バカ殿の慶喜
今回は、薩摩藩主島津斉彬の5男虎寿丸が5歳で他界したから、安政元年(1854)ころの話か。同年閏7月には、斉彬が健康を害している。悲しんだ庭方役の西郷吉之助は、斉彬の襲封に反対していたお由羅の呪いであると信じ、暗殺を企てたという。
この年、斉彬は洋式騎兵隊を創設したり、洋式大型軍艦や蒸気船の建造に着手したりと、軍備強化に忙しいはずだが、そういう部分はドラマでは描かれない。そのかわり、時期的に見て早すぎる気もする、将軍家の御家騒動がかなり盛り上がっている。
斉彬や越前藩主松平慶永などは、次期将軍に一橋慶喜を推す。
「一橋様にしか、難局は乗り切れない」などと絶賛しているが、なにがそこまで有能なのか、よくわからない。このドラマで描かれる慶喜は、品川の妓楼に入り浸っているバカ殿である(あるいは「遠山の金さん」みたいに市井に潜り込み、遊び人の振りをして、実は何かの問題解決に向けて行動しているというオチがつくのだろうか)。
実際の慶喜は、かなり有能な人だったはずだ。だから、将軍にと推された。しかし、そうした予備知識無しだと、斉彬や慶永は風俗狂いのバカ殿を担いで将軍に据えて、自分たちが好きなように幕閣を操ろうと企んでいる陰謀家に見えるかも知れない。実際、大河ドラマは海外にも輸出されており、そうした史実を一切知らない視聴者は、どう考えるのか興味あるところである。
藩主一族と西郷のお付き合い
このドラマの西郷の無能ぶりも、エエ加減うんざりして来る。デクノボウと呼ぶのに、ふさわしい。相撲が強いという理由から篤姫に気に入られ、斉彬の庭方役になったと記憶する(もちろん史実ではない)。しかし相撲は強くても、その言動の数々は、あまり知性を感じさせない。史実ではこの年28歳なのだが、そんな風格も一切無い。「花燃ゆ」の時もそうだったが、エエ年をしてコスプレで「志士ごっこ」を楽しんでおられる現代の人に見えて来る。
庭方役とはいえ、西郷がやたらと藩主に質問を発するのも、どうかとは思う。「釣りバカ日誌」の浜ちゃんとスーさんの関係がモチーフなのか。しかも、今回は高輪の下屋敷まで押しかけて行き、前藩主斉興やお由羅に会っていた。
別に西郷は大出世して、藩主やその一族と気やすく付き合える立場になったわけではない。ただ、集めて来た機密を報告したり、秘密のミッションを与えられたりするため、藩主と庭先においてひそひそ話が出来るのだ。勘違いしてもらっては困るのである。
実際の西郷は、諜報員なのだからドロドロした、政治の裏舞台で奔走していたはずだが、そんな感じは無い。むしろ諜報員には最も不向きの、おっちょこちょいのお人よしさんである。
明治維新150年の忖度
以下ちょっと横道に逸れるかも知れないが……。いま、国会で喧々諤々やっている問題が、「明治維新150年」と重なって見えて仕方がないので書いておく。
最近、特定の明治維新の人物に対する評価を、政治の力で行政サイドが強引に一定のもの(もちろん美化しまくって)にしようとする動きがある。たとえば、吉田松陰は近代工学のパイオニアとして、評価しなければならないそうだ。また、老中暗殺計画などは、諸説ある中のひとつに過ぎないから、触れてはよろしくないらしい(諸説も何も、松陰自身がはっきり書き残しているのだが……)。
密室に呼び出された僕は、30年以上やって来たことに対し、侮辱的なことを言われ、「自覚がない」などと「お叱り」を受けた。何年か前、松下村塾は近代産業遺産として、世界遺産に登録された(僕は一切関係していません)。それにつき、何やら世界レベルで問題が起こっており、もし取り消しになったら、お前のせいだとの旨「脅迫」された(僕には、ユネスコを動かす力はございません)。
こっちは官邸云々の裏事情など分からない。「忖度」しようにも、やりようがない(もちろん、する気もない)。にもかかわらず、すっかり非国民扱い、みんなの「敵」に仕立てられてしまいそうな勢いである。しかも、ある程度の社会的地位のある人たちからの「脅迫」であるというのが、おっとろしい。
あげくは今後、書いたものは発表前にすべて検閲、誰といつどこで会ったか、どんな話をしたのか、どんな応答をしたのか、6項目に分けて書き出し、報告せよと「命令」する始末。まるで、犯罪者扱いである。
察するに、僕が30年以上研究対象にして来た明治維新史上の人物たちが、よろしくないらしい。これらの人物は、なぜか、ここ数年政治の場で「イメージキャラクター」のように利用されることが多い(これも僕は一切関係していません)。誰かが勝手に都合よく創ったイメージに傷がつきそうな史料や評価は、徹底して抹殺しておくという「忖度」であろう。
こっちは、ずっと以前からチマチマと研究を続けて来たのだ。149年であろうが、151年であろうが知ったことではない。ほっといてくれというのが正直なところだが、それは無理らしい。
そもそも僕が、歴史上の人物を「尊敬している」か「尊敬していないか」なんて、どこの誰が、何をもって判断するのか。「お前は尊敬度10点だ」とか「70点だ」とか「100点だとか」、決めつけられなければならないのだろうか。
歴史上の人物を奉賛するのも、崇敬するのも結構(その多くは僕には単なる、身勝手な自己愛の変形にしか見えない。もちろん、そんな者ばかりではないことも確かである)。ただ、それによって現世を生きる他人を平然と攻撃する権利まで与えられたと錯覚している者がいるから、困ったものだ。「愛国心」とか「郷土愛」もまたしかり。
僕は好き、嫌いで歴史上の人物を評価する趣味はまったくない。悪口を言う気も、まったく無い。そもそも、会ったことも無い人物に対し、生身の人間同様の感情など抱けるわけがない。これは、歴史に興味を持った子供のころから一貫している。
日銭稼ぎのために大河ドラマを観て、批評を書いている僕など、本来ならば箸にも棒にもかからない存在だろう。もし、近所の豪農の地方文書でもテーマに選び、30年ねちねちと研究を続けていたら、耐え難いほどの侮辱を受けることもなかったはずだ。
「忖度」はこうした勢いで、下へ下へと流れてゆく。政治と学問の境界線など簡単に突破して、理不尽な形になって、僕のような末端の者に突き付けられる。30年も続けて来たことが、容赦なく土足で踏みにじられる。特定の人物を祭り上げるため、官邸の影をちらつかせたり、議会で名指しで吊るし上げて個人攻撃をするのだから、自殺してしまう公務員が出ても無理はない気がする。「日本国憲法」など、どこ吹く風である。
以前、徳富蘇峰や末松謙澄の明治維新研究の成果に、政治が介入したという理不尽な話を書いた。それを僕は過去の「歴史」だと思っていた。しかし「明治維新150年」というお祭り騒ぎの中で(市民レベルでは、あまり盛り上がっているようには見えませんな)、自分もまた否応無しに、これらの「歴史」の延長線上に立たされていると、それこそ「自覚」させられた。自分の経験が「史料」になるのだ。そういう意味では「明治維新150年」、実に考えさせられることが多い。
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