることを許してしまった社会状況です。我が国の「評論」がそういった歪んだ来歴を持っていることを認識する必要があります。